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 肌寒い。そして、騒がしい。

 秋は「鎮痛」の心地よさが頭と体から抜けいったことを知った。いつの間にか眠ってしまい、十五曲を再生し終わってしまったようだ。もう一度、再生ボタンを押そうと体を起こしかけたところで秋は異変に気が付いた。

 ――肌寒いのは良いとして、何でこんなに騒がしいんだ?

 不図、頭に浮かんだ疑問を深く考えることなく、秋は上半身を起こした。

 そこで、驚愕した。まさに鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。それほどまでに衝撃的な光景だった。

 秋は自分の部屋にいなかった。目に映し出されたのは見知らぬ町のような場所。

 大、中、小、様々な大きさの木造の建物が無数に並んでいて、その中心を広い大通りが奔っていて、たくさんの人が往来していた。時間は夜らしく、通り沿いの家や店と思われる建物につけられたランプや提灯、外灯が眩しく光っている。

 ――夢か……?

 それにしてもリアルな夢だ、と思った。人の往来のざわめきがここまで現実的な夢があるものだろうか。四方八方から老若男女、色とりどりの声が確かな振動となって空気に伝わってくる夢があるのか? 秋は唐突に得体のしれない不安を覚えた。同時に自分の体が小刻みに揺れることに気が付いた。揺れる身体。

 ――俺、今何の上にいる?

 秋は慌てて自分のいる場所を確認した。本当ならば、今自分がいるべきは小さい頃から世話になっているベッドのはずなのに、しかし、そこは薄汚れた木材で作られたリアカーの上だった。そして、秋の乗ったリアカーは低身長の横に広い人間によって引かれていた。背後からでは顔が見えず性別は分からないが、その人間は汚らしい長髪で、ボロボロの着物を着ていた。歌でも口ずさみながら、機嫌良さそうに前に進んでいる。どうやら秋が起きたことに気づいていないらしい。

 秋はホッとした。何故だか知らないけれど、この人間に自分が起きていることを知られるのは拙いような気がした。また、今すぐにこのリアカーから逃れなければならないと思った。理由が何であれ、今見えているこの光景が夢であっても、このリアカーに留まることをしてはならないと本能が告げている。

 だから、秋は逃げようとした。立ち上がって全速力で逃げようとしたが、無理だった。スタートダッシュに失敗して無様な格好でリアカーから落ちた秋は自分の両足を見た。右と左の足首がロープでぐるぐると縛られており、そのロープの余った部分はリアカーの台の端に結ばれていた。

 不安と逃亡本能が恐怖に変わった。それは、今自分がロープに巻かれて何処かに運ばれようとしていることと、リアカーから落下した際に強い衝撃と鈍い痛みを味わったからだ。夢では痛みを感じないという話が真実ならば、今この状況は現実であるに違いなかった。

「ああ?」

 リアカーを引いていた主が訝しげな声を上げて振り向いたのを秋は悟った。しかし、秋は相手の顔を見ることはせず、必死に足のロープを解きにかかった。手を縛られていないのが幸運だった。

「こらあ、何してる!」

 リアカーの主が声を荒げる。

「逃げようってか!」

 こちらに来る足音に焦りながらも秋はロープを解く。特に難しいことはなかった。暇つぶしの知恵の輪が役に立ったのかもしれない。

 そして、秋が足の枷を解き切った瞬間、頭が鈍痛に襲われた。秋は地面に転がった。砂が口に入った。殴られたのか蹴られたのかなどと無駄なことに思案しながら秋は顔をあげた。

 秋の視線の先には髪と同等の清潔さの欠片もない髭をびっしり生やした男が目を充血させて、秋を睨んでいた。その表情が、せっかく捕らえた獲物を逃がしてなるものか、と男の心を物語っている。どうやら秋は獲物らしい。焼くのか煮るのか蒸すのかは知らないが、食べられるらしい。いや、食されるかどうかは定かではないが、少なくとも、この男は秋を人間としては見ていない。

 だから、秋は逃げた。久しぶりにダッシュという動作を取った。今度は躓いて格好悪く転がり落ちることはない。

「待て、こらあああああああああ!」

 男が絶叫して、往来が喧噪の色を変えた。人々が全力疾走する秋か、吠えながら秋を追う男に注目する。

 ――何だよ、これ? 夢じゃねえーのか? ……ちくしょう、頭痛い。

 秋はすり抜ける余裕などない人混みをかき分けるようにして進んだ。驚く人がいれば嫌がる人もいた。しかし、そんなものにいちいち構ってはいられない。

 息を切らしながら後ろを振り返る。あのリアカー男は見当たらなかったが、低身長な人間だったので見えないだけかもしれない。あの表情を思い出すと地の果てまでも追ってきかねない、と秋は思った。

