3
「れっつ、くぅっきぃんぐ!」
台所に立ち、えいえいおーと両手を振り上げる。頭の中で、キューピーのテーマが流れ出した。愛は、食卓にある。
明かりの点いてない、薄暗い台所。コンロにこびりついた汚れが、どことなく生活感を漂わせている。
「しまっていこうぞ!」
景気づけにかけ声を上げるわたし。ジャージの袖をまくり、まな板を取り出す。手をしっかり洗って、シンクの前に立った。
「では、よろしく頼む」
渋みを帯びた声を響かせつつ、エプロンのヒモを引き締める先輩。エプロンは、薄い黄色をメインにした配色。胸元にちっちゃく、ひよこさんが描かれていた。
わたしが興味本位で視線を注いでいると、
「む。こんな姿をじろじろ見たところで、仕方がないだろう」
恥ずかしいのかな。先輩は意味もなく腕を組んで、ひよこマークを隠した。
「元々はお袋のエプロンでな。もったいないから、お袋が死んだあとも使っているんだ」
ひよこのエプロンを着けて赤面する大男の姿は、なんだかおかしくて、ついついわたしは吹き出してしまう。
ちなみに本日のメニューは、シジミのソテー。焼いたシジミの周りに、ピーマンなどの炒め野菜を添えたものだ。
で、そのシジミはといえば、ボウルに浸した状態でシンクの奥に置かれていた。先輩が、登校前に浸しておいたらしい。
貝の隙間から、ニョキニョキと身体を出したシジミたち……。見てるとなんだか、かわいいとすら思えてくる。
「このシジミ、今朝から漬けてたんですよね」
「そうだ」
それがどうしたと言わんばかりに、堂々と腕を組む先輩。
「うーん。できることなら、休日にやったほうがよかったかもしれませんね、シジミ料理は。半日近くも漬けちゃうと、かえって味が落ちちゃうんです。四時間くらいがベストなんですけど、平日だとなかなか難しいですよね」
「む。なるほど」
「あとですね」
わたしは、乱雑に納まった貝たちを指さす。
「貝どうしは、できることなら重ねないほうがいいです。上の貝が砂を吐いても、下の貝がそれを吸いこんじゃうんです」
水の量が少なかったのは、幸いだ。量が多すぎた場合、貝は窒息死してしまう。
「なるほど。勉強になるな」
「さて!」
両手を腰に当て、わたしは高らかに声を放った。
「じゃあさっそく、野菜を切っていきましょう」
「む? あ、ああ。うむ」
どこか気乗りしない様子で、つぶやく先輩。両手をよく見ると、各指の先に、茶色いゴム状の物がはめられている。
「……なんで、全部の指に、サックなんかつけているんですか」
「決まっているだろう。包丁で指先を切らないようにするためだ」
ええい、もう。
わたし、鼻から息を吹き出す。先輩の指についていたサックを、ぽいぽいぽい、とすべてゴミ箱に放りこんだ。
「なにをするんだ」
先輩がにらみつけてくる。
「ただでさえ、すべての指にケガをしているんだ。まかりまちがって、傷口が広がったらどうする」
わたしはひるむことなく、彼の鼻先にひとさし指を立てた。
「傷つくことを恐れていたら、いつまで経っても上達なんてしません! 指先の傷は、主夫の勲章ですよ」
ふっ、われながらかっこいいことを言ってしまった。
「む。たしかに、きみの言うとおりだな。俺としたことが、刃物くらいで怖気づくとは」
しゅんとうなだれる熊河先輩。変なところで打たれ弱い人だ。
「男として、一度決めた腹はなんとしてもくくらねばな」
そう言って、彼は包丁を持った。ひよこエプロンさえ着けてなかったら、前科百犯の強盗に見えただろう。あの目は、何人も殺してきた目だ。
「じゃあ、さっそくピーマンを……」
「ああ、待ってくれ」
冷蔵庫を開けようとしたところで、先輩に呼び止められた。背後から伸びた太い手が、ポニーテールの房をガッシと捕らえる。
「うぉう!」
わたし、思わず飛び上がった。ここを触られるの、すんごい苦手。そのうえ、先輩の力で引っ張られたら、ひとたまりもない。
「おっと、すまない。つかむところをまちがえてしまった」
パッと手を放す先輩。わたしはいきおいあまってつんのめり、冷蔵庫に顔面を激突させた。
「……」
