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「ペット飼いたい~」

「長船、お前何でジル泣かしてるんだ!」

「あ、晶子泣かしてないよ~」

「あたしも見た、登校の時からジル泣いてた!」

「そ、それは朝からジルが泣いてて……」

 ジル、泣きます。皆さんもこんな経験ないですか?


 ジルと晶子は一緒に下校していた。

「今日も学校楽しかったです~」

 そんなジルの鼻には丸められたティッシュが押し込んであった。

 嬉しそうにしているジルとは対象的に、晶子は渋い顔をして言った。

「ジル……そんなに学校楽しかった?」

「はい、特にドッチボールがよかったです~」

「ど、ドッチが?」

「ですです、今日はちゃんとキャッチ出来ました~」

 ジルは晶子に微笑んで見せた。


 昼休みの日春北小学校。

 裏運動場では四年二組男女対抗ドッチをやっていた。

「ぼくは開始早々狙われました~」

「そ、そうだね……」

 ジャンプボールでは、クラスでトップの身長を誇る響子が女子陣地にボールをもたらしていた。

 落ちたボールを晶子が拾い……逃げ遅れたジルに向かって投げた。

 晶子は先日のジルを見て、ジルに対してだけは力加減をして投げようと決めていた。

「いきなりあっちゃんの剛速球にはびっくりしました~」

「そ、そう……」

 ジルが嬉しそうに言うのを聞きながら、晶子は三割がたの力だと思った。

「ぼくが避けたら、外野の響ちゃんがボールを拾ったんです~」

「う、うん……」

「次に、操ちゃんがボールをパスしてもらって投げました~」

「そ、そうだね……」


 下校途中、ジルは足を止めると拳を固め、ブンブン振り回した。

「それをぼくがキャッチしました!」

 晶子はジルの言葉に笑っていたが、操はクラスで一番ボールの威力が弱かった。

「そ、そうなんだけど……」

「何、あっちゃん?」

「その後、ジルが投げたボールを晶子が取って、投げ返したんだよね……」

 それまで笑っていたジルの表情がこわばった。

 それから晶子をじっと見つめ、ちょっと膨れると、

「そうです、ぼくにボールをぶつけたのはあっちゃんです!」

 ジルは怒った顔をして晶子の腕を掴んだ。

「あっちゃん顔を狙ったら反則です!」

「え、あ、そ、そう?」

「みんな言ってました!」

「そ、そう……」

 晶子は返事をしながら、その時の状況を思い出していた。


 晶子が振りかぶった。

 その瞬間、晶子の脳裏で前日の出来事が鮮明に思い浮かんでいた。

 ボールが手から離れる刹那、晶子はその腕の、そして指先の力をほんのちょっとだけ抜いていた。

 ボールのでこぼこや、描かれた文字が見えるようなスローボール。

 ヘロヘロなボールはジルに向かって山なりな軌道で飛んで行った。

 ジルがあわてふためいて足をからませる。

 先日もそうだったように、転んでしまうジル。

 運動場に大の字になって倒れたルの顔面に、晶子の放ったボールが落ちてきた。


「みんな言ってました~!!」

「そ、そうだね……」

 晶子は返事をしながら、渋い顔をしてジルを見つめた。

 ここ二日の激戦で、その都度顔面にボールを受けていたジルの銀縁眼鏡はフレームがゆがみ、レンズは割れてこそなかったが傷だらけだった。

「あっちゃんが……」

「ジル……晶子が言うのもなんだけど、ジルはドッチに向いてないよ……」

 晶子の言葉にジルはムッとしたが、次第にそんな表情も元気のないものになった。

「ですです、何かぼく、すぐに足がからみます~」

「ジル、運痴なんだね」

「ぼくはうんこじゃないです~」

「運動音痴って事だよ~」

「ああ!で、運痴ですか~」

 ジルが笑うのに、晶子もクスクス笑いだした。

 話しているうちに、ジル達はコンビニの前に着いてしまった。

「では、バイバイです~」

「じゃあね!」

 晶子が手を振りながら行ってしまうのに、ジルは走って二階に上がった。

 ジルは今日のドッチの成果をまさとに早く報告したくてドアノブをひねった。

 しかし、ノブをひねる事は出来ても、ドアを開く事が出来なかった。

「あれ?」

 ジルは何度もノブをひねり、ドアを押したり引いたりした。

 いくらやってもガチャガチャいうだけで開かないドア。

 ジルはノブの上についている鍵穴を見て青ざめた。

「鍵……ぼく持ってない!」

 ジルはここにやって来た日の事を思い出した。

 そして背中が汗でびっしょりになりながら、激しくドアを叩いた。

「まさとさーん!」

 何度叩いても返事がないのに、ジルは通路の洗濯機に乗って、すりガラスの向こうを見ようとした。

 でも、明かりもついていなくて、まさとがいる気配も感じられなかった。

「そうだ!」

 ジルは洗濯機から飛び降りると、一階のコンビニに駆け込んだ。

 レジに立っている目の細い男を見て、一瞬恐くなって身体が震えたけれども、勇気をふりしぼって聞いてみた。

「あ、あの~」

「うん、どうかしたの?」

 目の細い男は口元に笑みを浮かべながら言った。

 その口調がどことなく優しく感じられたジルは、ホッとして胸を撫で下ろすと、

「あの、あの、まさとさんはいませんか?」

 ジルの言葉を聞いて目の細い男の口元が歪んだ。

「まさとさん……大分先輩??」

「です、大分まさとさん!」

「先輩別の店に行ったよ……俺、代理で来たんだ」

「ふえ……まさとさんいないんです!」

「う、うん……」

 目の細い男の言葉を聞いて、ジルはコンビニの駐車場に飛び出した。

 眼鏡の奥の青い瞳にどんどん涙が溜まった。

(あっちゃん!)

