11
秋の疲労とエマの潜伏先がダミーである可能性が高いことを考慮して、秋、シャルル、フルートの三人は警吏局まで帰って来ていた。
「私としたことが……」
フルートは自分の判断が許せないようで何やらブツブツ、と独り言を漏らし続けている。
「まーまー、気分を切り替えて、次のことを考えましょう」
一仕事の後は一風呂浴びるのが良い。
気分もさっぱりするし、体の疲れも癒される。
ということで。
警吏局の一階奥にある大浴場の女湯の暖簾を三人でくぐる。
「お風呂で気分転換しましょうー」
「随分と広いね」
秋が脱衣場を見回す。荷物を預けるロッカーがざっと見たところで百人分ぐらいはあるだろうか。
「ここのお湯は温泉なんです。お肌がすべすべになるんで警吏局員に人気なんです。一応、寮にもお風呂はあるんですが、あっちはただのお湯しか出ないんで、こっちに来る人が多いんですよ」
「へぇ。じゃあ、今日は空いてるほうなの?」
秋はもう一度、脱衣場を見回す。人はほとんどいなかった。
「まだ時間が早いからあんまり人がいないんでしょうね。もう少し、遅くなるとギューギューで大変です」
人でごった返す大浴場を想像する秋。人混みが得意でない秋としては早い時間に来られて僥倖だった。
三人は並んで、それぞれ服を脱いでいく。
そして、サンナの青いペンダントを大事にロッカーに納めたところで、秋は不図、気がついた。
――そういえば。
シャルルに言う。
「そういえば、私、体は女性だけど、実は男じゃん」
「ああ、そうですね」
全裸のシャルルが忘れていた、とでもいった風に反応する。秋はそのシャルルの姿を見て、顔が赤くなったのを自覚。
「その……」
「やっぱり男の子なんですね、華原さん」
ニヤ、とシャルルが微笑んで、前かがみになり、胸の谷間を強調するようにして、秋を見つめる。意外に大きかった。敢えて、何が大きいのかは言わないが。
「ちょっと、何してんだ、シャルルっ!」
秋は一瞬、目が局所的に釘付けになったが、理性で以てシャルルに背を向ける。
「からかっているんです」
ほらほらー、とシャルルが素っ裸で秋の視界への侵入を試みる。この娘には羞恥心というものがないのだろうか、と秋は思った。
「外見こそこんなだけど、本当に男なんだぞっ」
目をつむって、シャルルの視覚的攻撃に耐える秋。
「知ってますよ?」
耳元でシャルルがささやく声がした。どうやら本気で秋をからかっているようだ。
「シャルル。男湯に乗り込んでこんなことしてないだろうな」
「まさか、誰がそんな破廉恥なことをしますかあー」
今のお前にそれを言う資格はない、と心の中で秋はツッコむ。
「タオルぐらい巻いてくれ」
「はいはい。わかりました」
秋の要望通りにシャルルがロッカーまでタオルを取りに移動する音がした。
「巻きましたよー」
「ありがとって――⁉」
秋は開いた目をすぐに閉じた。が。そこにはタオルを体に巻かないで、頭に巻いているシャルルが悪戯を楽しむ子どものような笑みを浮かべて立っていた。
「ピュアなんですねー、華原さん。もしかして、女の子と手をつないだこともなかったりします?」
「余計なお世話だ」
ていうか、手をつなぐのと、裸を見るのとでは次元が違うだろう、と秋はまたしても心の中でツッコんだ。
再び背を向けた秋にシャルルがクスリ、笑い声を零した。
「からかって、すみません。もうしませんから、安心してください」
「信じるよ? 目を開けるよ?」
秋はシャルルに念を押してから、ゆっくりと目を開いた。
今度はちゃんとタオルを体に巻いてくれたシャルルがいた。
「何か、そのグラマラスな華原さんだと、本当に男の子って感じがしないんですよね。なので、私としては別段気にならないのですけれど」
「でも、一応、男なわけだし。女湯に入るのは拙くない?」
「だからといって、男湯に行くわけにはいかないでしょう。何人の殿方を鼻血の出血多量で病室送りにするつもりですか?」
「う」
シャルルの言うとおりだ。今の秋はどこをどう見ても、誰がどう見ても、グラマラス美少女なのだ。
「それもそうか」
「滅多にないチャンスですよ、堂々と女湯に入れるなんて。ね、フルートさん」
と、ここでシャルルは隣にいるはずのフルートに話を振った。
が。
そこには脱衣中のフルートはいなかった。
「あれ?」
「?」
秋とシャルルは辺りを見回す。フルートはどこに行ったのだ?
