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夫が私に贈ったのは980円のバラ。それなのに、初恋の彼女には家をプレゼントしていた

作者: 熾星
掲載日:2026/10/25


 結婚三年目の記念日。夫の黒瀬航平がくれたのは、今年も送料込み980円の小さなバラの花束だった。


 通販で買った花束は、包装紙にしわが寄り、花びらの縁も少し傷んでいた。


「千春、ごめんな。今、会社が厳しくてさ。落ち着いたら、ちゃんと埋め合わせするから」


 私は傷んだ花びらを取り除き、リビングの花瓶に生けた。


 その後、会社の資金繰りを助けるために、母が遺した花屋まで売った。二十年以上続いた店で、私が母から相続した唯一の不動産だった。


 藤崎莉央の帰国祝いが開かれたのは、それからしばらく経った頃だ。


 酔いの回った莉央が、友人たちに囲まれて笑っていた。


「航平がね、ご両親の家を譲ってくれたの。あそこを私のスタジオにするつもり」


 周囲から羨ましがる声が上がった。


 その家には、私も行ったことがある。


 航平が私の手を引いて庭へ出て、会社が落ち着いたら改装しようと話していた家だ。


「いつか、ここで一緒に暮らそう」


 あの日、彼はそう言った。


 少し離れた場所から航平を見ると、グラスを手に莉央の話を聞いていた。否定する様子はない。


 その夜、私はもう家のことを尋ねなかった。


 あの家も、航平も。


 もう、私にはいらない。



1



 午前一時、航平が帰宅したときには、荷物をまとめ終えていた。


 ダイニングテーブルには離婚届と、三年前に交わした婚姻に関する覚書がある。航平は玄関脇のスーツケースに目をやり、上着を脱いだ。


「ネットの動画、あれ、お前が流させたのか?」


「違うよ」


「だったら明日、説明を出してくれ。俺たちは話し合って結婚したんだし、あの家は俺のものだ。莉央も酔って余計なことを言っただけだから」


 私は離婚届を彼のほうへ滑らせた。


「説明ならする。離婚が成立したら、もう夫婦じゃないって」


 航平は書類を見下ろした。


「……離婚? 家のことで、そこまでするのか?」


「今日で三年だよ。もう終わりにしたい」


 彼は離婚届をテーブルに放った。


「千春、そんなこと言えば俺が折れると思ってるのか? お義父さんが倒れたとき、病院を探したのは誰だよ。保証人の借金だって、俺が弁護士を紹介しただろ」


 父の手術の日、航平は出張先から駆けつけてくれた。債権者とのやり取りを引き受け、夜通し病院にいてくれたことも覚えている。


「感謝してるよ。あのとき助けてくれたことは、今でも」


 私は書類をそろえた。


「でも、それとこれとは別だよ。もう一緒には暮らせない」


「意地になってるだけだろ」


 スーツケースを引いて玄関へ向かうと、航平が先回りした。


「待てよ。まずネットの件を何とかしてくれ。来週、莉央の番組が始まるんだ。変な噂が広まったら困る」


「莉央のためなら、何でもするんだね」


「は?」


「ご両親の家も、お義母さんのブレスレットも。新ブランドの仕事だって、莉央に任せたでしょう」


「家はスタジオに使わせるだけだ。ブレスレットは撮影用。仕事は仕事だろ」


 私はスマートフォンを取り出した。


 画面には、航平の車の助手席で白いバラを抱える莉央が写っていた。


「夜中に二人で会うのも友達だから? 会社でいつも莉央の味方をするのも仕事?」


「千春……」


「一緒に住もうって言ってた家まであげちゃった。私、どこまで我慢すればよかったの?」


「いい加減にしろよ。そんな言い方する必要あるか?」


 スマートフォンをしまい、私は彼の横を通り抜けた。


「もう聞かなくて済むよ」


 今度は引き止められなかった。


「少し頭を冷やせ。何日かしたら、落ち着いて話そう」


 返事をせずにドアを閉めた。


 家の鍵はテーブルに置いてきた。



2



 三年前、航平との結婚には、お互いに事情があった。


 父は会社を経営する知人の連帯保証人になっていた。その会社が倒産し、多額の返済を求められるようになった頃、父が脳出血で倒れた。


 私は病院と弁護士事務所を行き来し、家を売ることまで考えていた。


 そんなときに結婚を持ちかけてきたのが航平だった。


 彼の祖父と父は古くからの知り合いだった。黒瀬家は住宅設計やリフォームの会社を経営しており、病床の祖父は親族間で揉めている経営のことも、独身の孫のことも心配していたという。