 さっき別れた晶子の笑顔が脳裏に浮かんだ。

 ジルは晶子の消えた方を見、道まで走った。

「あっちゃん!」

 道の向こうに晶子の姿が見えた。

 ジルは頬を涙でぐちゃぐちゃにしながら走った。

 手下げをグルグル回しながら歩いていた晶子が、パッと道から姿を消した。

 ジルはそこまでたどり着くと、古ぼけたアパートがあった。

 階段を上がろうとしている晶子の背中にジルは飛びついた。

「あっちゃんっ!!」

「うわあ!」

 晶子はいきなりジルの腕が首に巻きついたのにびっくりすると、その腕を振りほどこうと身体を揺すった。

「あっちゃんっ!!」

「ジ、ジル、放して放して!」

 晶子が叫ぶのに、ジルはようやく腕をほどいた。

 ジルがポロポロ泣いてうずくまってしまうのに、晶子は驚いた顔で聞いた。

「ジ、ジル、何?」

「あっちゃん、ぼくは家に入れません……」

「はぁ?」

「ぼく、家の鍵、持ってません」

 言いながら泣いて、鼻をすするジルに晶子は手下げからタオルを出すとジルの顔に押し付けた。

「鍵持ってないって……大分のお兄ちゃん、下のコンビニにいなかったの?」

「まさとさんは別のお店に行ったって、店員さんが言ってました」

 タオルで拭いても拭いても、ジルの涙は止らなかった。

 晶子は腕組すると唸って、

「ジルの家、ちょっと連れてってよ」

「う、うん……」

 ジルは晶子に言われてトボトボと家に戻った。

 ドアをガチャガチャいわせながら、

「家に帰ったら、鍵がかかってて入れません……」

「ってジル、鍵は?」

「もらってません……」

 ジルの返事を聞いて晶子はため息をつくと、ドアの周囲を見回した。

 窓のサッシに風呂釜の周辺、最後に洗濯機の中を覗き込んだ。

「あっちゃん何を……」

「いや、大体この辺にあるかな~って」

「そ、そうなんですか……」

「まぁ、そんなとこかな~」

 晶子は洗濯機の下に手をやって、何もないのに肩をすくめると、

「大分のお兄ちゃんが帰って来るまで開かないね」

「ふえ、どうしましょう……」

 ジルの目に涙が溜まるのを見て、晶子はため息をつくと、

「じゃ、晶子の家に来る?さっきの所だけど」

 晶子が言うと、ジルはタオルで涙を拭きながら頷いた。


「ジルの所と比べると、晶子の家はおんぼろだけどね~」

 晶子はジルがあいからわず嗚咽を漏らすのに、出来るだけ明るく振る舞った。

 トボトボと後に続いて階段を上がってくるジルの姿に晶子は少々疲れていた。

「大分のお兄ちゃんが帰ってきたら、お兄ちゃんが連絡くれるって」

「お兄ちゃん?」

「そ、コンビニでアルバイトしてるの、お兄ちゃん」

 晶子が言うと、ジルの涙も止った。

「ふえ、あの目の細い人、あっちゃんのお兄ちゃんです?」

 ジルがびっくりしたように言うのに晶子は微笑むと、

「ううん、晶子のお隣のお兄ちゃん」

 言いながら晶子は家の前の二槽式の洗濯機から鍵を出した。

 そんな行動にジルが表情を曇らせたが、晶子はかまわず部屋に上がった。

 ジルはドアの中を覗き、ゆっくりと足を踏み入れた。

「さ、早く上がって、お茶くらい出すよ~」

「う、うん……」

 家の中は薄暗かった。

 ジルは床や壁、台所を見回した。

「変った家ですね?」

 なかなかジルが上がらないのに晶子はやって来て首を傾げると、

「ぼくは最初汚れてるかと思いました~」

「ま、まぁ、おんぼろだしね」

「でも、掃除はちゃんとしてますよ」

「ジル、細かい事言うね……」

「なんだかあっちゃんの家は落ち着けます~」

 ジルが目を細めて言うのに、晶子はさっと手を握ると部屋に案内した。

「晶子の家、何にもないから掃除とか楽なんだよ~」

「そうなんですか~」

 ダイニングから居間に入ろうとしたところで、ジルの身体が恐怖で動けなくなった。

 居間に置かれたテーブルに、大きな黒い「何か」がいた。

 ジルの瞳孔が激しく動き、それが「鳥」なのがすぐにわかった。

「あっちゃんっ!」

「あわわ、どうしたの、ジル!」

「何かいますっ!」

 ジルは声を震わせながら、晶子の腕をつかまえ引き寄せた。

「あれ、何っ!」

 ジルは晶子の背中に隠れながら、テーブルの上の鳥を見つめていた。

 真っ黒なシルエット。

 晶子はジルのあまりのビビりように笑みを浮かべると、

「あれは鳥だよ」

「そ、それはわかります!」

「晶子のペットのクロウ、クーちゃんだよ」

「ペペペペット!」

「カラスだよ」

 ジルが言葉を発する度に、テーブルの上の烏は首を動かした。

「ほら、座って座って!」

「あわわ……」

 晶子に無理矢理座らされたジルは、テーブルのカラスと目が合って固まった。

 正座のジル。

 しっかりと握られた拳は膝の上で震えていた。

 晶子は居間から出て行ってしまう。

「あっちゃん!」

「何?」

 ジルが相変わらず緊張した口調で言うのに、晶子はあきれていた。

「行かないで……」

「クーちゃん何もしないってば……」

「でも……」

「晶子お茶取りに行くだけだよ」

 あきれ顔で晶子は言うと、哀愁ただよわせるジルの目なんて気にしないで行ってしまった。

「あっちゃん……」

 ジルがつぶやくと、テーブルの上のカラスがゆっくりと歩み寄って来た。

 目の前でジルを見つめる真っ黒なカラス。

(図鑑で見た事あるんだけど……)

 首を傾げるカラスのしぐさを見て、ジルの額にすっと一筋の汗。

(たまに電線にとまってます……)

