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平日の午前中って、どうしてこんなにも柔らかい感じがするのだろう。
華原秋はそんなアバウトなことを思いながら校門を出た。早退だった。早退だからといって体のどこかに不調があるというわけではなく、いたって健康なのだが嘘をついて学校を早々に後にしたのだ。いわゆる仮病というやつだ。
しかし、秋の場合、体が不良でなくても心に問題があるのかもしれなかった。ここ一年以上、どうしようもない倦怠感と脱力感が重く秋自身に粘着していて、それがいつの間にか秋を無気力、無感動な人間にしつつあった。これといった原因も見当たらず、脱力感に反発する活力も湧いてこないので最近は完全に倦怠感に支配しされてしまい、こうして午前中で学校を早退する有り様である。
「だるー」
秋は白い雲が散らばった青空に呟いてみる。始めは少しでも自分の感覚を言葉にすることで自分にやる気を起らせようとしていたが、今となってはただの独り言でしかなかった。
そうして独り言が口から洩れる度に自分が空っぽになっていく感覚を秋は覚えた。自身が空虚な存在になっていく感じがした。虚無感が迫ると同時に生きている実感をなくしてしまいそうになった。
生きている感覚なんて本来、全ての人が四六時中感じているものではないのかもしれない。しかしながらそれは生きていることに一生懸命で、精いっぱいだからこその無感覚なのだろう。対して、秋は違う。秋は生きていることが希薄になってしまいそうなのだ。日々の生活の中で生を忘却するのではなく、日々の生活の中で生が薄れていくのだ。
毎朝目が覚める度に、毎日空を見上げる度に、毎日誰かと触れ合うたびに、自分の空虚さを感じ、またそれがさらに大きくなっている気がしてならない。
これじゃあ、まるで生きているフリをしている。
そんな風に思うけれど、しかし秋に今の自分をどうにかしようという考えは起らない。これが自分なんだと心の何処かで肯定している。それが正しいことなのか、間違いなのかはわからないし、自ら進んで答えを知りたいとも思わなかった。
相変わらずの倦怠感と脱力感、虚無感を伴って歩を進めていた秋は不図、その足を止めた。場所は駅に向かう途中の商店街にある、とあるCDショップの前だった。中古のCDが大特価大安売りさており、その中の一枚に秋の目が引きつけられた。いつも通り、ぼーっとして歩いていたのに何故、その一枚に目がいったのかは秋自身にも判然としなかった。
秋は売り場に近づいてサイケデリックなジャケットのCDを手に取った。ジャケットの絵には赤や青、黄、白に緑など様々な色によって複雑で出鱈目な模様が形成され、しかし、一つの幻想的な世界が映し出されていた。タイトルは「鎮痛」。ジェケットの裏を確認する。全十五曲入りのアルバムのようだった。これで百五十円、通常の価格の二十分の一の値段だ。
秋は鞄から財布を取りだし、レジに向かった。ジャケ買いだった。
帰宅後、秋は制服を着替えることなく真っ先にジャケ買いしたCDをCDプレイヤーにかけた。イヤホンをつけベッドに横たわり、音楽に身を沈める。
耳に流れ込んできたのは、アコースティックギターとピアノを中心としたインストルメンタルだった。
メロディーが耳から鼓膜に伝わり、そこから全身の細胞にしみわたってやがて心に流れ込む。
ジャケットのようにサイケデリックな曲調のようにも思えたし、それに反するようなノスタルジックな優しい雰囲気も漂っていた。旋律は柔らかく、緩やかに何かを癒すようだった。何かを作り出すようだった。何かを満たすようだった。
光の空を飛び、光の海を泳ぎ、光の森を抜け、光の草原をかけ、光の街を歩いた。そんなイメージで以て秋は「鎮痛」を聞いた。
十五の曲が秋に流れ込んだ。秋は全曲再生を終えて停止したプレイヤーの再生ボタンを押した。今聞いたメロディーをもう一度聞きたかった。一度では聞き足りなかった。一度では満たされなかった。まだ秋の心にはメロディーの流れ込む領域が大量に残っていた。
CDが回転する。プレイヤーが音の記憶を読み取る。そうして、メロディーが流れだす。
二度目を聞き終えた秋は、その後も何度も何度もサイケデリックなCDを再生した。心が満たされた感覚があったけれど、今度はその旋律の中に溺れてしまいたいと思った。この音楽の中で溺れてしまえば、華原秋という人間が空虚な存在でなくなるか、あるいは華原秋という存在そのものが消えてなくなってしまえると思った。
どちらでも構わなかった。もはや倦怠感と脱力感、虚無感など忘れて、秋は「鎮痛」に浸った。
何度も何度も再生して、どこまでも音の海に沈んでいった。
晴れていた空が灰色に変わって雨を降らせたことも、雨雲が去った後の茜空に虹がかかったことも、夜の月が鋭く欠けていたことにも気づかずに秋はメロディーを聞いた。
真っ暗な部屋の中で何度目とも知らぬ再生ボタンを押して、ベッドの上で丸まっていた秋は自分が深い眠りに落ちたことにも気が付くことはなかった。