 航平は父の治療先を探し、保証債務の整理に必要な弁護士を紹介してくれた。医療費の一部も立て替えてくれる代わりに、私は彼と結婚し、祖父の前では仲のいい夫婦として振る舞う。


 三年後に婚姻を続けるか話し合うことも、書面に残した。


 婚姻届を提出した日、市役所の前で航平が言った。


「仕事は今までどおり続けていい。三年経って、千春が別れたいと思ったら、ちゃんと手続きするから」


 父の手術が行われた夜、医師から容体がかなり厳しいと告げられた。


 説明書に署名しようとしても手が震え、名前すらうまく書けなかった。航平は出張先から急いで戻り、鳴り続ける債権者からの電話に対応してくれた。


 手術が終わるまで、ずっと一緒に待っていた。


 父が危険な状態を脱したと聞き、私は廊下の椅子に座り込んで泣いた。


 航平が目の前にしゃがみ、私の手を包んだ。


「千春、大丈夫。俺がいるから」


 結婚後も彼は優しかった。


 胃の弱い私に昼食を忘れないよう連絡し、残業で遅くなれば迎えに来た。いつしか、彼の帰宅する音を待つようになっていた。


 結婚二年目、航平は両親が遺した家へ連れていってくれた。


 長く空き家になっていた木造の一戸建てで、庭には雑草が伸びていた。両親を事故で亡くして以来、彼はほとんど足を運んでいなかったらしい。


 二人で窓を開け、庭を片づけ、家具の埃を拭いた。


 帰る前、航平が庭を振り返った。


「千春、ここ、どう思う?」


「好きだよ。手入れしたらきれいになりそう」


「じゃあ、会社が落ち着いたら直そうか。そのうち、ここに引っ越してこよう」


 その夜、彼は自分の覚書を暖炉で燃やした。


「三年後も、このまま一緒にいよう。千春がよければ」


 私も頷いた。


 それからしばらくして、航平は会社の資金繰りが苦しいと話すようになった。


 車を一台売り、広い社長室から小さな部屋へ移った。自宅の清掃サービスもやめ、結婚記念日には通販で買った安いバラを持ち帰った。


「今年はこれで勘弁して。会社が落ち着いたら埋め合わせする」


 私は花束を抱き、気にしないでと笑った。


 やがて大きな案件の入金が遅れ、月末の給与支払いも危ういと聞かされた。


 母は桐浜市の古い商店街で花屋を営んでいた。学校帰りにはいつも店へ寄り、カウンターの隅で宿題をした。母が亡くなってからも貸す気になれず、空けたままにしていた。


 何日も迷った末、私は売却を決めた。


 契約の席で、不動産会社の担当者が念を押した。


「佐倉さん、この辺りは再開発の話も出ています。本当によろしいですか?」


 それでも署名した。


 売却代金は航平に貸し付ける形で渡し、借用書と振込記録を残した。


 航平はその話を聞いて声を荒らげた。


「何で勝手に売ったんだよ。お母さんの店だろ!」


「会社、お金が必要なんでしょう? また余裕ができたら買い戻せばいいよ」


 私は彼に抱きついた。


「今は会社が助かるほうが大事だから」


 航平は長いこと黙っていた。


 やがて私を強く抱きしめた。


「千春、絶対に後悔させないから」


 その年にもらったバラは、ドライフラワーにした。


 結婚式の写真と一緒に、寝室の棚へしまっておいた。



3



 藤崎莉央が日本へ帰ってきた日は、私の誕生日だった。


 航平とは夕食に出かける約束をしていたのに、午後七時頃、急用ができたと連絡が入った。


 結局、一人で夕食を済ませた。


 深夜、莉央が投稿した写真を見つけた。車の助手席に座り、白いバラを抱えている。


 運転席は手元しか写っていなかったが、腕時計ですぐにわかった。


 私が航平に贈ったものだった。


 翌日、彼は空港で買ったという香水を持って帰ってきた。


「昨日は悪かった。大事な人を迎えに行っててさ。遅くなったけど、誕生日おめでとう」


「……藤崎莉央さん?」


 航平が少し驚いた顔をした。


「知ってるの?」


「名前は聞いたことある」


 香水は引き出しにしまい、それきり使わなかった。


 一週間後、莉央は黒瀬家の住宅デザイン会社に入社し、新しいインテリアブランドの企画を担当することになった。