 ジルの額が汗の珠でいっぱいになった。

 その時、目の前のカラスのくちばしが開いた。

「コンニチワ!」

「!!」

「ボク、クーチャン!」

「ふえ!」

 ジルの眼鏡の奥の瞳が震えた。

「ボククーチャン!」

 ジルの固く握られていた指が、開かれ震えていた。

 ゆっくりとクロウに伸びるジルの手。

 晶子がやって来るとジルの斜め前に座った。

「あっちゃん!」

「何、ジル?」

「この子、しゃべりますよ!」

 震えながら言うジルに、晶子が笑みを浮かべると、

「そうだよ、クーちゃんはしゃべるよ」

「ボク、クーチャン、コンニチワ!」

 クロウがしゃべるのを聞いてジルの顔が喜びにうち震えた。

 ジルの手が完全に開かれていた。

「ここここんにちわ!」

「コンニチワ!」

「ぼぼぼぼくの名前はジル!」

「ボク、クーチャン、ヨロシクネ!」

「ふえ、しゃべりますよ~」

「ジル、そんなに感動しなくても……」

 顔面ゆるみっぱなしのジルは、ゆっくりと手を伸ばし、今度はクロウの身体をつかまえた。

 ジルの指がクロウの黒い羽毛に埋もれていく。

 そして、ジルは指先にクロウの体温を感じると、ゆっくりと持ち上げた。

「つかまえましたよ!」

「はいはい……」

 いちいち感動するジルに晶子はコップにお茶を注ぎながら苦笑い。

 ジルはつかまえたクロウをゆっくりと胸元に運びながら、

「クーちゃんはおとなしいですね~」

「ジル、コンニチワ!」

「!!」

 名前を呼ばれたのに、ジルはついつい手に力が入ってしまった。

 クロウは暴れ、ジルの手から逃れると晶子の頭にとまった。

「ああ、逃げられました~」

「あんまり力入れたら嫌がるよ」

「そうなんですか~」

 晶子はジルの前にお茶とケーキの皿を押しやると、頭にとまっているクロウをつかまえて胸に抱いた。

「クーちゃんかわいいですね~」

「そかな?」

「最初見た時はびっくりしました~」

 ジルはお茶を飲みながら、晶子の胸のクロウに視線釘付けだった。

「しゃべる鳥なんて初めてです!」

「九官鳥やインコもしゃべるよ」

 晶子の指がクロウの首を撫でると気持ちよさそうにするのに、ジルも目を細めた。

「クーちゃんいいなぁ~」

「そかな?」

「しゃべるし、かわいいし……」

「エサくれとか、うるさい時もあるけどね」

「ぼくもペット、欲しいなぁ~」

 そんなジルの言葉に晶子の表情が曇った。

 晶子とクロウの目がゆっくりとジルを注目する。

 さっきからゆるみっぱなしのジルは、ケーキにフォークを入れながら、

「毎日『オハヨウ』とか言ってくれると嬉しいです~」

「……」

 ジルはケーキをあっという間に食べてしまうと、

「そうだ、ぼくもペット飼います!」

「で、でも、ジル!」

 晶子はケーキを一口分分けると、クロウの口に運んだ。

 クロウがモソモソ食べるのを見て、ジルの表情がまたふやけた。

「か、かわいいです~」

「……」

「ぼくもケーキあげたかったなぁ~」

「……」

 ジルが手を伸ばしてくるのに、晶子は食べている最中のクロウを手渡してしまった。

 晶子がやっていたようにクロウを胸に抱くと、ジルの顔は幸せいっぱいになった。

 反面ジルの胸で、クロウの目はどんよりと晶子をにらんでいた。

「今日帰ったら、早速まさとさんに言いますよ!」

「で、でも、ジル……」

「九官鳥がいいですか?」

「あ、あの……」

 晶子は嫌な予感がしていた。

「それともインコがいいでしょうか?」

 ジルはかまわずしゃべり続けた。

「九官鳥ならキューちゃんで、インコならピーちゃんです!」

 ジルがクロウを抱きしめるのを見て、晶子は頬を引きつらせていた。


 翌朝、まさとはパンにマーガリンを塗りながら渋い顔をしていた。

 目の前には、うつむき加減にしているジルがいた。

 朝起きてから、一言もしゃべらないジル。

「ほら」

「……」

 ジルは顔を上げてまさとからパンを受け取った。

 まさとはそんなジルの顔に一瞬目がいったが、すぐに視線を逸らしてしまった。

