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二年生の熊河先輩といえば、「男子空手部の大グマ」という異名で学校中にその名をとどろかせているのだけど、わたしがその大スターからなにやらじきじきに相談を受けたのは、秋も深まったとある放課後のことだった。
空手部が使用する、古めかしい格技場。
女子マネとしての本日の勤めを終えたわたしは、ジャージ姿のままカバンをかついで、玄関のゲタ箱からクツを出していた。熊河先輩は、そんなわたしの背後から、いきなり声をかけてきたのだ。
「鹿野。すまんが今日、俺の家に来られるか」
唐突な誘いに一瞬ギョッとしたけど、振り返った先にある先輩の真剣な目を見て、考えを改める。どうやら、やましい気持ちがあるわけではないようだ。
「少し、きみに協力してほしいことがあってな」
野生のクマと戦っても引けを取らないんじゃないかと思えるくらい、盛り上がった筋肉。胴幅は、わたしの倍はあるだろう。詰襟のボタンがいまにもはちきれてしまいそうで、内心ハラハラする。低く大人びた声からは、大柄な体格ににあわない、誠実でつつましい雰囲気が伝わっていた。
左のほっぺについた縦三本のひっかき傷が、少し気になる。こんな大きな傷、猛獣にでも会わない限り、できないだろう。
「うーん。すみません、今日はちょっと」
わたしはクツをはきつつ、先輩に愛想笑いを返す。かがんだ拍子に、ポニーテールの先が首裏に当たって、ちょっとくすぐったかった。
空手部はわが高校を代表する部活だけあって、練習もハードだ。部員の練習量が多い分、マネージャーの仕事も増える。やった人はわかると思うけど、これ、意外と疲れるんだから。けいこが終わればいつも、早く家のふとんで眠りたいって考えちゃうもの。
それに家では、お腹を空かせた妹たちが待っている。さっさと帰って、ご飯を作ってあげなくちゃいけない。特に今日は、ひさしぶりにクリームシチューを作ってあげる約束をしていた。大事な妹たちを裏切って、遊びほうけるわけにはいかない。
「ふむ、ダメか……」
先輩は目をふせて腕を組み、残念そうにうなる。ちょっと協力してほしいことがあったのだがな、と彼は言った。
「すまない。疲れているところを無理に呼び止めてしまったな。引き受けてくれるのならば、礼として商店街の割引券をあげようと思っていたのだが」
「あ、じゃあ行きます」
即座に意見を切り替えるわたし。割引券をもらえるのなら、話は別だ。
ケータイを取り出したわたしは、一番上の妹に連絡を取り、戸棚のカップメンを食べておくよう告げた。
「で、先輩。協力してほしいことって、なんですか?」
ギャオギャオと文句言う妹を無視して、通話終了。満面の笑みで先輩のほうへ振り返る。
「あ、ああ」と先輩はうなずき、切り出した。セリフをつまらせたことから察するに、わたしの変わり身の早さに気おされてしまったようだ。
「俺が親父と弟と、三人で暮らしていることは知っているな」
わたしはうなずく。熊河先輩のお母さんは、彼が小学校の頃に亡くなったらしい。それ以来はお父さんが男手一つで、二人の息子を育ててきたんだって。
「いま、その親父が過労で入院している」
「本当ですか? ……気の毒な話ですね」
両目を張る。まったくの初耳だ。
でもまあ、わからない話じゃない。一人で家計を支えるってのは、女子マネの仕事なんかより、何倍も大変なことだろうから。
「入院と言っても、ほんの四日程度のものらしいがな。それくらいなら親戚の家に泊まらずともよいだろうという判断により、俺と弟はいままで通りに暮らしているのだが」
へえ、そうなんだ。
「たしか先輩の弟くんって、まだ六才とかその辺でしたよね」
「そうだ。だから晩飯は俺が作らなければならない。だがここで一つ、問題があってな」
「問題?」
「うむ。そこできみに協力をあおぎたいのだ」
ふうん。
どういうことだろう。
先輩はゲタ箱から取り出したスニーカーをはき、つま先で床をトントンとたたいた。
「親父の代わりに料理を作るついでに、俺は弟の好き嫌いをなくそうと思ってな。実はわが弟は、ピーマンを親のかたきのように毛嫌いしているんだ」
