隣の部屋のタチバナさん
久しぶりにラブコメ書きました。
「うーーむ……なかなか浮かばないもんだなぁ」
オープンテラスの日当たりのよい席。春の心地よい陽気に眠気を誘われつつ、僕はスケッチブックを片手に、ひとり頭を抱える。
ここはとある芸術大学。そして僕、佐倉 優は美術学部の芸術学科に属する大学 1 年生。
芸術学科は文系や理系とはまた違うマイナーな学科である。一見簡単そうな印象で見られがちなのだが、それらとはまた違った難しさがある。正解のない問い、模範のない課題ばかりが学生たちを追い詰める。それを知って入った僕らは、立派な芸術家になるべく修行を喜んで受け入れられる変わり者しかいないのかもしれない。
「お、優。ここにいた」
聞き慣れた声に振り返る。気さくに手を振るのは友人の瀬尾 藍斗。同級生の中でも比較的仲が良く、 2 人 1 組の課題でも一緒になることが多い。そもそもこの大学は女子が多いので、数少ない男として親密性を感じたのかもしれない。
爽やかな顔立ちのいわゆるイケメン。如何にも大学生らしい軽くてノリのいい性格で、男女問わず人気のこの少年。一見芸術とは無縁そうだが、独特の観点とタッチで見事な絵を描くアーティスト。まだまだ拙い僕にとっては、模範であり目標でもあった。
「来週自由課題だよな。どうせ煮詰まってんだろ?」
「うーん。まあそんな感じ」
「お前ほんと苦手だよな。想像力はアーティストの必須スキルだぞ?」
彼のいうように、僕は一からものを考えるのが苦手だ。与えられた課題なら手際よくこなせるのだが、自分で考えろといわれるとそうはいかない。基本は背景ばかり描くのだが、それはその場で見たインスピレーションでつくられるものであって、決して創造したわけではない。きっと僕が神様になって世界を創ろうものなら、白黒しかなく形も曖昧で質素な世界しか生まれないだろう。
これといった趣味もなく、特技もない。そんな白紙のスケッチブックのような人間だった。
「……おや、先約がいましたか」
「あっ、タチバナさん」
タチバナさん。 1 つ上の先輩で、僕の住んでいるアパートの隣人。未だに本名は知らない謎多き女性。
透き通るような薄水色のロングヘアに、整った顔はいつも凛としている。あまり感情を出さないし、態度も非常にそっけない。学校ではいつもひとりらしく、その素性を知るほどの友達はいないらしい。そんな彼女の変人力を飛躍的に高めるのが彼女の創作観。彼女はどうやら
萌え絵しか描けないらしい。
日本画、油絵、版画。あらゆる実習課題で二次元の萌え絵を提出し続け、先生も頭を抱えたという。何故風景描写の課題で明らかに違う世界の二次元美少女を描いてきたのか、果物のスケッチで擬人化されているのか、問題は計り知れない。
それでも没にならないのは、異常なまでの技術と書き込みが施されているから。プロ顔負けのテクニックを持ち合わせていながら、何故二次元美少女しか描けないのか。謎は迷宮に入ったまま動かない。個性の塊とはよく言ったものだ。
そんな彼女と上手くやれている自分が不思議に思う今日この頃。週に何回か彼女の部屋でご飯をつくったりする間柄となった。
「学校で会うなんて珍しいですね。空きコマ(*)ですか?」
*授業と授業の間にある隙間。 ex.3 限と 5 限がある場合、 4 限の時間が空きコマ
「はい。来週提出の自由課題で煮詰まってまして」
「ありますよね。私も、次はどのアニメのヒロインを描こうか、決まらないまま時間が過ぎてゆくことが度々あります」
「それはまた違うような……?」
そんなタチバナさんに僕は今、きっと恋をしているのだろう。というのも、今まで自分はそれらしい想いを抱いたことがないので、断定はできない。
それでも、この好奇心は、高ぶりは、きっと恋なんだと思う。初恋の人が二次元美少女しか描けない電波少女というのも、どうかとは思うが―――
「今日は予定通り夕飯をごちそうになります。それではこれで」
「あ、はい。また」
そういってタチバナさんはくるりと踵を返し、その場を後にした。
その背中をぼーっと眺めていると、瀬尾がこっそりと近づき背中を強く叩く。僕は思わず鈍い悲鳴を上げてしまった。
「あれが例のタチバナさん? すごい美人だなぁ。最近のオタクっていろんな人がいるのな~」