 ジルの白目が真っ赤に血走っていた。

 まさとは引きつりながら自分のパンにマーガリンを塗ると手を合わせた。

「いただきます……」

「……」

 ジルはパンを皿の上に置いて、じっとそれを見つめているだけだ。

「ジル……」

「……」

「その、『いただきます』は?」

「……」

 ジルは何もこたえずに、またうつむいてしまった。

 まさとは手にしていたパンを皿に置くと、渋い顔をしてマグカップのコーヒーを一口飲んだ。

 ジルが黙り込んだのは、昨晩の事だった。


 まさとが仕事から帰ってすぐ、ジルが後を追うように帰って来た。

 ジルが階段を駆け上がる音がし、ドアが開くのにまさとは顔を上げた。

「おかえり」

「ただいまです!」

「何だ、今日もごきげんだな」

「ですです」

「学校楽しかったか?」

 ジルは靴を脱ぎっぱなしにしてまさとのところまで来ると、シャツを引っ張ってピョンピョン跳ねながら言った。

「まさとさん、ペットを飼いましょう!」

「!!」

「あっちゃんのところでクーちゃんに会いました、かわいいんですよ~」

「ジ、ジル……」

「ね、ペット、飼いましょう!」

 大きな目で見つめられて、まさとの口の中が一瞬で苦くなっていた。

 まさとはそんな唾を呑み込むと、うれしそうにしているジルを見つめた。

「あ、あの、ジル……」

「しゃべるのがいいです、九官鳥かインコがいいなぁ」

「ジル……」

「ね!」

 まさとはジルのまっすぐな瞳に喉まで出かかった言葉が出なかった。

 ジルの手がまさとの手を握り、次第にその力が強まった。

 まさとはそんなジルの手の感触に首を横に振ると言った。

「ペット、ダメなんだ」

「!!」

「アパートだから、ペットだめなんだ」

「そ、そんな……」

 まさとは見てられなかった。

 目の前のジルの瞳から、どんどん光が失せていくみたいだった。

「そんなそんな!」

「その……アパートだから……」

「あっちゃんの家だってアパートです!」

「いや、そうかもしれないけど……」

「あっちゃんの家の方がオンボロなのに!」

「ジル……ここはコンビニの上で、ペット飼えないんだ……」

「そ、そんな……」

 ジルの顔が歪むと、眼鏡の奥の青い瞳が一気に揺れた。

 それからは頬を流れ落ちる涙が止らなかった。

「飼うの飼うの飼うの飼うのーーーっ!」


「はぁ……」

 まさとはため息をついた。

 昨晩布団に入っても嗚咽が聞こえてきた。

 静かになったのを確認したのは日付が変った頃だった。

「ジル……『いただきます』!」

「いただきます……」

 まさとの言葉に、ようやくジルは手を合わせると、ちょっとだけ頭を下げた。

 パンを手にしたジル。

 まさともそれに合わせるようにパンを口に運んだが、ジルの方は手にしたところで動きを止めてしまっていた。

 口に入れたパンをまさとはとりあえず噛んでいたけれど、さっぱり味がしなかった。

「ジル……学校始るぞ」

「……」

 ジルは頷くと、パンを一口だけかじった。

 それも耳の所をちょっとだけだ。

「ジルー、学校行こー!」

 その時玄関から声がした。

 まさとがテーブルの携帯電話に目をやると、八時をちょっとまわったところだった。

「ごちそうさま……」

「……」

「行ってきます……」

 元気のない声で言うジルに、まさとはもう何も言えなかった。

 トボトボと歩いて玄関に向かうジルの背中。

 そこから発せられるオーラはペットダメ発言をしたまさとを責め立てた。

「……」

 まさとはなんとか言葉を口にしようと思ったけれど、気のきいた台詞がまったく思い浮かばなかった。

 靴を履いて、ドアが開かれる。

 外から差し込んで来る陽の光にまさとは目を細めながら、ドアの所に立っているおさげの女の子を見逃さなかった。

「ジル、迎えに……」

 晶子はそこまで言って言葉を詰まらせた。

 ジルが爪先を玄関のコンクリートにトントンするのを見ていたまさとは、思い出したように叫んだ。

「ジル!」

 その大きな声にジルの背が一瞬ピンとした。