秋はしばらく大通りを流れる人混みを縫って走っていたが、やがて現れた細い路地を見つけてそこに飛び込んだ。さっきまでの素早く逃げられないもどかしさから解放され、一気に加速した。何処の道をどちらに行けば安全かなど毫も分からないので、直感で地を蹴った。リアカーの男が追ってくる気配を感じなくなっても秋は走り続けた。自分がこんなに長い距離を走れるとは思っていなかったが、行けるところまで行こうと決めた。

 路地裏に大通りの光が漏れて来る。空の月と星々の光が夜に流れている。風は冷たいけれど、走って暖まった秋の体にはちょうど良かった。



 秋の呼吸器が悲鳴を上げていた。

「げほっつ、つつっ、ぐえっ    」

 夜の冷たい空気が秋の肺に吸収され、その温度と体温のギャップが秋を激しく咽させた。足には嫌気的な解糖によって乳酸が溜まり、立っていることさえ困難なものにした。しばらくの間、秋は地面に蹲るようにして苦しく呼吸を続けた。

 秋の呼吸と鼓動が落ち着きを取り戻し始めた時、背後で不意にザリと人の歩くような音が聞こえた。ドキリとして秋は立ち上がろうとしたが、全力疾走の疲労から近くの壁にもたれるのがやっとだった。

 家が密集した路地の一角。その中の一軒に寄りかかりながら、秋は足音の主が現れるのをジッと待つしかなかった。あのリアカーを引いていた小男ではないことを願いつつ、表情を強張らせながら、足音の聞こえてくる角を見つめた。

 果たして、そこに姿を見せたのは黒いドレスに身を纏った一人の女性だった。年は二十代後半のように見えた。月光で茶色く長い髪の艶が煌めき、艶めかしい表情で以て秋を見つめていた。まるで秋に姿を見せる前から秋を見ていたとでもいうように。

 女の双眸に捕らえられた秋は些少の安堵を覚えたが、同時に別の警戒心を抱いた。未だにここが現実なのか、夢なのか、定かではない。別の世界に来てしまったなんて馬鹿げたことがあるわけないと思うが、短時間に起きたことが起きたことなので何ともいえなかった。故の警戒心である。

「どうやら、うまく撒いたようね」

 唇を少し歪めて女は言った。秋を見下すように女は続ける。

「あのまま捕まっていたら大変だったわよ。一生、ごみ虫同然の扱いを受けることになっていたでしょうね……それにしても、低級者の割には良いものを着ているのね」

女は秋の目の前まで来て、品定めをするように秋の全身を眺めた。秋は何も口にすることができず、ただ女が立ち去ってくれることを祈った。それくらい嫌な第一印象を持った。

「あるいは外からきたとか? まぁ、身売りの的にされるくらいだから低級者には違いなさそうだけれど」

 身売り、という言葉に秋が眉を顰めたのを見て、女は艶めかしく笑った。冷たい笑みだった。

「その表情だと外から来たようね」

 言って女は秋の首筋に手を伸ばし、そのまま鎖骨まで指を這わせて、長い指で秋の肌をつつく。小刻みにリズムを刻みながら。一度、二度、三度。

「――――!」

「あら、女性に触れられるのは慣れていないのかしら?」

 女は益々艶めかしく、妖しく笑った。秋の驚きが面白かったのだろうが、その笑顔からは興は感じ取れず、冷たさだけが得られた。実際、秋が驚いたのは女の表情のような肌の冷たさが理由だった。冷蔵庫に入れっぱなしの金属のような温度と肌触りが秋の背に悪寒を走らせたのだ。

「ふふ。悪くないわね、貴方。顔立ちも奇麗だし、いい素材だわ」

「いい素材?」

 反射的に秋は聞き返した。口から出た言葉が思ったよりもはっきりしていたことに秋は安心した。どうやら自分はまだ我を保てているらしい。

「そう、素材。まぁ、貴方が知る必要はないから詳しくは言わないわ」

 言って、また女は笑った。艶めかしくもあり、いやらしく。

「ところで貴方、名前は?」

「……」

 秋は口ごもる。自然に唇が塞がったのだ。

 それは、リアカーの男と同様にこの女も危ない気がしたから。まぁ、危ないとはいっても、小男とこの女の危険な臭いは全くの別物であるが。男を賤しい危なさとすると、この女からは不吉さ危なさが感じ取られた。それにここまで終始女のペースだったので、逡巡した結果、女に引き込まれないためにも秋は名ではなく別のことを口にした。

