13
秋の肌に黒い亀裂が奔る。
秋の眼球が黒い血管を映す。
秋の心臓が何拍倍も加速する。
ドク、ドク、ドク、ドク、ドク、と。
生きている音がする。
迫る死を恐れて。
迫る破滅を拒んで。
秋の心臓が咆哮している。
「――――くっ」
そんな風に変化する秋を置いて、魔法は進行する。
秋の額の魔法陣はその大きさを増大させ、夜を闇色に犯し始める。
静かだった空気の停滞が、荒々しく夜風を煽る。地面が小刻みに振動する。夜空を黒く厚い雲が覆う。
儀式が始まったようだ。
エマが秋の胸の中に顔を埋めてきた。
「×××」
そして、エマ・シルバーシックはぼそり、と何かを言った。秋には聞き取れなかったが、人の名前らしかった。
秋は自分の手のひらを見る。
「……」
血管が浮き出て来ていて、それが真っ黒に染まっていた。太い血管も毛細血管も墨汁よりも深く暗い色になっている。
カラカラ、と口の水分が失われていくことに気がついた。
「――――うぐっ」
突然、激しい頭痛がした。
脳天を鉄の杭で打ち抜かれたような感覚だった。
これがエマの言っていた一瞬の犠牲の痛み。
次の瞬間、王都を飲み込む魔法が発動する。
「――――――――っつつ⁉」
漆黒が放たれた。
そうして。
空間から。
音が消えた。
光が消えた。
闇も消えた。
感覚が失われた。
秋は自分が真っ暗な海の底に沈んでいくようだ、と思った。
漆黒の魔力が秋を飲み込もうとしているのだということは秋には分からない。
ただ、自分が終わっていくのは何となく理解できた。
「……」
静寂なのか、騒音なのか。
冷たいのか、熱いのか。
わからない。
何もわからない。
ただ、自分が終わっていくのは何となく理解できた。
「……」
しかし、その中で。
唐突に。
一筋の青い光がキラキラ、と水面に反射する光のように揺らぎ始めた。
「……?」
青色。
明るく、綺麗な、青色。
その明かりは徐々に強さを増していき、秋に音を取り戻させる。光を取り戻させる。
秋を夜に帰す。
秋の感覚を再起動させる。
「あ」
視覚が回復して、秋は声を漏らした。
胸からまばゆい青色光が溢れだしていたのだ。
漆黒の魔力と拮抗するように青光も電磁波を伴って空気を揺さぶっている。
ネグリジェの中から光源を取り出す。
夜に開放され、光源はより一層強く光り輝き始めた。
それは。
サンナとの別れの際に彼女から受け継いだペンダントだった。
お守りの青いペンダント。
災いから守ってくれるペンダント。
――アンタだけは守ってくれないとね。
サンナの言葉を思い出す。
――アンタには生きてほしいんだ。
あの夜の逃避行を思い出す。
辛くて、苦しくて、先が見えなかった夜。
それでも生きていたくて走り続けた夜。
「そうだ」
秋は思い出す。
生きていたいと願ったことを。
生き延びたいと祈ったことを。
「俺はまだ死にたくないっ」
そして、青い宝石のペンダントは、秋の意思に反応するようにその青色の閃光を四方八方に迸らせた。
秋とエマを飲み込んで、空気を取り込んで、地面に浸みこんで。
青く。
夜を輝かせた。
ずうん、と地鳴りのような大きな音がし、地面が振動した。
その反動で秋はエマから離れ、地面を転がった。エマも秋と同じように土に汚れる。
しばらくの間、夜が青く振動していた。
「痛っつ―――」
地面の揺れが静まって秋は身を起こす。
すでに先ほどの青い光は掻き消えていた。手にしていたペンダントに目を遣ると、そこにはめられていたはずの青の宝石は粉々に砕け、九割ほどがなくなっていた。また、肌の黒い亀裂も眼球の黒染めも綺麗に元通りになっている。
壊れたペンダントを秋は握りしめる。感謝の気持ちを込めて。
サンナのくれたお守りは、彼女の願いどおりに秋を守ったのだ。
「ど、どうして――?」
そして、秋の数メートル前方で倒れたまま、エマが弱々しく口を開いた。
「何で失敗したの?」
むくり、と立ち上がる。
「私はちゃんと魔法を発動させたはずなのにっ! 何故? どうして? 何が起きたの?」
立ち上がって、辺りを見回すエマ・シルバーシックは妖艶さと冷たさ、幼い悲しみさえ完全に失った困惑の表情で、その瞳から涙を流していた。二つの瞳から熱い液体を零していた。
エマの双眸はあるものに固定された。
「そ、そのペンダントは――」
エマが秋の手の中の壊れたペンダントと周囲に散らばった宝石の残骸を見て、目を見開いた。顔が強張る。
「魔法阻害の宝石……?」
一度、無表情になったエマはしかし、直後に激しい怒りの色を呈する。
「これはっ――君のための復讐なんだよ⁉ 何故、それを邪魔するの⁉」