 ジルが振り返ると、まさとがやって来てジルの首に紐をかけた。

「ジル、鍵だ、なくすなよ」

 まさとがかけてくれた鍵のついた紐を指でさわりながら、ジルは何も言わずに背を向けた。

 バタンとドアの閉まる音と共に部屋が元の明るさに戻った。

 まさとはジルの消えたドアをじっと見つめた。


 ジルはうつむいたまま、午前中の授業を終えていた。

 給食になってもジルの暗い表情は続いていて、あと五分で昼休みというのに給食にはまったく手がつけられていなかった。

「ジルくん……」

「……」

 操が声をかけても、ジルはいったんは顔を上げるけれど、すぐにうつむいてしまうのだった。

 朝からずっと元気のないジルに、隣の操は気遣いですり減っていた。

 そんなジルの向かいで、晶子はさっさと給食を平らげてしまうと、しゃがんで教室を出て行こうとした。

 操はそんな晶子を見逃さなかった。

 コソコソと教室の扉に向かう晶子を横目に操は教壇まで行くと、新聞を見ながら給食を食べている吉田の前に立った。

 操の手がさっと横に払われ、吉田の読んでいる新聞を奪った。

「わ、渡辺、何すんだ!」

「先生、食事の時に新聞を読むのはいけないんです!」

「そ、そそそそうだな……」

 怒った顔で見つめる操に、吉田の視線が泳いだ。

「先生、あっちゃんが教室を抜け出しています!」

 操が教室の後ろのドアを指差しながら言うと、ゆっくりと開こうとしていた扉が音をたてて止った。

 晶子は立ち上がると操を指差して叫んだ。

「操ちゃんの裏切り者!」

 すぐに吉田が飛んで来て、晶子の脳天にゲンコツが投下された。

 操は今度、響子の手を引いて吉田のところまで行くと、

「響ちゃんがあっちゃんの食器を片付けていました!」

 いきなり手を引かれた響子は、操がタレ込むのを目の当りにして開いた口が塞がらなかった。

「よーし、山本・長船、ちょっと来いっ!」

「ちょ、何で……」

 響子はとばっちりで引きつりながら、吉田に引っ張って行かれる。

 晶子はズルズルと教室を出ながら、操に捨て台詞を吐いた。

「操ちゃん、覚えてろよ!」

 すると、教室を出てすぐのところで吉田が足を止めた。

「渡辺も来い、もっと早く先生に言わんか!」

 吉田の言葉に操は頷くと、三人に続いて教室を出て行った。

 ピシャリと扉が閉まる音が教室にこだました。


 ジルはうつむいたまま、まさとの言葉を思い出していた。

(ペット、ダメなんだ……)

 まさとの困った顔がジルの脳裏に浮かび上がる。

 その直後、晶子の家のクロウの姿が思い出された。

(ああ、クーちゃんかわいかったなぁ)

 ジルはため息をつくと、窓の外に目をやった。

 小鳥のさえずりが聞こえて、校舎の片隅にある植木に雀が飛んでいるのが見えた。

 学校横の道路に沿って立てられた電柱。

 電線にはハトにまじってカラスもとまっていた。

(ああ、ぼくもクーちゃんみたいなペット欲しいなぁ)

 ジルは両手を机の上にやると、じっと見つめた。

 ゆっくりと指を畳んだり伸ばしたりする。

 昨日手にしたクロウは大きくて温かった。

 ジルは指の動きを早めながら、

(クーちゃんまた抱きたいなぁ~)

 クロウとおしゃべりしているシーンを思いながら、ジルの落ち込んだ表情はほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。

(クーちゃんみたいなカラスさんは、手に入らないってあっちゃん言ってました)

 クロウは晶子の言っていた別の鳥を思い浮かべた。

 九官鳥はクロウに似た黒い鳥。

 インコはくちばしの丸い鳥。

 ジルの記憶には真っ白で大きなインコが浮かんでいた。

(図鑑で見た事あります~)

 ジルはクロウを抱いた時を思い出しながら、

(大きな鳥さんだから、抱いたらクーちゃんと同じかな??)

 そんな事を思うと、完全にいつものジルに戻っていた。

 が、それは一瞬だった。

 ジルの妄想の世界に、まさとのすまなさそうな顔が浮かぶ。

(ペット、ダメなんだ……)