「他人の名前を聞くなら、まずは自分が名乗ってからでしょう?」

 お決まりの台詞のようだったが、効果はあったらしく、

「ふふふ、それもそうね。私はエマ・シルバーシック。しがない魔女。哀れな魔女。そして、危ない魔女よ」

「…………」

 女、エマ・シルバーシックの自己紹介に秋の脳味噌が混乱した。というより、面食らった。魔女と言ったのか? それも平然と。恥じらいも躊躇いもなく。いやしい、とか哀れとか言っていたが、言葉に反するように誇らしげに魔女と言った。

「魔女に会うのは、初めてかしら? それとも嫌な思い出でもあって?」

 艶めかしい眼が秋を捕らえる。秋はエマの眼を見返したが、その双眸に焦点を合わし続ける勇気はなかった。視線を落として、エマのドレスの裾にやった。

 どうやら、自分は可笑しな夢を見ているのか、あるいは本当に別の世界にでも来てしまったらしい。 頭の鈍痛と体の酸欠を考慮すれば、後者の可能性の方が高かった。少なくとも秋の知っている世界ではない。馬鹿馬鹿しいと思ったが、そう考えざるを得なかった。夢ではなく、現実。秋の日常ではなく、非日常。平凡不偏な世界ではなく、見ず知らずの不鮮明な世界。そう考えるのが妥当だと思った。同時に最悪だとも思った。

 視界が不透明な場合には常に最悪の状況を考える、というのが秋のセオリーだ。最も、近頃は虚無感に苛まれていたためしばらくの間忘れていたことだったが、久方ぶりにセオリーに従う時が来たようだ。夢ならば今すぐにでも覚めてほしいが、違うのならば最悪を念頭に置き、行動するべきだ。セオリーに則り、別世界と考えるべきである。

 ――っつても、今の状況とか、その他諸々皆目見当がつかねえんだけど。

 秋が黙って思案しているのをエマが不機嫌そうに眺めていた。自分が名乗ったのだからお前もさっさと名を名乗れ、と彼女の雰囲気が言外にそう言っている。仕方なく、秋はその名を口にした。

「華原秋」

 秋の名を聞いてエマは満足そうに笑った。艶めかしい色はなく、今度は冷たさのみで。

「歳は?」

「十七才。貴方は?」

「二十八よ。誕生日は?」

「三月十八日。貴方は?」

「五月十四日」

 淡々と一問一答が行われた。どんな意味があったのか秋には分からなかったが。

 名前と、歳と、誕生日  その人間に関わるベーシックな情報。

 常に最悪を想定して行動するというセオリーを持っていながら、秋はそれらを見知らぬ相手に伝えてしまった。それも魔女相手に。警戒心を持っていながら、自らの名前と年齢、誕生日を教えてしまった。この行為が最悪と繋がるとも知らずに。この行為が最悪に結びつくとも予想できずに。

 無理はなかったのかもしれない。目の前の人物が本物の魔女であったとしても、女が魔女であるなどとはただの高校生の秋には信じ切ることはできなかったのだ。おまけに過程も分からず、見知らぬ土地にいるのである。信じないわけではなかったが、確信することはなかった。

 だから、この時点での秋の過ちは魔女が魔女であるということを信用せずに自分の名前と年齢、誕生日を明かしてしまったことである。

「ふふふふふっ」

 不敵な笑みを漏らして、エマが秋に触れた。触れたというよりも、右の手のひらで秋の両目を覆った。

 それと同時に秋の眼球に電気のように痺れが奔り、やがて頭、首から全身に広がった。魔女であることの証明だった。

「うっ」

 小さなうめき声が秋の口から洩れたが、それきり体を動かせなくなった。

「おやすみなさい、華原秋。目覚める時までには、奇麗なお人形にしておいてあげるわ」

 秋は痺れが徘徊する脳に必死に活動を働きかけたが、どうやらこのまま意識を保つことは困難だと悟った。瞼が落ちる。痺れの影響で狭くなった視界のエマの眼に映っていた秋は、またも人間として見られていなかった。


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