「フルートさん、不機嫌でしたからね。先に入っちゃったのかもしれません。私たちも行きましょう」
「う、うん」
秋は人生史上最大の背徳感を背負って、大浴場に向かう。
と、そのとき。
シャルルがロッカーの影に向かって、きょとん、とした。
「フルートさん、何してるんです?」
秋がシャルルの視線の先に目を遣ると、そこにはタオルに身を包み、胸を両腕で隠すようにして、焦りの表情を浮かべるフルートがいた。
「秋、こっちを見るな。訴えるぞっ!」
目が合うやいなや、秋はフルートに怒鳴られた。
「いや、タオル巻いてるじゃないですか」
「こんな薄い布きれ一枚では防御にならないだろうっ!」
「何と戦う気ですか?」
「何とって……それは、その」
モジモジ、とフルートが身をくねくねさせた。
「今の華原さんは女の子なんですよ。こっちに入るしかないじゃないですか。フルートさんもピュアですか? 男の子と手をつないだこともなかったりします?」
「それとこれとは話が違うだろう」
「もう、華原さんもフルートさんも何を恥ずかしがっているんですか」
呆れたようにシャルルが言う。
「お二人とも面倒くさいです。早くしないとお風呂が混雑しちゃいますよ」
ガシっと。
「おいっ⁉」
「ちょ、シャルル」
シャルルは秋とフルートの腕を掴んだ。
そして、強引に二人を引きずって、大浴場のドアを開けた。
最初のうちは、秋は挙動不審で、フルートもそわそわと落ち着かなかったが、温泉に浸かる段になって、二人ともようやく三人が裸でいることに慣れてきたようだった。
「♪」
一方のシャルルはそんな二人とは違って、陽気に鼻歌を歌いながら、美肌効果の湯を満喫していた。
右からフルート、シャルル、秋と並んで、温泉で本日のエマ戦の疲れを癒す。
「いやあ、生き返りますねえ。死んでませんけど」
なんて冗談をいうシャルル。
秋は隣で極楽へ行きかけているシャルルを放っておいて、淡い緑白色のお湯で肌を撫でる。確かに肌がすべすべになりそうな感覚だが、温泉に疎い秋にはそれ以上のことは分からなかった。ただ、心地良いのは間違いない。
しばらく、三人はお湯に浸かりながらぼーっとしていたが、唐突にフルートが申し訳なさそうに口を開いた。
「……秋」
名前を呼ばれて、秋はフルートの方を向いた。
「今日は悪かった。私がいるから問題ないなどと豪語しておきながら、戦闘に参加させてしまって」
しゅん、とフルートが俯いた。
そんなフルートに秋は言う。
「シャルルにも言ったけれど、自分の体を取り戻すためだからあれくらいの苦労はしないとね。まぁ、始めは正直、怖かった。でも、フルートが何とかしてくれたから問題なしだよ」
最後に秋は笑ってみせた。フルートは秋の笑顔に気恥ずかしそうな顔をする。
「そう言ってくれると助かる。秋は私たちが責任を持って元の体に戻してやる」
決心するようにフルートは力強い目をした。
「うん、ありがとう」
秋は素直に嬉しかった。それが彼女たちの仕事であるのは分かっているが、出会ったばかりの秋に仕事以上の気持ちで接してくれていることが嬉しかった。
だから。
「……あのさ」
今度は秋がシャルルとフルートに意を決するようにして口を開いた。
秋はまだ彼女たちに言っていないことがある。
男から女に変えられた、ということ以前の問題。
それは、秋がここではない世界からやってきたということ。
今まで信じてもらえるのか分からなくて、なかなか言い出せなかったのだ。突然、別の世界から来たんだ、なんて言えなかった。
しかし、今なら。
共に戦った今なら。
シャルルとフルートに言える気がした。自分が違う世界から来たのだ、と。
信じてもらえるのかは、やはり、分からない。
だからといって、このまま自分の中にこの事実を閉じ込めることは秋にはできなかったのだ。
元の体に戻ることは勿論、重要だ。でも、それ以上に元の世界に帰ることが何倍も重要な気がした。
元の世界に戻りたい。いや、戻らなければならない。
シャルルとフルートと別れるのは、きっと寂しいことだろうけれど。
「私が――」
秋はゆっくりと言う。
その様子をシャルルとフルートはじっと待ってくれていた。
「私が違う世界から来た人間だって言ったら――」
湯気が緩やかに大浴場内を対流する。
「ここではない別の世界の人間だって言ったら、信じてくれるかな?」
