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 真っ暗な部屋。人工的な明かりは灯っておらず、唯一の明かりは窓ガラスから空気を伝わってくる夜の光だけである。

 秋はこの部屋の中で手足を縛られた状態で寝転がっていた。

 ニコルにボコボコにされ、サンナに縄で拘束されて以来ずっとこの状態だ。そうして、身動きが取れないでいるうちに夜になってしまった。

 ――寒い。

 露出度多めのメイド服では夜の気温に些か堪えるが、毛布や布団を探し回れるような状態ではないので、仕方なく我慢する秋。そもそも、仕置き部屋と称されたこの部屋に体を温めるようなものがないことは、昼間この部屋に入れられたときに確認済みだ。というよりもここは調度品の一つも置かれていない至極殺風景な部屋なので、暖房具は既に諦めていた。

 ――これからどうしよう。

 サンナの話によれば、主に仇なした者は拷問にも等しい扱いを受けるとか、マッドサイエンティストに売られるとか、何とか。

 秋としては一刻も早くここを逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、如何せん身動きが取れないので頭の中で逃亡作戦が展開されるばかりだ。

 ――ああ、白馬の王子様でも来てくれればいいのにな。

 なんて、他力本願なことも妄想してしまう始末である。

 現実問題として秋が逃走するには、この邸宅内を誰にも発見されないように抜け出し、さらにそこから外の男達に見つからないようにニコルの敷地外へ抜け出さなければならない。

 要は見つかったらゲームオーバーということだ。

 幸いなことに二週間ほどこの場所に留まっているので、道順やら構造やらは把握している。

 逃亡作戦は賭けである。

 きっと勝てる可能性は限りなく低い。

 そんなことが頭をぐるぐる旋回しているのだった。

 まぁ、繰り返しになるが、いくら考えたところで手足を縛られた状態では逃亡もへったくれもあったものではないが。

 秋は暗がりの中で両手首を結んでいる縄を見つめる。

 サンナの事だから秋が隙をついて逃げ出せるように緩く結んでくれるものだと思っていたが、それは見当違いで縄はきつく秋の手首を拘束していた。足の方も同様である。

 ここでサンナを責めるのは筋違いというものだろう。

 彼女も彼女でニコルに逆らったらどんな目に遭わされるのか分からないのだから。

 だから、あの場面でのサンナの取った行動は正しいとは言えなくても、間違いではなかったのだろう。

 秋の立場を見て見ぬ振りをしているのも間違いではないのだろう。

 でも。

 秋は思ってしまう。

 自分勝手だけれど。

 自己本位も甚だしいけれど。

 今の自分を助けてはくれないのか。

 と。

 思ってしまうのだった。

 ――何を考えてんだ、俺は。

 そして、少しばかり、自己嫌悪に陥るのだった。

 ――自分の都合でサンナさんのことを考えずに、あの人を利用したいだけじゃないか。

 縄に力を込めるが、何重にも巻かれた縄が緩むことはない。

「はぁ」

 諦念の心持ちで秋がため息を吐いたとき、仕置き部屋の扉が開いて、秋の眼球が唐突に閃光に襲われた。暗闇から明るさに目が対応するのにしばらくの時間がかかった。瞑っていた目を開いて、足音を立てる人物を確認する。

