雨が好きなカノジョ、嫌いな彼女 その1
人間と同じで、天気も晴天ばかりではない。
朝からどんよりと厚い雲が立ちこめて、昼過ぎにはどしゃ降りとなった。
「あーあ、とうとう降ってきたね」
窓際で空を眺めていたランディが言うと、カーリンも視線を向ける。
皆には鬱陶しいものでも、彼女にとっては特別な意味を持っていた。
卒業する以前、構内の移動で傘がなく困っていると、アレックスが通り掛かって自身のそれを差し出す。
「教官が濡れますよ」
「構わん」
「このくらいなら走っていけますから」
なら、最初からそうすればよかったと今になって気付いた。走り出そうとした瞬間、腕を掴まれたので振り向くと仏頂面の彼がこちらを見ている。
「あ、あの……」
すっと傘を傾けてアレックスが隣に並んだ。「行先は一緒だから」と有無も言わせず歩き出す彼に、慌ててカーリンも追い掛ける。
― うわあ!! これが俗に言う『相合い傘』か!!
しばらく歩いて、ふと目をやった。自分より高い位置にある肩が雨に打たれているので、更に見上げるとカーリンの方に傘を傾けていた。
お陰で濡れずに済んだが、彼の片方の袖は完全に色が変わっている。
アレックスには気の毒だが、こんな時間がいつまでも続けばいいと思わずにはいられなかった。
さりげない優しさを知った日が雨だった。だから、カーリンは嫌いではない。
教官室の窓を叩きつける雨をシノブはぼんやりと眺めていた。
雨の日は嫌いだ。兄の葬式もそうだったから。
頬を伝う雫が雨なのか涙なのか、区別がつかない状態で兄を見送った記憶が生々しく蘇る。
「午後の課業は変更ね」
ビアンカの声で現実へと引き戻された。
「屋外での訓練を予定していたら、早目に訓練場を押えていた方がいいわよ」
「先日、既に予約で埋まっていました。どうすればいいでしょうか?」
「そうねえ。学科を繰り上げたらどうかしら? えっと……」
辺りを見回して、ある人物を呼ぶ。
「ミュラー教官、暇?」
「暇ではないが、急用か?」
「カワサキ教官の班に講義をしてくれると助かるわ」
申し訳なさそうに頭を下げるシノブとウインクするビアンカを交互に見やって頷いた。
「別に構わんが、マーティン伍長を借りるぞ」
本人の承諾も得ずに「どうぞどうぞ」とビアンカが勝手に返事をする。
始めはシノブの班だけだったが、何故かクラーク班まで一緒にすることとなった。そして、当の教官であるクラークは用があると言って同席しなかったのだ。
「体よく押しつけられましたね」と、セドリックが呆れた口調である。
「ちょっとやんちゃな訓練生がいましてね、クラーク教官の手に負えないみたいですよ」
「私の手には負えるのか?」
「そりゃあ、落ちこぼれ班を立て直した教官ですから」
カーリン達を輝かしい成績で卒業させた功績から別名『更生係』と呼ばれていた。
毎年、息巻く訓練生がいるが今年もそうらしい。小馬鹿にした態度を取るが、暴力を振るうわけでもないので放っておいたら収拾がつかなくなっていた。
セドリックも何度か注意したが、その場では模範的な返事をしても改める様子もないのでほとほと困っている。
アレックスは「尽力する」と述べただけに留まり、教材を何冊か選んで準備を始めた。
シノブとアレックスがミーティング室の前までやってくると、彼女がドアを開けてくれた。アレックスが先に入ろうとした瞬間だった。
真横から警棒を振り上げて襲い掛かる男をアレックスが半身で交わす。足を払って、体勢を崩したところに腹這いにさせて相手の背中を片膝で押えこんだ。
流れるような一連の動きに相手は反撃の隙も与えられず、その場にいた者達は立ち尽くすのみである。
「ギブ!! ギブ!! 降参です!!」
