エピソード1
手前の美醜はさておいて、こと異性に関していえば、彼は極端な面食いであった。そして自分がそうである以上、きっと男なら誰でもそうであろうと、彼は思っていた。
彼は二十才をとうに過ぎていたが、女をまだ知らなかった。通常であれば特定の恋人を持たない、というか持てない以上、そういった場所で経験を済ましておくのが男子のたしなみとして当然であると考えるタイプの彼ではあったが、そうは出来ない事情があった。彼にはコンプレックスがあったのである。そのコンプレックスとは一体何か。──実は、彼は尻が青かったのである。
精神的、象徴的なことを言っているのではない。物理的に青いのである。つまり、大きな蒙古斑が尻えくぼの辺りにあって、そのことが原因で、彼は容易に他人に自分をさらけ出すことが出来ないのだった。それは小学校高学年の頃からずっと培われてきた性向で、そのことからも彼は基本的に狷介で小心だったと言える。こういった事柄が以下の短い話の一つの前提になろうかと思う。
さて、彼が大学に入学して二年目の秋の事、ひょんなことから彼が幹事となり、女子大生と三対三のコンパを催すことになった。相手側の幹事は彼と同郷の女の子である。彼女とは彼が田舎に帰省した折、友人と喫茶店で駄弁っていたら、偶然その友人の同級生であるという複数の女の子たちと一緒になり、部外者の彼も交えて話は大いに盛り上がり、東京で大学生をやっているというその彼女と、いつか機会があったらかの地で一緒に何か楽しいことをやろう、ということになったのだった。
半年が過ぎたころ、二人で何回か電話で打ち合わせをし、そしていよいよ件の催しが実現の運びとなった。場所は新宿の、とある居酒屋で、彼は彼が選んだ二人の精鋭たちと共に勇躍その場に臨んだ。
儀礼として少し早めにやって来た彼らは、当然ながらどんな面子が揃うのだろうと大いに想像力を膨らませながら、下卑た笑みを浮かべつつ、待っていた。
しばらくすると、ついに彼女らはやって来た。向かい側に順番に座るメンバーをざっと見渡して見た時、彼は大きな落胆を禁じえなかった。面食いだという彼の目に適う相手が見当たらなかったのである。
一体何様のつもりなのだ! と彼に怒りを覚える向きも諸姉にはあろうかと思うが、ここは少しだけ彼に言い訳させて欲しい。考えてみれば彼も不幸な身の上だったと言っていい。彼の高校時代などは、それこそどういう訳か美人ばかりに囲まれ、自分の思いはついに果たせなかったものの、満ち足りた三年間を過ごしたと自負していた。当時、彼が恋した相手は四人。いや五人。そのどれもが当然のことながら佳人、麗人、別嬪だった。言わば目が肥えていたのである。──否応なく、そしてナチュラルに。
過日、東京で開催された彼の仲間内の高校の同級会などを今の大学の仲間である二人に見せてやりたかった。それこそ秋田美人の宝庫と言ってよく、きっとみんな目を丸くすることだろう。ではなぜ彼は彼女らを一人として自分のものに出来なかったのか。それは基本的に彼が臆病だったからである。それ以上でもそれ以下でもない、と彼は強弁するのだが、それだけじゃないことを、彼を知る奴らだったら誰もがみんなそのことを知っている。
話をコンパの場に戻そう。彼はイライラしたようにひっきりなしにタバコを吸い、やけ酒のように酒を飲んだ。でも酔えない。自分を鼓舞し、みんなに笑顔を振りまこうとするのだが、次第に顔は強張り、目は宙を彷徨ばかり。
彼は責任を感じていた。仲間に合わせる顔がなかった。こんなはずでは、と頭を搔き、笑ってやり過ごす闊達さを彼は持ち合わせていなかった。考えるのは今にも消え入りそうな己のハートとその置き場だけ。いたたまれなくなった彼は、この場から今すぐにでも消えて無くなってしまいたかった。彼はトイレにでも行く振でそっと席を立つと、そのまま居酒屋を飛び出した。ほとんど無意識にそうしていたのだ。顔面は紫色に固まり、ウインドウに映る姿は亡霊のようだった。割り勘分だけでも払ってくるべきだったな、とも思ったが、もう遅かった。彼の足は意識とは裏腹にどんどん強い力で遠のいていくばかり。気がついたら西武新宿線に乗っていた。
『貴方はどうしてそんなに傷つきやすいのですか?』何かの雑誌のインタビューでボブ・ディランがそんな質問を受けていたと記憶している。対するディランの答えはこうだった。『現実に敏感であるためには傷つきやすくならざるを得ない』
このとき、ある意味そんな高級な会話とは無縁の問題を彼は抱えていた。女とうまく付き合えない自分を持て余していたのだ。
彼は傷ついていた。一般的に傷ついたのは彼の仲間と彼女たちの方だと言えるのかもしれない。が、それでも彼は傷ついていた。あまりの自分の不甲斐なさに、そして怯懦に。
彼は沼袋で下車した。
友人に会いたかった。会ってすべてを忘れたいと思った。
夜も遅い時刻だ。足早に細く曲がりくねった道を抜けてそのアパートの前へと立った。
部屋に明かりはなかった。一抹の不安を胸に彼は階段を駆け上がり、ドアをノックした。案の定、鍵はかかっていて人の気配もない。彼は狼狽した。やむなく近くのバス停のベンチに腰掛けて、友人が帰ってくるのを待つことにした。
季節は秋の終わりだ。夜を外で過ごすには少々キツイ時期である。
時計が午前零時を過ぎた頃、前方を呆けたようにじっと見つめていた彼は、道端に転がっていた小石を思いっきり蹴り上げた。それは上手くヒットせず、不格好にころころと転がり、アスファルトの中央で止まった。折よく走って来た乗用車のタイヤがそれを突然ピストルのように弾いた。小石は彼の頭上をかすめ、背後のシャッターを直撃した。──信じられない気分だった。
「投げたボールは必ず自分に帰って来る。・・・そういうことか?」
何か思わず高邁な箴言が自分の口から飛び出したような気がして、彼は自嘲気味に笑った。