12
その女は夜に紛れてやって来た。
いつの間にか、夜の闇に溶けだして、秋の眼前にその妖艶な姿を出現させる。
「あ、あんたは」
「こんばんは。予告通りに警吏局及び王室の襲撃――というよりもその破壊に来たわよ」
ネグリジェに着替え就寝しようとしていた秋はベッドの傍に置いておいたフランベルジェを手に取って、その女に向けて構える。眠気も疲労も一瞬にして吹き飛んでしまった。
エマ・シルバーシック。
冷たい目をした魔女が部屋の扉の前で妖しく微笑んでいた。
「悪いわね。お休み前だったかしら?」
漆黒のドレスを身に纏い、白色の大きな杖を持ったエマ。大木の枯れ木を連想させる印象的なデザインの杖だ。
「でも、これから私の魔法に協力してもらわないといけないのよ、華原秋くん」
コツリ、と。
エマが秋に向かって一歩近づいてきた。秋はエマから逃げるようにベッドを乗り越えて、窓に背を預けた。
「残念だけれど、協力というよりは犠牲かしらね」
「何を言って――」
「あなたには魔法の起爆剤になってもらう、と言っているのよ」
言って、エマが秋に白い杖を向けてきた。秋もエマの動きに合わせてフランベルジェを深く構え直す。
が。
秋の臨戦態勢は何の意味もなさなかった。
「では、最後の宴を始めましょう」
その瞬間。
エマの白色の杖から神々しい光がほとばしり、騒々しい衝撃波を伴って秋を飲み込んだ。
「⁉」
直撃を受けた秋の体は窓ガラスを突き破り、夜の中空に放り出されてしまった。
自分の体が地面に向かって一気に落下していくのがわかる。高さは五階。まともに着地できても相当の衝撃を受け、体が悲鳴を上げる高さだ。それに今の秋の体勢は背中が地面に向かっている格好だ。このままでは確実に体が断末魔を咆哮することだろう。
「ふふふ」
一方、エマは割れてガラスのなくなった窓枠から下を見下ろし、ふわり、と柔らかい動作で宙に浮かぶと、ゆっくりと下降していく。
「くそ」
体に空気を切る音を感覚しながら、秋は中空でもがいていた。
――どうすれば?
暗い夜の中に視線を這わせる。何か落下の衝撃を抑えられるものはないか?
――あれだ。
秋は体をひねり、体勢を整える。頭を上にし、足を地面に向けた。そして、秋の落下地点の傍にある一本の木を見据えた。
フランベルジェを振り上げ、その瞬間に備える。
「おおおおおおおおっ!」
思わず秋は叫んだ。恐怖を紛らわせるために。
高さ約二十メートルからの重力加速度を纏った秋と落下地点の木との距離は二メートルほど。
「おおおおおおおおっ!」
そして、秋は衝突する寸前にフランベルジェを木に突き刺した。
鈍い衝撃が両腕を徘徊する。フランベルジェから手を放さないようにして秋は木に足を掛けた。フランベルジェを支点にして木にぶら下がる。
何とか、地面に落ちてペシャンコになるのは避けることができた。
「――はぁ」
秋の口から安堵の息が漏れた。
しかし、その安心は一瞬にして奪われる。
魔女の妖しい声によって。
「ふふふふふっ」
秋はすぐさまフランジェルジェを木から引き抜くと、覚束ない動作で地面に着地し、見据えるべき相手を視界の中に捕らえる。
「お見事だったわよ、華原秋くん」
ふわり、と秋とは対照的に余裕を持ってエマが着地した。
「何のつもりですか?」
秋はエマを睨む。こんな状況でも丁寧語を使ってしまうのは、エマが一応、年上の人間だからなのかもしれない。
「さっき言ったでしょう、魔法を発動させるのよ。この警吏局ごと王室も飲み込んでしまうくらいの残虐な魔法をね」
相変わらずの妖しい笑みでエマが言う。
「まさか、警吏局の魔導師さんは華原くんの体内のおかしな魔力の対流を性別転換魔法のせいだなんて勘違いをしていないわよね?」
「――え?」
シャルルが秋の魔力対流を性別転換魔法の残留だと言っていたことを思い出した。しかし、秋にその魔法を施した当の本人は別のことを口にする。
「その様子だと魔導師さんは勘違いしていたようね。本当のことを教えてあげるわ」
じりじり、とエマが秋に近づいてくる。その距離は今現在十メートル弱。秋は動かなかった。動けなかったわけではない。ただ背中を見せたらそこでゲームオーバーな気がするのだ。