「ッテテ……まあ、あんな人たくさんいたらそれこそ日本の終わりって感じだけど」
瀬尾は僕の顔を見て、ニヤニヤと笑っている。彼はタチバナさんとの事情を知っているので、可笑しくてしょうがないのだろう。実際に、彼に恋だと言われなければ、僕は永遠に気がつかなかったかもしれない。
無色透明な僕の人生に現れた鮮やかで多彩な色を持った人。彼女はどのような色を僕に与えてくれるのだろうか。もとい、僕はどれくらい彼女の色に染まるのだろうか。
☆
その日の夜。僕は食材を持って彼女の家にお邪魔した。
「こんばんは~遅くなってすみません!」
「いえ。私もちょうどお腹が空いてきたので。それに、わざわざつくっていただくのに贅沢は言えませんから」
在宅中の彼女はいつもジャージ姿だ。本人いわく、動きやすくちゃんと暖もとれる。汚れても外に着ていくわけではないので安心。これ以上便利な服はないと豪語していた。おかげで彼女のジャージは絵具の汚れが点々とついている。部屋もどこか、油絵具の独特な香りが残っている。
しかし気付いてほしい。ジャージにはジャージの魅力というものがあり、タチバナさんはそれを見事に演出している。前は開けて肌着である黒の T シャツが顔を出しており、胸のラインがよく見える。さらに学校ではきちんとした洋服を着ているので、そのギャップもまた乙というもの。服が大雑把だと、本人の素材の味が出るということを彼女にも気付いてほしい……
「ぼーっとして、どうかしたのですか?」
「い、いえっ! すぐにつくるので待っててください!」
強引に彼女を振り切り、キッチンに荷物を置いて準備を始める。その最中、タチバナさんは昨日の深夜アニメを見ながら待つというのがいつもの構図だ。
「ふむ。だいたい E カップくらいですね。それにしても、このアニメは巨乳が多すぎる気が」
綺麗な女性がぶつぶつと呟きながら、スケッチブックを片手にアニメを見るというのは如何なものだろうか。ついでに男がひとり後ろで調理しているのですが。
「あの、タチバナさん。それ面白いですか?」
「キャラはかわいいです。むしろそちらばかりに目が行ってしまってストーリーが頭に入りません」
「左様ですか……タチバナさんはその、男のキャラとか興味ないんですか? ほら、女性向けアニメとか」
タチバナさんはパタリとスケッチブックを閉じ、強い眼差しで答えた。
「オスに興味はありません。かわいくないし、やたらかっこいいオーラを出してくるところが気に入らないです。ハッキリ言って邪魔です。すべて女子だけのアニメのほうが安らぎますし、想像力の糧となります」
「随分ハッキリしてるんですね……」
せめてアニメからでも好みの男性像が掴めればと思ったが、この様子では到底無理な話だ。僕の想いが成就される日は、果していつ来るのやら―――
「ご飯できましたよ~」
小さなちゃぶ台に夕食を並べると、彼女は四足歩行でやってきて、ちゃぶ台の前にちょこんと正座した。手を合わせて「いただきます」と呟き、端で肉じゃがを口に放り込んだ。
「作り置きしたんで、明日の朝と夜にでも食べてください」
「いつもすみません。私がもっと料理ができれば、あまり迷惑はかけないのですが」
「いいんですよ。好きでやっていることですし」
初めて彼女の料理を見たとき、それは魔女のつくった毒入りスープか何かと錯覚した。本人いわく比較的よかったらしいが、あれは人間が食べてはいけないものだと、僕の舌が教えてくれた。
タチバナさんは絵以外のことはほとんど何もできない。少なくとも僕が見てきた中では、洗濯機のボタンを押せていたくらいだと思う。僕が来るまでどんな生活をしていたのかと思うとぞっとする。
身の回りの世話をしなくてはいけない。僕は本能的にそう感じ取ったのだった。
……最初はそんな親切心からだった。僕とタチバナさんの距離が縮んでいくにつれて、僕の心はだんだん変化してゆき、やがてそれは『恋』となった。だがそこに後悔は無く、むしろいいことだと思っている。
初めて人に人格を肯定された。その瞬間から、僕の白黒だった人生は色づき始めた。
今は彼女を支えるだけでいい。僕の気持ちは、いつかどこかで打ち明けよう。それまでは、この人の手となり足になろうと誓った。
「そういえば、自由作品につまずいていると言っていましたね」