 仕置き部屋に入ってきたのはニコルだった。

 澄ました顔をして部屋の蝋燭に火をつけていた。

「どうだ、少しは反省したか?」

 蝋燭の加減を確認しながら、ニコルが尋ねてくる。

「家政婦という立場がどのようなものかを考え直すことはできたか?」

 秋は体を起こしてニコルと相対する。

 既に、というよりも初めからニコルの従僕になるつもりのない秋はニコルをきつく睨む。

「反省なんてしてませんよ。どうやってここから逃げ出すか考えていただけです」

「そうか。しかし、その格好では無理がある」

 勝ち誇るようにニコルが唇を歪め、フフッと笑い声を漏らした。

「寒くはないかね?」

 座っている秋を見下ろす形でニコルが訊く。

「こんな絨毯も何もない部屋では寒いだろう?」

「平気ですよ。私は貴方のようなボンボンではないのでこのくらいの寒さには慣れています」

 そうは言うものの、秋の体は小刻みに震えていた。体を起こしたときに寝転がって貯めていた体温が逃げていってしまったようだ。

「強がらなくていいぞ」

 ニコルは一層、唇を歪める。フフッという笑い声が秋の癪に障る。

「カチカチと歯が鳴っているではないか」

 ニコルは秋に顔を思いっ切り近づけてきて、満面の笑みを見せて言った。

「そんなに寒いのならば、私と暖まろうか」

 言って、ニコルが徐にズボンを脱ぎ始めた。

 ――まさか、コイツ⁉

 秋の体中から嫌な汗が噴出し始める。

「スティーブンの前で脱がなかったのは、まだ主である私にその体を見せていなかったからだろう? いや、済まなかったな、さっきは」

 ニタニタ、とニコルが笑っている。

「今日を終えたら、スティーブンにもその艶やかでいやらしい肉体を見せてやってくれ」

 ニコルが秋の頬に右手を添える。

 ゾクゾクッと秋の背中に悪寒が奔った。

 ――――!