 私はその会社のデザイン部門を統括していた。


 最初の会議で、莉央は古い住宅の改装プランを持ってきた。


 撮影で広い空間を見せたいらしく、構造上重要な壁を取り払い、換気口も塞ぐ設計になっている。


「この壁はそのまま撤去できません。換気の計画も見直す必要があります」


 私が指摘すると、莉央は資料をめくった。


「海外ではこういうデザイン、よく見かけますけど?」


「建物ごとに構造が違いますから。間取りは工夫できますが、安全に関わる部分は確認が必要です」


 莉央は航平を見た。


「航平も、やっぱり難しいと思う?」


「千春、とりあえず莉央のイメージで完成予想図を作ってくれないか」


「それを見せたら、お客さんは施工できると思いますよ」


「そこは後で考える」


 航平が私に視線を向けた。


「千春、今は仕事の話だろ。莉央のことが気に入らないのはわかるけど、そこは分けて考えてくれよ」


 隣のプロジェクトマネージャーが私をちらりと見て、資料に目を落とした。


 会議後、莉央が廊下まで追いかけてきた。


「千春さん、さっきはごめんなさい。航平とは昔からの付き合いだから、つい頼っちゃって。でも、奥さんは千春さんですもんね」


「仕事中は、黒瀬社長って呼んでもらえる?」


 莉央は笑ったまま、返事をしなかった。


 その夜、航平は帰宅するなり、莉央に厳しく当たらないでほしいと言った。


「帰国したばかりで、あいつも結果を出したいんだ。千春が少し助けてやれば済むだろ」


「安全上の問題がある図面に、私の名前を載せるの?」


「まだ社内の提案段階だろ。そこまで言うことか?」


 結局、実際の設計には私の修正案が採用された。


 ところが新ブランドのお披露目会で配られたパンフレットには、メインデザイナーとして藤崎莉央の名前が印刷されていた。


 私はパンフレットを持って航平の部屋へ行った。


 彼は莉央のインタビュー用写真を選んでいた。


「これ、どういうこと?」


「莉央にも実績が必要なんだよ」


「図面を描いたのは私だよ」


「お前はもう部門の責任者だろ。この一件くらい、いいじゃないか」


 私はパンフレットを机に置いた。


「じゃあ、莉央に給料を払って、私が仕事をすればいいの?」


 そばにいた莉央の目が潤んだ。


「千春さん、そんなに気にされるなんて思わなくて。千春さんに教えてもらったって、公表しましょうか?」


「しなくていい」


 航平が遮った。


「こんなことを外に出したら、会社の評判に関わる」


 私はパンフレットを取り、部屋を出た。



4



 莉央が帰国してから、航平は家にいる時間が減った。


 仕事の打ち合わせや取材の付き添い、友人との食事会。何日もまともに話せないことも珍しくなかった。


 ある夜、会員制のレストランに来てほしいと電話があった。


 個室へ入ると、莉央はすっかり酔い、航平の腕にしがみついていた。友人たちは、海外にいた莉央が帰国して真っ先に頼ったのも航平だった、と笑っている。


 私に気づいた一人が慌てて手を振った。


「あ、奥さん。変な意味じゃないですよ。昔からの友達ですから」


 航平は車のキーを差し出した。


「莉央、酔っちゃってさ。家まで送ってくれないか?」


「そのために呼んだの?」


「この後も打ち合わせがあるんだ」


 莉央が航平の肩に顔を寄せた。


「千春さんじゃ嫌。航平がいい……」


 航平は彼女を引き離さなかった。


「酔ってるだけだから。気にするなよ」


「じゃあ、航平が送ってあげて」


 私はバッグを持って店を出た。


 外は雨だった。タクシーがなかなかつかまらず、三十分ほど待ってようやく帰宅した。


 翌朝には熱が出て、会社を休んだ。


 昼過ぎ、航平が薬を持って帰ってきた。


「電話したのに出なかっただろ」


「寝てたの」


「昨日、莉央の具合が悪くなって、病院に連れていったんだ。変に考えないでくれよ」


「うん」


 航平は薬の袋を置いた。


「……それだけ?」


「何て言えばいいの?」


 しばらく私を見ていた彼が、話題を変えた。


「週末、あの家に行こうか。寸法を測りたいって言ってただろ?」