わたし、無言。赤くなっているだろう顔を、冷蔵庫からぺりぺりとはがす。圧力をこめた目で、先輩を見すえた。
「……先輩」
「な、なんだ」
先輩の額には、冷たく光る汗がある。声も、やや動揺の色を見せていた。
事故とはいえ人の髪の毛を引っ張るなとか料理中に髪なんてさわるなとか色々言いたいことはあるけれど、それを一つにまとめるのなら、つまりはこういうことだ。
「少し、怒っていいですか?」
というわけで、がみがみがみ。
お説教中。
「……ふう」
お説教終了。うーん、ちょっと怒りすぎたかも。
「それで、いったいどうしたんですか。急に呼び止めたりして」
「うむ。いや、なんのことはない。ピーマンを切る前に、ほかの食材で練習をしたいと思ってな」
ふうん、なるほど。宿敵と戦う前に、多少なりとも経験を積んでおきたいってことかな。
「わかりました。じゃあ手始めに、なにか簡単な物を切ってみましょう」
冷蔵庫を開け、適当な食材を探す。
「あっ。このバナナ、使っちゃっていいですか? カットしてデザートにしたら、ヘルシーですよ」
先輩がうなずいたことを、確認。皮むきしたバナナを、まな板に乗せた。
「いいですか? よく見ててください。こうやって、丸めた左手を添えて……」
一センチくらいの間を空け、スライスしていく。ううん、やっぱ切りやすいなあ。これなら、先輩にやらせてもだいじょうぶだろう。
「左手は添えるだけでいいのか」
「はい。左手は、添えるだけです」
そう、左手は、添えるだけ……。
「じゃあ、あとは先輩。よろしくお願いします」
半分ほど切ったところで、包丁を置いた。先輩に向かって、ウィンク一丁。
「む。承知した」
先輩は包丁を持ち、気合を入れる。
「コツとしては、手はあくまで軽めに添えることです」
「む。了解した。あくまで軽めに、だな」
恐る恐るって感じの手つきで、ゆっくりとバナナを押さえる先輩。
瞬間――バナナが、ぐちゃぐちゃに飛び散った。
そんなばなな。
「すまない。軽く添えたつもりだったのだが……」
どんなことがあっても、先輩と肩をたたき合うような仲にはならないと、心に誓う。下手したら、関節脱臼で病院行きだ。
集めたバナナの残骸を、袋に詰めてゴミ箱にポン。うう、もったいないなあ。
はあ、しょうがない。気を取りなおして、次の食材に取りかかろう。
そんなわけで、いよいよ怨敵・ピーマン閣下のご登場だ。こいつをどう調理するかによって、料理の味も変わってくる。ここはぜひとも、慎重にいどんでいきたいところだ。
てかてかと光るグリーンのボディは、子供の嫌悪感をいざなうのに充分な迫力を秘めている。水洗いをし、まな板の上に置く。包丁を構え、準備OK! さあ、いくぞー。
と、そのとき。
「こんなに暗いと、手元がよく見えないだろう」
先輩がいきなり、壁際のスイッチをパチリと押した。天井のライトが、台所全体を明るく照らす。
とたん、急な光に驚いたシジミたちが、一斉に潮を吹き出した。そのうちの一つが、わたしの目を直撃する。
「ぎゃああああ!」
びっくりすると同時に、指先にするどい痛み。え、え、え? ちょっと、左の人さし指から血が出てるんですけど!
どうやら、はずみで手元が狂ったみたい。と、とりあえず、傷口を洗わないと!
「あわてるな。いま、絆創膏を巻いてやる」
戸棚から、救急箱を出す先輩。救急箱って、普通、台所に置くかな?
「いつケガしてもいいよう、手に届くところに置いているのだ」
ああら、なんて殊勝な心がけ。
消毒した指先に、ぐるりと絆創膏を巻いてもらう。小さいころ、よくお母さんに手当てしてもらったことを思い出した。
「あーあ。……やれやれ」
わたし、目を細めて、ため息。なんだか、一気にやる気がそがれちゃったな。
「一口に料理と言っても、なかなか大変なものだな。親父の苦労がよくわかる」
先輩が、心配そうにのぞきこんできた。気にかけてくれるのは、うれしい。けれどわたしを苦労させているのは、なにを隠そうこの人なのだ。
「ずいぶんと迷惑をかけてしまった。本当にすまない。しかしだな、鹿野。俺はここで、思わぬ妙案を思いついたぞ」
なぬ?