更に左腕を捻じられた男は訓練生で、涙目で叫んだ。
「何事ですか!?」
セドリックが血相を変えて部屋へ飛び込む。物音と悲鳴に驚いて、資料を揃えて遅れてきた彼が駆けつけると唖然とした。
右手で床を叩いて降参を訴える訓練生と馬乗りになっているアレックスに、セドリックは額に手を当てる。
仕掛けてきたのは、例の生意気な男子だった。急きょ学科の担当がアレックスと知った男子が襲撃しようと息巻く。
「やめなさいよ。怪我でもしたらどうするのよ!?」
「なあに、避けてくれるさ。なんていったって、あのミュラー教官だぜ」
シノブの教え子達が止めたが、他の男子に囃し立てられて聞き耳を持たなかった。
アレックス達が来る時間を見計らって、入り口の近くで息をひそめて待っている。手には護身用の警棒が握られているがあくまでも脅しのつもりだった。
だが、実戦を経験しているアレックスに脅しと本気の境界線はない。そして、男子は見事返り討ちに遭い現在に至っている。
ようやく男子を解放してやると、アレックスが鋭い視線を投げつけた。先程まではしゃいでいた男子達の表情が凍りつく。
その後、水を打った静けさのなか講義を終えて女子とアレックスが部屋を出ると、セドリックはにこやかな笑顔でクラーク班を呼びつけた。
油断した彼等に、表情が一変して「馬鹿が!!」と一喝する。
「あの人にお前達が刃向うなんて百万年早いだよ!!」
「す、すみません!! もうしません!!」
「当たり前だ!! いいか!! 教官が本気出してたら、今頃この世にいないぞ!!」
確かに鬼気迫る勢いだった。
「聞いただろう、あの捨て台詞!!」
『私は不意打ちを食らって手加減するほど人間が出来ていない。以後、気を付けろ』
グレーの冷ややかな瞳は思い出しただけでも背筋に悪寒が走る。仕掛けた張本人はまだガタガタと震えていた。
― あーあ。ミュラー教官に掴まれた所、痣になってるよ。自業自得だな。
「あの……」
「まだ文句があるのか?」
「あの人に弱点とかあるんでしょうか?」
恐る恐る尋ねる男子に、セドリックの脳裏に金髪の美少女が浮かんだ。彼女なら大いに弱点になりうるが、訓練生に話す義理もない。
「自分達で探せ。俺は忙しいんだ」
話を畳んで訓練生を部屋から追い出して振り返るとシノブと目が合った。同じ空間に居合わせていたことに気付き、見習いが教官よりでしゃばったので気まずくなる。
「勝手に帰らせてすみません」
「気にしないで。わたしより、あなたの方が彼等も聞きやすいと思うし」
二人は部屋を出て廊下を歩いていた。
「しかし、ミュラー教官を襲撃しようなんて大それたことを考えますね」
「あなた達は考えたことなかった?」
「とんでもない!! 教官に手を挙げたことなんて……」
あった。
しかも、あのアレックスに――――。
在学中に、夜の訓練場でアレックスがカーリンを愛していると告白した時だ。当時、好きだった彼女を奪われて逆上したセドリックが彼を殴ったのだ。
― 俺は悪くない。正当防衛だ。不可抗力の方が正しいのか?
いづれにせよ、それなりの代償は払ってもらうべきだと正論づける。
「マーティン伍長?」
「まあ、若気の至りってとこですかね」と苦しい言い訳をすると終始無言だった。
夕方に大雨警報が発令されて、家庭持ちの教官達は慌てて家路に着いた。
シノブも仕事を早々に切り上げようと椅子から立った時だ。携帯電話の着信音に首を巡らすと、机の上に置きっ放しにしているアレックスのそれである。
持ち主は不在で、そのまま通り過ぎようとしたが画面の表示にシノブの表情が強張った。
『カーリン=リヒター・ド・ランジェニエール』
彼女の手が自然を携帯電話に伸びていく。