風呂場の話。
前回は文が硬すぎたと思いまして、少し柔らかくした……つもりです。
赤子は生まれる場所を選べないと言うが、真にその通りである。私の自宅には玄関を上がり左方へ曲がると、トイレと風呂場に繋がる通路がある。ただでさえ狭っ苦しい通路に洗濯機と乾燥機が偉そうに腰を据えている。しかも、洗えば逆に汚れがつくと家族に酷評を受ける由緒ある年代物であるため、洗面台の横でごうごうとけたたましい音を立てて、いささか煩わしい。およそ褒める所が一つもない洗濯機である。
しかし、そんな洗濯機すら右に出るのを許さない空間がその通路の先にある、それは風呂場であった。
私は中学生の頃から、北方の広野から南国の島国まで「黒板消しのプロ」として名を馳せていた。私の手中に収められた黒板消しはたちまち虹色に輝き、持ち味を遥かに凌駕した持ち味をしたたらせた。私の手で消された光沢を放つ黒板を見て数々の教師がむせび泣いたに違いない。そして誰もが私が日直になる日を切に待ちわびた。しかし、私が消した黒板も完璧ではなかった。なぜなら中学生であった当時の私には黒板の最上部まで届く身長がなかったからだ。
だから私は黒板の神に願った。私の身長を伸ばしてくれと。すると、驚くことに私の身長は竹のように伸び始め、ついには黒板の四隅の汚れすら見落とさない長身の男へと変貌した。そして高校生になってさらに賞賛されたことは言うまでもない。
しかし、ここで話しは戻る。中学から高校にかけて急激な二次成長を遂げた私だが、そのせいで風呂場の浴槽が狭く感じるようになった。いや、感じるなんていうものではない、中学の頃は足を伸ばして至福の声を響かせていたものだが、今となっては膝を折り曲げなければ肩まで浸かれない。何と腹立たしいことか。風呂場の神よ、私の身長を縮めたまえ。
しかし、そう簡単に身長が上がったり下がったりするビックリ人間にはなるはずもなく、私は嘆きの涙を浴槽内にしたたらせていた。
涙がこぼれないように上を向いて歩こうとよくいうものだから、歩いてないけど浴槽に浸かっている時は上を向くときが多くなった気がする。そこで感じたことが今回の共感求む話である。
上を向けば当たり前に天井があるのだが、そこには水蒸気が天井に吸い付いて水滴を作っていた。それだけで鍾乳洞のような雰囲気すら出ている。この現象は誰でも見たことがあるはずである。
そして、私はそれを見た瞬間に無性に落としたくなった。だから浴槽の水を手ですくって天井に投げたりする。しかし、そうすると水滴が落ちてきて下にいる私は逆襲を受けるはめになるのだが。とにかく、落としたくなったのである。前置きが長かったために、読者のため息が夏風にのってやってきそうなほど下らない内容であるが、それだけである。深い意味はない。
共感求ム。