 瞬時にジルはこの世の終わりのような顔になった。

 ジルを周囲で見守っているクラスメイトは、その表情の変化に言葉をかける事が出来なかった。


 給食時間の廊下は静まりかえっていた。

 晶子は怒った顔をしていた。

 吉田・操・響子はそんな晶子をにらんでいた。

「長船!」

「あっちゃん!」

 三人が言うのに晶子は訳もわからず小さくなってしまった。

「な、何で晶子だけ……」

 吉田はとりあえず晶子の頭にゲンコツを一発投下すると、

「長船、お前何でジル泣かしてるんだ!」

「あ、晶子泣かしてないよ~」

「あたしも見た、登校の時からジル泣いてた!」

「そ、それは朝からジルが泣いてて……」

「あっちゃん白状したら!」

 操がにらみつけるのに、晶子も頬を膨らませた。

「晶子じゃないもん!」

 しかし、晶子に注がれる厳しい視線はそのままだった。

「じゃ、長船以外に誰がジルを泣かすんだ!」

「うう……」

 晶子は唇を歪めると、吉田をにらみながら、

「ジル、昨日晶子の家に来たんだよ!」

 三人が頷く。

「クーちゃん見せたら気にいって、ペットを飼ってもらえるようにお願いするって言ってジルは帰っちゃったんだ」

「で?」

「で、朝迎えに行ったら、ジルはアパートでペット飼えないって……」

 晶子の言葉を聞いて三人は頷くと、

「長船何でジルをアパートに連れて行くかな」

「クーちゃん見せるなんて、あたし信じられない」

「あっちゃんったらモウ」

 三人は教室の扉をちょっと開けると、隙間からジルを見つめた。

「ジル、元気ないね……」

 響子がつぶやくのに、吉田が唸った。

「アパートでペット飼えないで落ち込んでいるのか……」

 吉田は一瞬は難しい顔をしたものの、すぐにいたずらっぽい笑みを浮かべて操を手招きした。

「??」

 操がきょとんとしていると、吉田が耳元でささやいた。

 途端に操の顔がパッと明るくなった。

「それはいいアイデアですね!」

「だろ、ちょっとは先生見直したか」

 吉田はふんぞりかえると、

「じゃ、男を慰めるのはいい女の仕事だ、渡辺、行け!」

「え?」

「渡辺、行く!」

 操はそんな吉田の言葉に目を丸くすると、響子を一瞬見、それからジッと晶子に目をやった。

 吉田はそんな操の視線と同じように響子と晶子を見てから、

「山本は席隣じゃないしな……女は渡辺だけじゃないか!」

「はい……」

 操は渋い顔をして扉を開けると、ジルのもとに向かった。

 響子と吉田がそんな操の背中を見守っていると、晶子が吉田のシャツを引っ張った。

「ねー、せんせー!」

「何だ長船」

「ねえ、晶子が悪いの?ねえ!」

 響子がジルと操のやりとりを見ながら、

「普通クーちゃん見せる?あっちゃんが悪いんだよ!」

 晶子はふてくされると、また吉田のシャツを引っ張って、

「ね、せんせー!」

「……」

「晶子もジルの隣なんだけど~」

 操とジルが会話を交わしているのを見ながら吉田は、

「だから女が慰めるって言ったろ!」

 操がジルと一緒になって行ってしまうのを見ながら、吉田と響子は教室に入った。

 晶子は一人廊下に立ちつくし、唇を歪めていた。

「晶子も女なのに!」

 ちっとも二人が相手をしてくれないのに、晶子はトボトボと教室に入った。


 ジルは職員室前で操を待っていた。

「お待たせ」

「操ちゃん、一体何です?」