「普通に切るよりも、もっと手軽な方法を考えたんだ」
先輩、言うがいなや、むんずとピーマンを引っつかんだ。
「……どんな方法ですか?」
一応、訊かずにはいられない。
「こうするんだ」
ぽおん、とピーマンを上空に放る先輩。
そして、
「ふんぬぅ!」
豪、という風が吹き。
直後――シンクに、緑色のかけらが飛散した。
「むう。思いのほか、かけらが細かくなりすぎたな」
先輩、ほほについた汁を、指先で払う。
それを見ながら、わたし。
ただただ、呆然。
「……初めて見ましたよ」
野菜をこぶしで粉砕する人。
脱力、憤怒、感動。三つの異なる感情が、三重苦となって胸の中に飛来する。ここは怒るべきか、あきれるべきか、それとも感嘆すべきところなのか。釈迦でもキリストでもゾロアスターでもいいから、誰かわたしに教えてくれないだろうか。筋肉が服を着て歩いているような人への対処法を、ぜひともご教示してくださいまし。
「この方法はダメだな。台所が汚れてしまう」
神妙にうなりつつ、布巾でシンクをふき取る先輩。いや、気づくの遅いって。
「なるべく、食材を粗末にしないでくださいね」
わたしは言った。
「生き物の命を捨てるってことなんですから」
なんの気はなしに放った言葉だったけれど、先輩は思いのほか劇的に反応した。愕然と口を開き、両腕をぶるぶる震わせる。
「そうだな。ピーマンもバナナも、われらと同じ命なのだ。俺としたことが、命を踏みにじるようなことばかりをしてしまった」
手を合わせ、両目を固く閉じる先輩。
そこまで反省することでもないと思うけれど……。まあ、こっちの言い分を十二分に理解してくれたみたいだし、よしとするか。生き物を大事にするのは、べつに悪いことじゃないし。
散らばったかけらをひととおりひろい集めたのち、新しく出したピーマンを、まな板に乗せる。
ピーマンの苦味を軽減するには、まず縦切りにするのがコツだ。刃物が指に当たらないよう注意しながら、両断する。
その過程を見つめながら、
「子供のころは、俺もピーマンが嫌でたまらなかったな」
先輩がぼんやりとつぶやいた。
「いつから平気になったんです?」
本当は手先に全神経を注ぎたいところだけれど、無視するのもかわいそうだ。視線をまな板に向けたまま、わたしは訊いた。
「お袋が入院してからだ。男手一つでがんばる親父を見ていたら、好き嫌いなんてとても言えなかった」
「へえ……」
思いのほか重い理由だった。訊くべきじゃなかったかもしれない。
「思えばお袋も、俺のピーマン嫌いを治すために、ずいぶんと苦心していた。みじん切りにしたり、濃い目のスープに浸したり」
わたしは口をつぐんだ。先輩が遠い目をしているのが、背中越しになんとなく伝わった。先輩が、ちょっと成長しすぎなんだよバカ野郎わたしにも少し分けやがれと思えるくらいにまで大きくなれたのは、まちがいなくご両親の苦労があったからだ。そのことを、彼は誰よりも理解している。
「あんこにつけたり、『お薬飲めたね』に投入したり」
……それは、嫌いな感情を増進させるだけなんじゃ。
悪魔のトッピングだ。嫌がらせの域に達している。漫画のヒロインみたいなお母さんだ。
想像する。あんこに浸されたピーマン。ゼリーの海に浮かぶ、緑の果肉。
いかん、いかん。いまは、こんなことを考えているときじゃない。
こみ上げてくる吐き気を振り切り、改めて包丁をにぎり締める。ピーマンの断面から、種とワタを取り除いた。切り口を上にして、千切りにする。
「じゃ、あとはまかせましたよ、先輩」
線状に切りそろえたピーマンを、指先で示した。
「これを刻めばいいのか」
先輩は、包丁とピーマンを交互に眺める。
わたしは「ええ」とうなずいた。若干の不安はあるけれど、何事も経験だ。やらせてみないと、いつまで経っても上達しない。
「むぅ……」
手先を小刻みに震動させながら、ピーマンを切りそろえていく先輩。額に浮かんだあぶら汗から、緊張っぷりがありありと伝わってくる。見ていてハラハラすることこの上ない。押さえたほうの手でピーマンをぺしゃんこにしないあたり、学習しているとも言えるけど。
おっと、危ない危ない。
刃先が左手にふれそうになったのを見て、他人事ながらもドキンとする。念のため、消毒液を準備したほうがよさそうだ。
でも、その判断はまちがってた。
五分後――先輩は見事、ピーマンの切り分けに成功したのだ。