「うぐっ。はいそうなんです」
「それでは、学校へ行く途中の橋はどうでしょうか。川の上に横たわる橋、そこから眺める夕焼けはとても綺麗です。優さんは風景描写が多いので、参考までに提案してみました」
「あの橋……そういえば、夕焼けはまだ見ていませんでした」
「はい。できたら私にも見せてください。優さんならきっといい作品が描けると思います」
彼女の表情が緩んだ瞬間、僕は心臓が止まりそうになった。普段の凛とした表情からは打って変わって、柔らかい陽光のような彼女の笑みは、一度見たら脳裏に焼き付いて離れない。
こんな顔を見られるのは、きっと学校でも僕しかいないだろうと優越感に浸ってしまう。やがて唖然としたまま彼女の顔を見つめ続けていることに気がつき、急いで目を逸らす。
「どうしたのですか? なんだか耳が赤いですよ」
「き、気のせいですよ。ほら、片付け手伝ってください!」
「はい……?」
やや納得のいかない微妙な表情を浮かべ、自分の皿を台所へと持って行った。
洗い物が終わった後、僕は自分の部屋に戻って黙々と作業に取り掛かっていた。
まだ夕焼けを見たわけではない。ただ、この昂ぶる高揚感を表すべく、感情のままに鉛筆を振るった。簡単な構図をつくり、橋のラフ画を書き、遠くに見えるビル、下に流れる川を描く。正確な形や角度は明日見ないとわからない。それでも今は、何かを描いていないと気が済まなかった。
こんな衝動は初めてだ。何かを描きたいという強烈な創作欲。今までなんとなく描いていた感覚を忘れ、一心不乱に書き殴った。
はっと我に返ったのは、自らのケータイが小刻みに震え出したときだった。電話がかかってきていることに気がつき、慌ててケータイを握る。
『おっすー。藍斗だけどさ、明日画材屋行かね? 新しいスケッチブックが欲しくてさー』
気の抜けた友人の声に思わずため息を漏らす。数秒前までの焦りを返してほしい。
「ああいいよ。俺もいろいろと補充しないと」
『その声は何か浮かんだ感じか?』
図星を突かれ、思わず言葉に詰まる。彼は恐ろしいくらいに勘がいい。どこかの誰かに分けてほしいくらい……いや、言ってもわからないだろうな。
「うん。もしかしたら、今までで一番いいものになるかもしれない」
その言葉には慢心も過大評価もない。この感覚は、間違いなくこの人生で一番の手ごたえ。そう断定できるほど、今の僕は自信に満ちていた。
まったく、好きな人のたった一言で本気になってしまうなんて、僕は浅はかだ。
☆
後日、提出した作品が展示されていた。自由作品というだけあって今回は色とりどり、個性豊かな作品が揃っている。
自分の作品を探す。順番に目で追って、追って、追って―――
そこには、オレンジ色の美しい夕焼けの作品が飾られていた。それは僕以上に堂々と、強く自己主張をしていた。今となって見れば直したいところがぽろぽろと降ってくる。細かいところを指摘すれば数えきれない。
しかし、その絵の右端には、立派な金色のリボンが巻かれていた。優秀作品を意味するそれは、課題得点において最高の名誉だ。
えも言われぬ喜びはゆっくりと込み上げてきた。
爆発するでもなく、声が出るわけでもなく、ただ胸の中で小躍りしていた。単なる授業の課題ではあるが、僕は単純に喜んでいた。
「よっ。見させてもらったぜ。今回はまあ……完敗だな」
隣に立った瀬尾がぽつりと呟く。その台詞にただ驚き、すぐさま謙遜を露わにした。
「そんなことないよ。瀬尾のはほら、おしゃれだし細部まで目が行き届いてるし、全然敵わないよ」
「はいはい。今回はそういうの無しな。絵ってさ、技術とか云々より人を惹きつける力ってあるだろ? お前はそれで俺を上回った。それだけだろ。ま、技術はまだまだ俺のほうが上だけどなっ」
ふんと鼻息をたてて腕組みする瀬尾に苦笑いする。こうやって素直に褒めてくれるところは彼の長所といえるのかもしれない。そんなところが憧れるし、僕もそんな人間になりたい。
「早くこれを見せたい人がいるんだろ? 呼んでこいよ」
「……そうだね。行ってくる。ありがとうな瀬尾」
「いいってことよ!」
瀬尾に見送られ、僕は走った。アテはなくとも、ただひたすらに走った。どこかにいる、早く見てほしい。
彼女のために描いた、この作品を。今の僕が描ける最高の作品を―――
「タチバナさんっ!」