 ジルは操と一緒にいられてうれしかったけれども、まだ頭の中はペットの事でいっぱいだった。

「うん、ジルくんはペットが飼えないから、元気ないんだよね?」

「ペット」と聞いてジルの目がまた潤んだ。

 操はハンカチを手渡そうとしたけれど、ジルは首を横に振った。

「あっちゃんの所もアパートです……」

「……」

「ぼくは何で家で鳥さん飼えないのかわかりません!」

 ジルの言葉に操は微笑むと、手に握っていた鍵を見せた。

「これはなーんだ!」

「鍵?」

 それを聞いて操はジルの手を取ると微笑んだ。

 ジルは操に手を引かれるままに運動場に出た。

 ジルは運動場を見渡しながら、操の黒髪にもチラチラと視線をやった。

 前を歩いている操の黒髪が揺れ、なびく度に陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。

「操ちゃん……」

 ジルは金網の張られた小屋を前にして表情を曇らせていた。

 操は振り返ると、ジルに鍵を見せながら、

「この鍵は、ここの鍵です!」

「ここ?ここ何?」

 ジルが金網に歩み寄り、中を覗いて目が大きく見開かれた。

 金網の中にはウサギやニワトリがいたのだ。

「操ちゃん!これは!」

「飼育小屋だよ」

 操は小屋の扉にかかった南京錠に鍵を差し込むと、

「ジルがあんまり元気ないから……」

 操が鍵をひねると、南京錠が微かな金属音をさせて開いた。

「吉田先生がここの世話をするようにって」

「世話?」

「そう、ウサギやニワトリの世話をするの」

「ウサギさんやニワトリさんの世話……世話って……」

「餌をあげたり水をあげたり、掃除をしたりするの」

 操が金網の扉を開けて先に入り、手招きした。

 ジルは二重になった扉を通って中に足を踏み入れた。

 首を前後に振りながら歩くニワトリを見て、ジルの顔が瞬時にえびす顔になった。


 まさとは食事の準備をしてジルの帰りを待っていた。

 昼シフトを終えてまさとが帰宅したのは七時くらいだった。

 外はもう暗くなりかけているのに、ジルはまだ家に帰ってなかった。

 まさとは今朝、真っ赤な目をして出ていったジルを思い出しながら、口の中がどんどん苦くなっていた。

「遅いなぁ……」

 まさとはテレビをつけてみたけれど、気分は紛れなかった。

 新聞のテレビ欄を見ようと引き寄せると、目に見えるところに「自殺」の字。

「ま、まさかそんな……」

 まさとはテレビに目を向けると、そこには通り魔事件の報道。

「……」

 湯飲みを引き寄せ、お茶を喉に流し込むまさと。

 その時、アパートの鉄の階段が音を立てた。

 コンビニ二階の住人はまさとだけだった。

 片方の部屋は倉庫で、もう一方の部屋は仮眠室扱いだった。

 まさとは思わず玄関に向かった。

 一瞬ドアがガチャガチャいって、次の瞬間鍵が差し込まれる音がした。

 ドアが開かれると、ジルの元気な顔がそこにあった。

「ただいま、まさとさん!」

「ジ、ジル!」

 まさとはジルを抱きしめた。

 小さな身体を力いっぱい抱き、肩を撫で、髪をクシャクシャにした。

「よかった!」

 ジルはいきなり抱きしめられてびっくりしていたが、まさとがギュッと抱きしめるのと同じ様に、せいいっぱいまさとの身体に腕を回して抱きしめた。

「まさとさん、ただいまです~」

「あ、ああ!」

 まさとはジルの言葉に顔を上げると、ジルの顔を見据えて、

