高揚感の話。
マイページに何もないのが虚しすぎて書きました。
普段は気が弱く一般平均にくらべ多大な決断力の欠如を恥じる優柔不断な私だが、今回ばかりは始めに断言しておくとしよう。このエッセイを拝見するのなら、連ね連ねた駄文の数々に目を通して貴重な時間をことごとくぶっ潰す覚悟と、どんな下らない妄想世界が展開されようと笑顔で受けとめる太平洋のような寛大な心を用意しなければならない。時は金なりである。
そして、上記の条件を配慮できたならば、いよいよ私の非現実的な現実へと読者様を誘うことになるが、このエッセイは読者様の清く澄んだ汚れのない 瞳孔をはばからずも比較的不健全な色へと染めてしまう危険性が隠れている。アイマスクを用いる、画面を布で覆う、電源を切るなどして対策をとっていただきたい。
私は、とある県下のとある市内のとある区画内に腰を据える、繁盛そこそこなレストランでおよそ三ヶ月前からバイトにいそしむ高校生である。入学当時は勉学に励み、刀剣の代わりに鉛筆振るって学問という名の未開の地を切り開かんとも考えたが、いつの間にか道を踏み外していたと気付いた時にはすでに遅く、私は指先すら見えない常闇に彷徨っていた。
世は、不景気の黒雲が背を伸ばし、競争社会で輪から弾かれた不憫な人々をさらに不況の雨が吹きさらす過酷な時世である。私も何らかの傘下に加わっていようと思い、半ば社会体験の気分でこのバイトを始めたのであるが、やはり善良な脳細胞の持ち主である私が生半可な心構えを潔しとしない。つまりは、身を粉にするのも惜しまない覚悟を持った素晴らしい従業員なのである。しかし、それにも関わらず全く仕事が入らないのは何ゆえであるか。
そして、今回の共感求む話しというのが、その両手で数え切れるほどしか職場に出ていない私がアルバイトで感じたことである。しかし、もちろん他の従業員が注文だ、片付けだ、勘定だと慌しい空気を取り巻いているなかで、ぬるま湯に浸かったように顔をほころばせながら何か感じることは出来ない。その感覚は突然に芽生えたのである。
私はホールスタッフと言って、お客様の注文から勘定までをお世話する手抜かりの許されない役職を任されているが、その仕事の内に冷水を運ぶという作業があり、それはお客様のグラスが空になるのを卑猥な視線で見計らってからボトルを片手に水のおかわりを注いでいくという地味だが大切な仕事である。その仕事をするために、私がポットに水を補給している時のことだった。
始めの方はポットに入った水が底で低い音を立てるが、水かさが上昇していくうちに音が高くなっていく現象というものがある。擬音語を駆使して伝えるならば。
ごぽぽぽぽぽここここここくくくくくきききき……。
となる。少なくとも私の中ではこうなる。こうなってしまう。
残念ながら私のしがない文才ではこれ以上の表現は難を極める。ぜひとも、底の深い容器に水を入れてみて欲しい、するとこの低音から高音になっていく感覚が分かるはずである。しかし、水を注ぎながら懸命に耳を澄ませる痛々しい姿を家族や友人に目撃されることだけはないように細心の注意を払っていただきたい。
ところで、その音が何なのかということに話しを戻す。
私は、この音を聴きながら少なからず高揚感を覚えた。音階が上へ上へとのぼり詰める音は、私の身体に悪霊のごとく取りついた疲労を緩和させた。雑巾のように絞られていた心が解放されて緩みを取り戻すような感じである。
見えない何かが私を晴れ舞台へ伸し上げていくような高揚感。ラッパを吹く幼児の天使が私を賞賛し頭上を飛びまわり、天国からの光りが私の足元だけに降りしきる。懸命な仕事人へ成り済ますため、表面は無表情できっかりコーティング、内面では陰湿な笑みを浮かべていた。
何も読者の皆様にポットに水を入れながら高揚感を覚え、兼ねて私に共感しろなどというおこがましいことは言わない。ただ、何かにのぼり詰める音というのがいかに気分をくすぐるかということに、共感願いたい。そう思った所存である。
共感求ム。