 反射的に秋は座ったままの体勢から縄で縛られた足を力強く振り、ニコルに足払いを食らわせていた。

「うおっ⁉」

 間抜けな声を出してニコルが盛大に転んだ。

 見事に秋の足払いを食らったニコルだったが、すぐに立ち上がって、興奮気味な表情で言う。

「どういうつもりだ? 主に足払いとは」

「どういうつもりって、アンタがどういうつもりだ⁉」

 敵意マックスの秋を余裕の表情で見つめるニコル。

 どう考えても秋の方が圧倒的に不利だ。たとえ足払いを成功させたにしても、その場しのぎに過ぎず、いずれはニコルに主導権を完全に掌握されてしまうだろう。

「こういうつもりさ。お前も子どもではないんだからわかるだろう」

 両手を広げてニコルは自分の体を秋にアピールする。

 対して、秋はニコルをさらにきつく睨みつけた。

 しかしながら、威嚇する秋の視線はニコルに届いていない。それどころか、秋の目が逆にニコルを興奮させているようだった。

「いいね。実にいい目をしている。いやぁ、いいね。そんな目をしているお前を犯すのは実に興奮するよ」

 再び秋の頬に触れようとしたニコルに足払いを見舞う秋。しかし、倒れたニコルはすぐに立ち上がる。

「まぁ、焦らないでいこうか。時間はあるわけだし、お前がいつまでその抵抗を見せられるのかも楽しみだよ」

 ニタニタ、ニヤニヤ、ニコルが笑う。

 秋は何度もニコルを足払いで撃退するが、効果はないようだった。

 そもそも、ニコルが本気で秋に迫ってくれば、足払いなどという貧弱な抵抗は無意味だろう。そこから推測するにニコルは秋の抵抗を楽しんでいるようだ。

 ――ちくしょう。このクソ野郎が。

 やがて、秋の息が荒くなってきた。足も重たい。

「そろそろ限界のようだな。では、始めよう」

 近づいてきたニコルに足払いを図る秋だったが、今度は簡単に躱され、手首を強い力で掴まれる。

 そして、そのまま秋は強引に床に押し倒された。

「いいね、その表情。抗いたいという心に反して、抵抗できない体。フフッ、堪らないよ」

 ニコルが舌を出して、秋の顔に迫る。

 ――やめろ、気持ち悪いっ。

 秋の肌までニコルの舌があと数ミリという距離に近づいたときだった。

「お父様ああああっ」

 扉の向こう側からスティーブンの焦った声が飛んできた。

 それを聞いたニコルは慌てて秋から体を離し、脱ぎ捨てていたズボンを着用する。

「お父様、大変だよ! 農場が燃えてる!」

 勢いよく扉を開け放ったスティーブンは開口一番、そんなことを言った。

「工場も燃えてるよ!」

 スティーブンの言葉を受けてニコルの表情が一変した。先ほどまでの情欲に塗れた興奮状態から、一気に険しい顔つきになる。

「何だって⁉」

「わからない。気がついたら、農場も工場も真っ赤なんだよ!」

 ニコルとスティーブンが窓から外を覗く。秋も膝立ちをして外を見た。

「……うわあ」

 思わず秋の口から声が漏れた。

 窓ガラスの外は火の海だった。

 四階から見える水晶花の農場は真っ赤な火の手と煙が上がっていて、隣の工場も同様の有り様だった。

 炎が強まると同時にずぅん、と地鳴りのような爆発音が聞こえた。

「くそっ、見張りは何をしているんだ」

 ニコルが怒りあまって窓ガラスを叩き割った。ガラスの破片が肉を裂いて、血液をニコルの手に流す。

「お父様、どうなってるの?」

 ニコルの服を掴んで必死の形相でスティーブンが訊く。

「賊か壊し屋だ。くそくそっ。あの役立たずどもめっ」

 ニコルは流れる血を服の袖で応急的に止めると、逆の手でスティーブンの背中を押しながら、部屋を後にする。

「急げスティーブン。もうここも時間の問題だ。早く避難するぞ」

「お父様、あのメイドはどうするの?」

 部屋の去り際、スティーブンが自然とそんなことを言った。

「放っておけ。チッ、一億ベルがパーだ」

 悪態をついてニコルが姿を消した。スティーブンは秋を一瞥したが、走ってニコルを追いかけていった。

 ――なんだ。あの子もまだ完全に駄目になってたわけじゃあないんだな。

 手足を拘束されたままの秋は不図、そう思った。

 ――っていうか、どんなってんだ。

 窓からは赤い火の光。

 空気からは爆発音。

 逃げることを考えていた秋の状況は混乱に陥った。




 ニコルとスティーブンが去ってからしばらくしてサンナが息を切らして秋のもとにやってきた。

「アンタ、大丈夫かい」

 秋の傍に駆け寄るやいなや、サンナは秋を拘束している縄を解き始める。

「ちょ、ちょっとサンナさん?」

「何だい?」

 邪魔をするな、気が散る、とでも言いたげな様子でサンナが秋を見た。

「何だいって、縄を解いてくれるんですか?」

 一瞬、サンナは呆けたような顔をして動きを止めたが、

「そうだよ。アンタだってずっと縛られているのは嫌だろう」

 秋に返事をするとすぐに縄を解く作業に集中する。

「そりゃそうですけれど、こんなことをしたらニコルに――」

「もう旦那様は終わりだ。あの人の機嫌を窺うのももうしなくていい。自分の身を守るためにアンタのような人間を見捨てなくていいんだよ」

「……はぁ」

「壊し屋が来たのさ」

「壊し屋?」

「聞いたことはないのかい? 高額の報酬で依頼主の要求をこなす連中だよ。主に怨恨が関わっているんだけれどね。つまり、旦那様、いやニコルは何処かの誰かさんに恨まれているってわけ。だから、こんなことをされる。まぁ、どうせお互い様のような碌でもないことなんだろうけど」

 秋は窓の外をもう一度見た。相変わらず真っ赤な光景の中で、赤い爆発が夜に震えている。

「連中の目的はニコルの資産を全て破壊することだ。水晶花の農場から水晶線の工場、そこを見張る男達にそこで働かされている子ども達、そして、アンタと私のような家政婦、みんな破壊の対象さ」

 話している内に秋を拘束していた縄が全て解かれた。

 秋は立ち上がって、長い間動かせなかった体を軽く運動させる。

「ほら、のんびり屈伸運動なんかしてないで、さっさとこの縄を巻きつけなさい」

 サンナは今まで秋の手足を縛っていた縄を今度は秋の腰に巻き始めた。

「あの、何してるんですか?」

「もう下の階は壊し屋が入ってきている可能性がある。だから、窓から脱出しなさい」

 サンナの額に汗が流れるが彼女は構わず作業を続ける。

「何を言って――」

「アンタも見つかれば殺されるか、また別のところに売りとばされるか、その場で連中の玩具にされるかのどれかだよ。それでも構わないっていうのなら縄を巻くのを止めるけれど」