そのあとはほとんど流れ作業だった。先輩は包帯まみれの指を駆使して、サヤインゲンとマッシュルームをカットした。ジャンプ漫画もびっくりの急成長振りだ。
そんなこんなで、調理はいよいよ大詰めをむかえようとしていた。あとは野菜とシジミを、いっしょに炒めるだけだ。
「ぬ。おいしくいただかせてもらうぞ、命たちよ」
先輩、念入りに手を合わせながら、フライパンにシジミを投入。はじけた音を立てながら、貝たちは徐々にそのふたを開けていった。おいしそうな光景だけれど、貝からすれば地獄絵図なんだろうな。
続いて野菜とマッシュルームを、次々放りこんだ。油のはじける音といっしょに、ふんわりした優しい香りが鼻をついた。
「ううん、食欲をそそりますね」
わたし、目を細めてうっとり。なんだかんだでお腹の虫が鳴り出すころだ。できることなら、このままいっしょにゴチになりたい。
鼻の穴をふくらませるわたしとは対照的に、先輩はどこか納得がいかないようだ。眉を寄せながら、ためつすがめつフライパン上の食材を見やっている。
「もうちょっと、油を入れたほうがよさそうだな」
なにを切り出すのかと思えば、とんでもない。これ以上油を足したりしたら、こげてしまう危険性がある。
だけどわたしが注意するよりも早く、先輩は鍋の中に油を投じた。それも、ボトルを逆さにするかたちで。
ボトルを空にするいきおいで、そそがれていく油。
「――いや」
わたしが。
「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや」
つっこむと同時に。
「どこまで大ざっぱなんですかー!」
――ボン。
フライパンから、火柱が上がった。
「むう。しまったな」
額の汗をぬぐいつつ、ため息を吐く先輩。あんまりあせっているように見えないのは、気のせいかな。
「しまったな、じゃないですよ! しょ、消火器はどこですか」
天井に届くほどのいきおいで、もうもうと燃え盛る炎。
どどどどど、どうしよう!
突然の非常事態に、頭が真っ白になった。
早く消さないと、火事になっちゃうよ。
「なんか、でけえ音がしたんだけど?」
地獄と化した台所に、ひょっこりと顔を出す人がいた。弟くんだ。一目で緊急事態を看破したんだろう。目を丸くし、その場に立ちつくす。
煙の臭いをまきつつ、火のこが飛び散った。それらの一部が、弟くんへと降りかかる。
「危ない!」
先輩が、弟くんの前に立つ。
「なにやってんだよ、ニーちゃん! やけどしちゃうぞ」
弟くんの忠告にも、先輩は動じる様子を見せない。
炎をとらえたその瞳が、凛、と見開かれた。
「熊河流奥義――」
つぶやき、大きく胸をふくらませ、
「豪放磊落!」
吐き出した。突風とも思えるほど、強烈な息吹を。
火柱の真ん中に、巨大な風穴がうがたれる。直後、あれほどあったはずの炎は、跡形もなく消し飛んでいた。
って、そんなばなな~!
本日二度目の驚愕である。この人がケーキのろうそくを吹いたら、火どころかケーキ本体が吹き飛んでしまうかもしれない。
「ケガはなかったか?」
先輩が、弟くんの頭に手を乗せた。弟くんは、それをわずらわしそうに振り払う。
「なんで、俺を護ろうとしたんだよ」
むくれたまま、弟くんは問いただした。
「当然だろう。護るべき対象がなければ、男は強くなることなどかなわん」
先輩は激しく呼吸をくり返しつつ、答える。弟くんは顔を真っ赤にして、小さな顔をうつむかせた。
自分の顔から、自然、笑みがこぼれたのがわかる。
ま、なにはともあれ、一件落着。
と言いたいところだけれど、肝心の料理は台無しになってしまった。
黒煙をたてるフライパンの中には、焼けこげた貝と、黒々とした消し炭があるだけだ。これはもう、料理とすら呼べない。
どうしよう? ピーマンは、もうない。やっぱり、なにか代わりの物を作るべきかな。
あごに手を当ててうなっていると、弟くんが口をはさんできた。
「で? ごはん、できたんでしょ。早くおさらにつけてよ」
「……え?」
わたしは目をまん丸にする。
そんなわたしにかまうことなく、弟くんは背伸びして、フライパンの中をのぞきこんだ。目を細め、眉をいからせる。鼻をふさぎ、片手で煙を払った。
「げー、すっげえまずそう。早く食べさせてよ、あじみしてやるから」
そして、投げやりな口調で言い放った。
「どうせピーマンでも入ってるんでしょ」