「あなたの中に膨大な量の魔力を納めさせてもらっているの。理由は単純。私がその魔力で以て華原くんをトリガーとし、ここら一体を焼失させるためよ」
ふふふ、とエマの金属質な声音が夜に馴染まず、いやに耳に残る。
「どうして、そんなこと――」
秋の言葉を遮ってエマが続ける。
「あなたを売りとばしたのもこのためよ。ニコル・ダンのところに飛ばして、そこを壊し屋に襲撃させ、あなたを保護という形で警吏局内に送り込む。そして、私が警吏局に侵入し、王都を破壊。これが私の計画。まぁ、一億ベルで売れるとは思っていなかったから、最期の晩餐をすることができて僥倖だったわ」
エマが憎しみの色を込めて笑った。始めて見せる表情だった。
「王都外周に魔法陣を描くのは困難だからね。よって、人間に魔力を入れて、魔法の核とし、強大な破壊魔法を発動する。簡単でしょう?」
「言っている意味がわかりません」
秋の額に冷たい汗が流れた。
「それじゃあ、要約してあげる。華原くんには死んでもらうわ」
エマが杖を夜空に掲げる。
「安心しなさい。あなたは罰せられるべき王室を裁いて死んでいくのよ」
それに、とエマが妖しく微笑んだ。
「一人で死んでいくわけじゃあないわ。大勢の魔導師とともに死ぬの。そして、この私も一緒」
ふふふ、と。
妖しい微笑みが夜に反響した。
「そうね、言うなればこれは――」
エマの白い杖が細かい光を纏い始める。
「心中ってやつかしら」
瞬間、秋に向かっていくつもの閃光が放たれた。
左右、正面、頭上とあらゆる方向から迫ってくるエマの閃光を、しかし、秋は全て躱した。地面を転がるように避けたので、ネグリジェが汚れてしまったが、今はそんなことを言っていられない。
「あら」
秋の回避をエマが細めい目で眺めていた。
標的を外れた閃光は地面で爆発し、埃と衝撃をまき散らす。
躱されたことに多少の興味をエマは持ったようだが、すぐさま第二射を放ってくる。
「ちくしょっ」
秋は地面の振動で体のバランスを崩されるが、必死に堪えて、次々と閃光をやり過ごしていく。
シャルルのおかげだ。
彼女がかけてくれた感覚補助魔法の効力がまだ秋の中に残っていた。だから、閃光の軌道を視覚することができるし、それに合わせて繊細な回避行動を取ることができる。
しかしながら、これでは土人形との戦い同様に秋が動いていられる時間との勝負だ。だからといって、こちらからエマに攻撃を仕掛けていくにはそれ相応のリスクを伴うだろうし、魔女相手にフランベルジェ一本で挑むのも無理があるだろう。
――誰かが来てくれるのを待つしかない。
結局、秋の思考は助けを待つことに帰着した。
「残念だけれど」
しかし、秋の思惑を悟ったエマが冷たく言う。
「警吏局内外には強力な結界を張り巡らせているから、この場所に来ることはおろか、ここに私がいるということに気がつく人はいないと思うわ。まぁ、二人ほど、気づいている魔導師さんはいるようだけれど、ここに来るために結界を破るのは困難でしょうね」
エマの白い杖からさらに閃光が撒き散らされた。
「あの青髪九歳児ちゃんは優秀なようだから、困難ではないかもしれないけれど」
秋は左から迫ってきた二本の閃光を躱し、そのまま、頭上から秋を目掛けて振ってきた閃光を安全なスペースに飛んで回避する。
「それにたとえ彼女たちに結界を破ることができたとしても、その前に華原くんが倒れてしまうでしょう?」
定位置から閃光を放っていたエマはその動作を止め、一本の閃光を躱し着地した秋に向かって、加速した。
「⁉」
一瞬で目の前に接近してきたエマに対し、秋の目が見開かれた。
そうして、嫌な汗が全身から噴出する。
本能からの警告はあまりにも遅かった。
仮にこの汗が恐怖によって誘発されたものでも、そんなものは何の役にも立たない。
「大人しくしていてもらわないと、王都を吹き飛ばすために魔法を行使できないじゃない」
エマが銀白の光を纏わせた白い杖を大きなモーションで秋の腹部に炸裂させた。
「がっ」
鈍く、重たい一撃。
腹に受けた圧力が一気に全身を襲い、脳味噌を揺さぶる。
エマの杖による打撃によって、秋の気管内の酸素が撃ち出され、同時に赤い血液も吐き出された。
そう。
魔女にとってみれば、秋のような人間を圧倒することなど容易。