「……」

「そんなのは御免だろう?」

 囁くようにサンナが言った。

 秋の腰に縄がきつく巻きつけられている。

 農場よりも近くの場所から爆発音が聞こえた。

「さぁ、早くそこの窓から降りな。正面は拙いだろうから、邸の裏から脱出できる場所が良いね」

 サンナが秋を窓際まで押しやる。

「窓を開けな!」

 秋はサンナの言うとおりに窓を開けた。同時に焦げ臭い匂いが鼻孔を襲った。

「うっ」

「これは人も焼かれてるね」

 苦い顔をしてサンナが鼻と口を三角巾で覆った。

「窓から体を出して慎重にね。大丈夫、私が四階から支えててやるから心配することはない。私に力があることはアンタもわかっているだろう」

 秋は窓枠から体を外に出し、壁にヒールをかけて体を支える。秋の動きに合わせてサンナが縄に力を込める。

 ここにきて、不図、秋はサンナに訊いた。

「サンナさんはどうするんですか?」

 このまま秋が下まで降りてしまったら、サンナは四階に取り残されたままだ。サンナの話によると一階から壊し屋とかいう連中が徐々に上にあがってくるはずである。そうすれば、サンナの身は危険どころの話ではないだろう。

「後から行くよ」

 秋の問いかけに皺だらけの笑みをサンナは向けてきた。

 その顔を見て秋は直感した。

 ――……嘘をつくなよ。

 秋だけを逃がして、自分は壊し屋に始末されるつもりか?

 秋はサンナを見つめた。無言の訴えだった。

「そんな顔をするんじゃないよ。これはさっきアンタを縛ってしまったことへの罪滅ぼしみたいなもんさ。本当はね、縄を緩めてアンタを逃がしてやりたかったんだけれど、いざとなったら駄目だったよ。ニコルが怖くってね。だから、これはその罪滅ぼしさ」

「そ、それは――」

 秋は暗がりの中でサンナを責めたことを後悔した。

 この後悔もきっと都合のいいものなのだろう。

 でも、何であの時、サンナを責めたのかという後悔が押し寄せてきた。

 今、自分の命と引き換えに秋を助けようとしてくれている人をどうして責めてしまったのか……。

「そんなのはつり合いませんよ。あなたが自分を犠牲にしようとしているのなら、私はここを降りません」

 強い口調で秋は言葉を放つ。

「二人でここを逃げ出す方法を考えましょう」

 しかし、サンナはゆっくりと首を横に振った。

「それは駄目だよ」

「でも――」

「それは駄目だ。こんな老いぼれがいたんじゃあ、とてもじゃないが逃げ切れないよ」

 サンナは秋の肩に右手を乗せる。

「若いアンタと老いぼれの私とではアンタが生き残る方がいいんだよ。いや、アンタが生き残るべきなんだ。二人で逃げてアンタが死んで私が助かりでもしたら、私は耐えきれない」

 柔らかい表情でサンナは秋に語りかけてくる。

「大丈夫。ここを出て、門を左に真っ直ぐ進めば王都がある。王都の警吏局には連絡してあるから、王都に着く前に保護してもらえるよ。そこまで頑張って走るんだ」

 爆音がし、煙が風に乗って秋たちのところまで流れてくる。嫌な臭いがその濃度を増していた。

「それにこれは最後の私の決心なんだ。今までニコルの言うことしかしてこなかった私が、私の意思で、私の頭でやり遂げたいって思ったことなんだ。アンタが逃げ切れるかどうかはアンタ次第だけれど、少しでも成功の可能性を大きくしてあげたいんだ。アンタには生きてほしいんだ。私が叶えられなかった人生を歩んでほしいんだ」