 私は頷いた。


 土曜日、改装図面を持って旧宅へ向かった。


 午前中に来るはずだった航平は、午後になっても現れない。夕方、ようやくメッセージが届いた。


『莉央が撮影中に怪我した。今日は無理。また今度な』


 私は庭の縁側に座り、広げていた図面を巻いた。


 翌日、莉央が動画を投稿した。


 病室のベッドに座る彼女のそばで、航平がリンゴの皮をむいている。


『彼氏さんですか?』


 そんなコメントに、莉央は照れた顔の絵文字を返していた。


 スクリーンショットを送ると、航平から電話が来た。


「番組の宣伝だよ。何日かしたら消すって」


「今、消してもらえないの?」


「まだ放送前なんだよ」


「私たちのこと、誤解されてもいいの?」


「ネットの連中なんてすぐ忘れるって。千春も知らない人の言うこと、気にしすぎだよ」


 私は思わず笑った。


「言われてるのは私だもんね。航平は気にならないよね」



5



 莉央の帰国祝いには、できれば出席したくなかった。


 けれど航平は、新ブランドの責任者として顔を出してほしいと言った。


「お前と莉央が仲悪いって噂になってるんだ。少し顔を出してくれれば、それで済むから」


「本当に仲が悪かったら?」


「一晩だけだ。会社のためだと思って」


 パーティーの途中、友人の一人が莉央に尋ねた。


「帰国してからもらったプレゼントで、一番嬉しかったのって何?」


 莉央は航平を見て笑った。


「航平が、ご両親の家を私にくれたの」


「えっ、冬瀬の西側にある、あの家?」


「黒瀬社長、あそこは絶対に手放さないって言ってなかった?」


 莉央はスマートフォンを取り出し、改装のイメージ画像を見せ始めた。


 スタジオにして、撮影や打ち合わせ、友人との集まりにも使うという。


 私は航平の前へ行った。


「家の名義、いつ変えたの?」


「先月だよ」


「……私には何も言わずに?」


「俺の家だろ」


「一緒に住もうって言ったの、覚えてない?」


 航平は周囲に目をやった。


「あのときは軽い気持ちで言ったんだ。今は人がいるんだから、家で話そう」


「莉央はここで話していいのに、私は聞いちゃだめなの?」


 莉央が近づき、私の手を取った。


「千春さん、誤解しないで。帰国したばかりで場所がなくて、航平が使わせてくれるって……」


 私は手を引いた。


「使うだけなら、どうして名義まで変えたの?」


 莉央が口をつぐんだ。


 航平が立ち上がる。


「千春、ここで騒ぐな」


「騒ぎにしたの、私?」


 航平は声を落とした。


「俺たちは最初、そういう約束で結婚しただろ。それでも俺なりに、お前のことは大事にしてきたつもりだ」


 近くにいた人たちが会話をやめた。


「そうだね。今日でちょうど三年だし」


「何が言いたい?」


「明日、弁護士から連絡してもらう」


 航平は眉を寄せた。


「帰ってからにしろよ」


「航平とは一緒に帰らない。先に失礼するね」


 私はバッグを取り、会場を出た。


 背後から小声が聞こえた。


「えっ、あの二人って、そういう結婚だったの?」


「じゃあ、莉央さんとは昔から……」


 家はもともと黒瀬家のものなのだから、妻が口を出すことではないと言う人もいた。


 私はそのまま会場を後にした。


 家を誰に譲るかは航平が決めることだ。私も、これからどこで暮らすかを決めた。



6



 あの夜、航平と話して家を出てから、私は会社の近くにあるビジネスホテルに泊まっていた。


 翌日から、担当案件の精算資料と、会社へ貸し付けたお金の書類を整理し始めた。


 母の店を売ったお金は、運転資金として貸し付ける約束だった。


 ところが記録をたどっているうちに、見覚えのないプロジェクト名が出てきた。母の店を売ったお金が、そこへ回されていた。


 後から貸した分も含め、振込明細と借用書を宮原健吾に渡した。


 健吾は大学時代の同級生で、今は知的財産や企業間契約を扱う弁護士だ。


 彼が関係資料を確認したところ、資金の一部は莉央の海外スタジオへ流れていた。


 さらに、会社はすでに新たな出資を受け、経営も持ち直していた。