うん、ピーマンね。わかるわかる。うちの妹の中にも、いまだにピーマン嫌いの子がいて、しょっちゅう残したりするんだよね。
だけど、せっかく作ったものを残されるのって、意外と傷つく。まあ、わたしも昔は苦手だったから、妹や弟くんの気持ちも、わからなくはないんだけどさ。
「好き嫌いをしていては、強い男になれないからな。どうにか克服させたいのだが、無理に食べさせようとすると、奴はかえってヘソを曲げてしまうのだ」
「そういう場合は、細かくみじん切りにして食べさせるといいですよ」
スープや調味料の味が染みこみやすくなるし、なにより一度に味わう苦味の量が少ない。
この方法でわたしは、一生の宿敵と思われたピーマンに、停戦協定を持ちかけることができた。
「そのみじん切りこそが、まさに問題なのだ」
先輩は腕組みしながら目を閉じ、神妙な顔を作る。
「これを見てくれ」
腕組みをといた彼は、手のひらを上にした状態で、左手を差し出してきた。
たらこのように太い五本の指先は、全部が全部、包帯でおおわれている。そういえばこれ、朝からちょっと気になってたんだよね。
「この包帯、どうしたんですか」
「みじん切りに失敗して、包丁で切ってしまった」
どぎもを抜く答えが返ってきた。五本すべての指に、ケガを負う? そんな人、そうそういないよ。
「どうにもこういう、ちまちました作業は苦手でな」
熊河先輩は深々とため息をついた。たしかに、グローブみたいに大きいこの手は、細かい作業には不向きかもしれない。
だけど……苦手にも、限度ってものがあるでしょ!
「つまり先輩は、わたしにピーマンのみじん切りをしてほしい、ってことですか?」
「ああ。すまない。だが厳密に言えば少し違う。俺はきみの手つきを観察することで、みじん切りのコツを盗みたいのだ」
コツっていうよりは単なる慣れだと思うのだけど、まあ、要は頼られているわけだから、悪い気持ちにはならない。
でも、少し疑問が残る。
「どうして、わたしに頼むんですか」
「周りの男友達に、料理の得意な奴がいなかったからだ」
たしかに、ほかの空手部員たちを見ている限り、料理が上手いという人はいなさそうだ。
だけどウチの部には、ほかにも数人の女子マネージャーがいる。その中には、料理上手な子もいたはずだ。
それに加えてわが部の女子マネージャーは、なかなか容姿のレベルが高い。わたし以外の人たちは、みんなかわいい人ばかりだ。どうせいっしょに作業するなら、美人のほうが嬉しいものじゃないかな。
そういった意味の質問をすると、先輩はめずらしく赤面しながら、静かに首を振った。
「いや。これは、鹿野でなければダメなんだ」
え……?
思いもかけない台詞に、鼓動が高鳴る。
わたしでなければダメって。
それって、どういう意味?
キリリとつり上がった眉。厳格そうな目つきに、引き締まった筋肉。肩幅は岩のようにいかつい。
いままで意識すらしていなかったのに、急に彼と、視線を合わせることができなくなった。頭に熱が上り、顔を下向けてしまう。
え、え、え?
ひょっとして、ひょっとして。
もしかすると先輩、わたしのことを――
「美人をそばに置くと、動揺してよけいに手元が狂いそうだからな。鹿野なら、その心配もない」
嫌味を感じさせないさっぱりとした口調で、無邪気に告げる先輩。
「……」
ほほう。
なるほど、よくわかった。
もし、調理の最中、熊河先輩の刺殺体が見つかったら、犯人はわたしだ。
「もちろん、理由はほかにもあるぞ」
じとぉ、とした視線を送られているのに気づいたのか、熊河先輩は弁解口調で咳払いする。
「鹿野。君は共働きの両親に代わって、いつも妹たちの夕食を作っているらしいな」
なるほど。わたしの料理の腕を見こんで、ってことか。
ちょっと怒りがおさまった。
「大した腕でもないですけどね。とにかく、そういうことなら、もう行きましょう」
謙遜しつつ、わたしは出口に向かって歩き出した。腕時計をチェック。そして、先輩にウィンクする。
「いま、六時半です。育ち盛りの弟くんは、きっとお腹をペコペコにさせていますよ」