 生きてほしい。

 秋はその言葉が胸に強く刻まれた気がした。

「老いぼれの願いを叶えてくれるかい」

「だからって――」

 秋は言葉に詰まった。

「だからって、あなたを見捨てることはできません」

 だからってサンナを置いていくことは心が許さなかった。

「見捨てるんじゃあない。私の希望をアンタが引き継ぐんだ。私の後悔をアンタにアンタのやり方で消してほしいんだ」

 言って、サンナが胸ポケットから青い宝石の首飾りを取り出して秋の首にかけた。

「お守りだよ。私が小さい頃に母親からもらったもんだ。災いから守ってくれるらしいんだが、今まで仕事をしてくれたことがなくてね。そんなものを持たせてもどうかなとは思うけれど、アンタにこれを渡しておくよ」

 青い宝石が夜の赤を反射する。その宝石をサンナが握った。

「アンタだけは守ってくれないとね」

 サンナが縄を持つ手に力を込めた。

「さぁ、アキ、お別れだ。残りは少ないけれど私の分もしっかり生きておくれ」

 ドン、と秋の胸が強い力でサンナに押された。

「サンナさん!」

 そんなことをされれば必然的に秋の体は地面に向かって落下する。

 勢いよく重力に引かれた秋はあっという間に地面近くまで落ちていった。

 ――!

 秋が地面に激突する寸前で縄が上に吊り上り、秋を瞬間的に腰で宙に支え、優しく地面に着地させる。

 サンナの器用かつパワフルな芸当だった。

 秋は四階を見上げた。

 そこではサンナが笑っていた。親指を立ててグッドのポーズをとっている。

「早くいきな!」

 こうなってしまったら、秋はもう行くしかない。

 今更、サンナのことを思って行動しても彼女の迷惑になるだけだろう。ともすれば、それは裏切行為にも等しいものになってしまう。

 秋は腰の縄を解くと、サンナに向かって深く一礼して、走り出した。

 サンナの願いを叶えるために。

 秋自身が助かるために。

 生きていくために。

 秋は地面を蹴って走り出した。




 炎が蠢き、煙が対流する空間で巨大な銃を持った屈強そうな男達に見つからないようにして、ニコル・ダンの襲撃された邸宅を脱出してからどれだけ走っただろう。

 サンナに言われた通りに門を左に曲がって、明かりのない夜道を煤で汚れたメイド服姿で秋は走っていた。

 息はぜぇぜぇと酸素供給が間に合っておらず、全身の筋肉は激しい運動によって乳酸漬けになっていた。

 それでも、秋は走る足を止めない。

 汗と共に、涙がその頬を伝っていた。

 この世界に来るまではあれだけ周りのことと自分のことについて無気力、無感動だったというのに。

 生きていくことなどには無興味で、日々の中で虚無的だったというのに。

 どうして今、自分はこんなにも必死なのだろうか。

 生き延びたい、生き残りたいと必死なのだろうか。

 死にたくなかった。

 まだ、死にたくなかった。

 希薄だった生が命の危機によって呼び覚まされたのかもしれない。

 それが生物としての本能であったとしても、それは同時に秋の強い意思でもあった。

 まだ、生きていたい。

 まだ、死にたくない。

 だから、走る。

 苦しくても、走る。

 辛くても、走る。

 先が見えないのに、走る。

 本当は助けがないかもしれないのに、走る。

 今にも倒れそうな秋は考えていた。

 いや、感じていた。

 これが生きるということなのかもしれない、と。

 どんなに苦しくても、辛くても、生きていないといけないのだと。

 生の実感が希薄になっていたのは甘えだったのかもしれない。

 走る。

 走る。

 走る。

 何かが変わりつつあった秋は、完全に変化した。

 希薄だった生が正常値以上になった。

 そうして、秋は生きるために走り続けた。

 やがて、意識が切れ切れになったところで見知らぬ人間に受け止められた。

 意識を確認されて、意識が断絶した。

 次に目を覚ますとき。

 この瞼が閉じて、再び目を開けるとき。

違う世界に行っていても、性別が変わっていても構わないから、生きていたいと秋は思った。


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