秋に向かってエマが怒鳴る。完全に我を失っていた。それに未だに秋を別の誰かと勘違いしている。
「私たちを引き裂いたアイツらに、アイツらに――っ!」
「俺は――」
そんなエマに向かって秋は言う。意外にも腹の据わった力のある声だった。
「俺はあなたが思っている人間じゃあありませんよ」
自身の血で汚れていたフランベルジェを拾って、エマに向ける。
「華原秋。これが俺の名前です」
思い違い、重ね合わせを指摘する。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああっ」
エマが目を剥く。カッと魔女の表情がそこに戻った。
しかし、今のエマは妖艶で妖しい、冷酷な雰囲気の魔女ではなく。
混乱で、混沌で、狂った魔女。
「かはらしゅう。カハラシュウ。華原秋。カハラ。カハラ。かはら。秋。しゅう。シュウ」
エマが両手で頭を抱え、呪文のように大声で狂ったように連呼した。
焦点の合っていない双眸で秋を捕らえる。
だるん、と頭から腕を離す。荒く息をするのが聞こえる。乱れた髪の毛の隙間からエマの瞳が不規則に動いているのがわかった。
そうして、狂気をエマが纏う。
「そうだったわね。あなたは華原秋くん。そうそう、カハラクン。私の邪魔をしたカハラくん」
覚束ない足取りでエマが秋に寄ってくる。
「私たちの復讐の邪魔をしてくれたカハラシュウくん――――っ!」
唐突にエマの手の中に白い光が発生したかと思うと、次の瞬間、その白光は巨大な鎌へと形を変えた。
「華原秋、カハラシュウ、かはらしゅう」
まさに鬼の形相でエマが秋に鎌で切りかかってくる。
「あああああああああああああっ」
ぞくり、と秋の背中に悪寒が奔った。
が。
ここで足を竦ますわけにはいかない。
そんなことをしたら、このままエマに切り殺されてしまう。
秋は深く腰を落として、エマの鎌をフランベルジェで迎え撃つ。
その頃、シャルルとフルートは屋上に繋がる通路にいた。
空間を黒く浸食していた魔力を青い閃光が掻き消したのを見て、シャルルはフルートに向かって叫ぶ。
「フルートさんっ、エマの魔法が消えました」
窓ガラスに向かって作業をしていたフルートは冷静に、
「ああ、私にも見えた。それよりも手を貸してくれ」
「はい」
フルートの隣へシャルルが移動する。
現在、二人はエマの張った結界の解除を行っていた。
魔力による結界は術者と距離が遠い場所ほど破りやすいという特性がある。故に地上にいるエマから最も離れた場所、すなわち、屋上の手前の結界を破ろうとしているのだ。
「秋はどうなっている?」
窓ガラスに指で魔法陣をなぞりながら、フルートが深刻な表情でシャルルに訊く。フルートの指に触れられたガラスがその軌跡を淡い青色に発光させる。
「はい。無事のようですが……」
ごくり、とシャルルが唾をのんだ。
「……エマと戦闘を開始」
「ちっ」
「あと、どれくらいですか?」
焦りの声音でシャルルがフルートの魔法陣を見つめる。
「わからない……よし、今度こそこれで準備は整った。シャルル、もう一度、魔力の供給を頼む」
結界を破るために既に五つの魔法陣をフルートは描いていた。いずれも失敗に終わったが、五度の失敗から結界の特徴を分析し、最適の魔法陣を構築した。今度こそこれでいけるはずだ。
「はい」
シャルルとフルートはエマの結界の解除を始動させるため、フルートの描いた魔法陣に両の手を乗せた。そして、魔力を流し込み、再び結界の解除を開始する。
何も警吏局全域に張り巡らされた結界を破る必要はない。最低、人が一人通り抜けられる広さを確保できればそれで構わない。
「さっきの青い光は何だったんでしょう」
額に汗を光らせるシャルル。
「おそらく、魔法阻害だ。あれで一定時間はエマは魔法を使えない。その間にここを突破するぞ」
「はい。でも、どうして華原さんが?」
「阻害は魔導師でなくても可能だ。秋が阻害を引き起こすものでも持っていたのだろう」
シャルルは秋がつけていた綺麗な青い宝石のペンダントを思い出した。
「あの青いペンダントですかね」
「かもしれない」
フルートの額にも汗が流れる。
「結界を突破次第、迅速にエマの魔力凍結を行う。魔法石はあるな」
「はい、持ってます」
シャルルは右手の小指にはめた指輪を見せる。
「しかし、華原さんが持っていなかったら、二つだけしかありませんけれど」
「そのときは二つでなんとかするさ」
パシっと魔法陣から火花が散った。
「いける」
フルートが唸った。
そして、届きはしないが、地上で戦う秋の背中を押すように言う。
「耐えろ、秋。すぐに行く」
そして、魔法陣が激しく回転し始めた。
 