秋がその魔女、エマ・シルバーシックに対して、助けが来るまで時間を稼ごうと考えるのは愚行だったのだ。いくら感覚補助を受けているとはいえ、それで力関係の天秤が傾くなどありえない。
「がはっ、がはっ。つつっ―――」
秋は地面に蹲り呼吸を整えようとする。しかし、息をしようにも酸素を取り込めず、代わりに口から血がぼたぼた、と零れてくる。
苦しいなんてものではなかった。筆舌に尽くしがたい命の危機。
「ほらほら、しっかりなさい」
そんな風に苦しむ秋へエマがもう一発、杖での打撃を与えた。
「ぐはっ――――」
秋は地面を盛大に転がり、そして、血を吐き出す。しかしながら、今の打撃で秋は切れ切れではあるが呼吸を取り戻した。
蹲っている秋の目にエマのブーツが映った。
頭の上から言葉が降ってくる。
「大丈夫よ。犠牲の痛みは一瞬。ただ魔法の発動と共に華原くんの体が蒸発するだけよ。そして、一緒に私も蒸発して、警吏局も王都も消えてなくなるの」
「そ、……そんなこと」
苦しい息を何とか繋いで秋は言う。
「そんなことして……何になるんですか?」
「復讐よ」
「……何故?」
「さて、何故でしょう?」
ふふふ、と妖しく笑ってエマが秋を抱き起した。もはや秋に立ち上がる力はなく、エマに抵抗することはできなかった。フランジェルジェが金属音を響かせて地面に落ちた。
左手で秋の体を支えその胸で抱き留めると、エマは空いている右手の袖からリンゴぐらいの大きさの透明な結晶を取り出した。
「それは……」
「華原くんの魔力結晶よ。欲しがっていたでしょう? 返してあげる。私も命を投げ捨てて復讐を決行するわけだから、最期はきれいな男の子と一緒の方がいいかなって思うのよ。今の美少女な華原くんじゃあ、嫉妬しちゃうわ」
エマが魔力結晶を秋の胸に押し当てる。すると、肌と魔力結晶の接触面がきらきらと光りだし、秋の全身を熱く熱し始めた。
思わず、呻き声が出る。
光で視界を奪われる。
「うっ」
「すぐに終わるわ」
秋の体が透明な光で覆い尽くされた瞬間、秋の体が弾けた。
びくん、と宙で歪に震えて、再びエマの胸の中に納まる。
「これは……」
光で潰された目を開けると、そこにはグラマラス美少女、華原秋としての体ではなく、ただの高校生男子である華原秋としての体があった。
あまりにもあっさりと秋は元の体を取り戻した。ネグリジェが似合っていない。
「さぁ、始めましょう」
エマが秋の頬を撫で、首筋に指を這わせる。
秋はエマの金属質な手触りをされるがままに受け入れていた。
もう無理だ、と秋は思った。
詳しいことは分からないが、秋はこれからその命をエマの魔法のために使用されるらしい。
つまり、死ぬということだ。
せっかく、無気力、無感動を抜け出したというのに。
ようやく、生きる気力を取り戻したというのに。
ここで終わりらしかった。
「これから心中するっていうのにこんなことを言うのは何だけれど、ありがとう、華原秋くん。最期にあの人に会えたような気持にしてくれて」
エマが秋に頬ずりしてくる。切なげな瞳で秋を見つめてくる。
「街の中で見つけたときは驚いたわ。そっくりだったから」
「……」
「あの日から会うことなんてできなかったから」
秋はエマのそんな様子を見て、自分が誰かに重ねられていると感じた。きっとエマにとって大切な人なのだろう。
「だから、ね」
エマが秋の額に人差し指を乗せた。
すると、エマの指先から半径二センチほどの黒い複雑な紋様を示す魔法陣が現れた。魔法陣はくるくる、と指先を中心に回転し始める。
「――――っ⁉」
そして、秋の脳内と体全身がぞくぞく、と嫌な感覚を認識した。
「これで君の仇は取れるよ」
エマが秋にそう言った。
いや、きっと秋には言っていないのだろう。きっと、エマが秋に映し出している彼女の大切だった誰かに言っているのだろう。
エマは笑顔だった。
妖しさも冷たさもない。
子どものような無垢で純粋な笑顔だった。
とても魔女とは呼べない、幼くて、悲しい笑顔だった。
「私頑張ったでしょう? 褒めてほしいな」
ぎゅっと。
エマが秋を抱きしめた。
秋も秋でエマのような美人に抱かれて死ぬのも悪くはない、なんて思った。
そう思わないと、やっていられなかった。
なぜなら。
秋の額の黒い魔法陣から夜よりも深い不吉な闇が溢れだし、この世界を飲み込もうとしていたのだから。