「遅かったな!」

「あっちゃんの家にいました」

「あっちゃん……」

「ですです、クーちゃんを抱きに行ってました」

「……」

 まさとはおさげの女の子を思い浮かべながら、小さく頷いた。

「学校が終わって、あっちゃんと操ちゃんと一緒にいましたよ」

「そ、そうか……あんまり遅いから、心配した」

 まさとの真剣な表情に、それまで笑顔でいっぱいだったジルの表情が曇った。

「ごめんなさい……」

「無事でよかった……朝、元気がなかったから……」

「朝」の言葉でまさとの顔がうつむいてしまった。

 ジルの唇も横一文字になって、言葉がなかった。

 まさとが暗い表情でうつむいているのに、ジルはその腕をつかまえて、

「まさとさん、聞いてください!」

「うん?」

 聞こえてくる言葉が弾んでいるのに、まさとは顔を上げるとジルの顔を、眼鏡の奥の青い瞳をじっと見つめた。

 その瞳は、朝の血走ったのとは全然違った。

 今、目の前のジルの瞳は、本当に嬉しさで満ちていた。

「今日、学校で飼育係りをやったんです!」

「飼育……係り」

「ですです、飼育小屋にはウサギさんとニワトリさんがいます~」

 それからジルは、延々と飼育小屋での出来事を語り始めた。

 最初はポカンとしていたまさとも、次第にそんなジルの話に頷き、笑みがこぼれるようになっていた。

 まさとはジルの眼鏡の奥の瞳に見とれていた。

 楽しそうにしている青い瞳を見ていると、まさとにも楽しさ、元気みたいなものが伝播するみたいだった。

 まさとは目を細めると、再びジルをしっかり抱きしめた。

「ま、まさとさん!」

「ジル……よかったな、うん」

 ジルは自分の身体に回された腕の温もりに目を細めると、

「その……心配とか、しました?」

「あ、ああ……」

 ジルもまさとの身体に腕を回した。

「ぼくは帰り際に操ちゃん達に言われて気付きました……ごめんなさい」

 二人はお互いをしっかり抱きしめあった。

 ゆっくりと腕が解かれ、見つめ合うまさととジル。

 まさとはすっと立ち上がると、ダイニングのテーブルに置かれた箱を持って来ると、

「飼育係りになったなら、これ、いらないな」

 ジルが背伸びしてそれを見ようとするのに、まさとは再びしゃがみ込んで厚紙で出来た箱のフタを取って見せた。

「わあ!」

 箱の中には茶色い犬のヌイグルミが入っていた。

「わんちゃんです~」

 ドッチに使ってるボールと同じくらいの大きさの茶色い犬のヌイグルミ。

「最新の犬型ロボットだ」

「ふえ、ヌイグルミじゃないんです!」

 ジルは目を輝かせて、箱の中の犬を見つめていた。

「アパートじゃ生き物飼えないから……ロボットならってな」

「ふええ……かわいいです~」

 ロボット犬の目にジルの顔が写り込む。

 ジルは顔を上げると言った。

「まさとさん、ありがとうございます!」

 まさとはその瞬間のジルの顔が、天使の微笑みに見えた。



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 飼育小屋でニワトリやウサギを世話をする事になったジル。

 ニワトリにはつつかれて……

 白いウサギは動いて抱けず……

 でも、黒いウサギは捕まえる事が出来た!

 だが、その黒ウサギの顔にジルは凍った。


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