最後の方は小さな声になってしまった。
秋の言葉を受けて。
数秒の間、シャルルとフルートは虚を突かれたように、きょとん、としていた。
「そ、その……」
そして、二人の表情を見た秋が不安を感じたとき、シャルルが言った。
「信じますよ」
フルートも口を開く。
「信じるさ」
「迷い人って言うんです」
シャルルが首筋にお湯をかけながら言う。
「ここではない別のところから来て、この世界で何か重要なことを成し遂げるそうです。まぁ、昔話なんですけれどね。でも、私は華原さんの言うことを信じます」
「まぁ、秋がそんなしょうもない嘘を吐くとは思えないからな」
言って、フルートがお湯を秋の顔にかけてきた。
「うわっ」
「警吏局の魔導師として手は尽くす。だから、それまで頑張れ」
言って、フルートが笑った。幼さが残るが、可愛らしい笑顔だった。
秋はもう一度、
「ありがとう」
と、感謝の言葉を伝えた。
警吏局女子寮東棟二一二号室。
この二人部屋がシャルルとフルートの自室だった。秋は三階層上の空いていた部屋で今頃爆睡でもしているかもしれない。
二人は風呂上りの姿から寝間着に着替え、就寝前のひと時を過ごしている。
「フルートさん、何をしているんです?」
シャルルは机に向かって唸るフルートに訊いた。
「いや、やはり、秋が元の体に戻るためにはエマから魔力結晶を奪うしかなさそうだな、と」
フルートは手にしていた魔導書をシャルルに手渡す。分厚いその本の深緑色の薄汚れた表紙を持ち、茶色く痛んだ頁をぱらぱら、とシャルルが雑にめくった。
「私にはさっぱり分かりませんね」
シャルルは細かく魔導書の詳細を見ることなく、机の上に置いた。
「ところで華原さんのことなんですが」
「今も秋について話していたが?」
「いえ、迷い人って話です」
ああ、とフルートが頷く。
「隣国の勇者様が迷い人らしいな。突然現れて、偉大な事を成し遂げるってやつか」
「華原さんがもし本当に迷い人だとして、華原さんが元の世界に帰れるっていう保証はあるんですか? 手は尽くす、とかまた豪語してましたけれど」
「そっちについては当てがある。ていうか、シャルルは信じていないのか? 風呂場では信じてますとか言っていたが」
「信じてますよ」
しかし、シャルルは暗い顔をする。
「でも、華原さんが迷い人であって欲しくないんです。今まで何人の人が迷い人と祭り上げられて、苦難を押し付けられてきたことか」
迷い人。
そう呼ばれる彼らは、昔話の中の英雄であると同時に、別の話では天災の生贄にされたり、大罪人にされたり、魔女への供物にされたりしてきた。実際に偉業を成し遂げる者もいるが、前者に比べれば、極小数だ。それに犠牲にされた人々が本当に迷い人であったという証拠はない。
輝かしい一面が目立つだけで、実際には犠牲の面の方が多い。
不安そうな顔をするシャルルの肩をフルートが叩いた。
「なら、秋が迷い人だと気付かれる前に元の世界に帰してやればいいだけだ」
「はい」
「明日は忙しくなるぞ。特にシャルル、お前は寝不足だと――」
喋りながらフルートがベッドに潜り込もうとして、その動きを止める。二段ベッドの上に上がろうとしていたシャルルも固まった。
驚愕、による思考停止だった。
なぜなら。
部屋の窓の外に人が落下していく様子が見えたからだ。
そして。
重力に引きつけられていた人物は、まぎれもなく、華原秋その人だった。
「どうして、華原さんが⁉」
「秋っ!」
シャルルとフルートが慌てて、窓際に向かう。
落下していく秋を助けるためにフルートが窓から飛び出そうとするが、窓がびくともしない。鍵を開けられないどころか、触れても窓ガラスが振動すらしない。
「ちっ――結界だと⁉」
舌打ちするフルートと窓の下を必死に覗き込むシャルルは新たな人物を認識する。
秋が落下した軌跡を辿るようにもう一人。
「あ」
思わず、シャルルが声を漏らした。
「ふふふ」
窓で隔てられた向こうの闇夜から、妖しげな笑い声が聞こえてきた。
その女は妖艶に月明かりに照らされながら、ゆっくりと下方に向けて、落ちていく。
夜に溶け込む漆黒のドレス。
冷たい双眸。
艶やかな笑み。
空気に馴染まない金属質な雰囲気。
シャルルとフルートを無関心に眺めながら、二人の前を降りていったのは。
見紛う余地もなく。
見違うはずもなく。
魔女、エマ・シルバーシックだった。