 私は長く航平の秘書を務める田辺修一を訪ねた。


「田辺さん、会社が落ち着いたのって、いつ頃ですか?」


 田辺さんは目を合わせなかった。


「一昨年の年末には、主な案件は正常に動いていました」


「じゃあ、どうして航平は、まだお金がないって……」


 私は借用書を机に置いた。


「このお金、莉央さんのスタジオに回ってたんですよね?」


「……藤崎さんの事業が、向こうでうまくいかなくなっていたんです。社長は千春さんに知られると、誤解されると思って……」


「社員の給料も払えないって、私には言ってました」


 田辺さんは黙った。


「結婚記念日の花も、会社がよくなったと気づかれないため?」


「新しい出資のことは、奥様に話さないようにと言われていました」


 私は書類をまとめ、会社を出た。


 午後、桐浜市へ向かった。


 母の花屋があった商店街には工事用の仮囲いが並び、角の店も隣の古い建物も取り壊されていた。


 近くで朝食の店を営んでいた女性が気づいた。


「あら、千春ちゃん。久しぶりね」


 彼女は更地を見た。


「お母さんの看板、取っておけたらよかったんだけどね。工事の人が古い棚と一緒に持っていっちゃったのよ」


 私はフェンスの前で航平に電話をかけた。


「ねえ、花屋が取り壊されたの、知ってた?」


 彼は少し黙った。


「……新しい店なら買ってやれるよ」


「もう買い戻せないよ」


「千春、店一軒のことだろ。そんなに物にこだわるなよ」


 私は更地を見た。


「航平、あのお金、何で莉央のスタジオに使ったの?」


 返事がない。


「会社のために貸したお金だったよね?」


「帰ってきてくれ。ちゃんと説明するから」


「説明は弁護士にして」


 電話を切り、健吾に連絡した。


「健吾、離婚したい。お金のことも、仕事のことも相談に乗ってほしい」


「もう決めたんだな?」


「うん」


 フェンスの向こうには、見慣れた店の面影が残っていなかった。


「取り戻せるものは、ちゃんと取り戻したい」



7



 退職届を提出したとき、莉央は新ブランドの発表会を準備していた。


「千春さん、本当に辞めるんですか? 名前の件だけで、そこまでしなくても……」


「理由はそれだけじゃないから」


 私は引き継ぎ資料を整理した。


「これ以上、他の人の仕事まで引き受けたくないの」


 その後、副社長に呼ばれた。


 南地区のモデル住宅が翌週に完成検査を控えており、担当者が辞めれば困るという。


「図面と資料はそろえます。引き継ぎも契約に従って進めます」


「社長とはご夫婦でしょう? ご家庭の問題なら、家で話し合えませんか」


「私の設計が藤崎さんの名前で発表されたときも、同じことを言っていただきたかったです」


 副社長は資料をめくったまま、黙っていた。


 午後、航平が私のオフィスへ来た。


「千春、退職は少し待ってくれないか」


「もう決めたの」


「俺たちのことで、仕事まで投げ出さなくてもいいだろ」


「引き継ぎはするよ。それより、設計者の名前を訂正してほしい」


「莉央は、お前に指導してもらったって公表すると言ってる」


「私が描いた図面なのに?」


 航平が息を吐いた。


「じゃあ、どうしたいんだよ」


 私は資料を机に置いた。


「名前を正して。それから、借りたお金も精算してほしい」


 続けて離婚届を出した。


「これにも署名して」


「……離婚以外なら話し合える」


「どうして?」


 航平は答えなかった。


 外に人が集まり始め、彼は声を潜めた。


「ここで話すことじゃないだろ」


「じゃあ、お金を莉央に渡した理由は、どこで聞けばいいの?」


 私は借用書を指さした。


「会社が苦しいって言うから、母の店を売ったんだよ」


「千春、声を落とせ」


「会社にはもう出資が入ってたんでしょう?」


 そのとき莉央が入ってきた。


「そのお金は航平が貸してくれたの! 千春さんのお金だなんて知らなかった!」


「お金は弁護士に調べてもらってる」


 私は彼女を見た。


「それより、私の図面を自分の作品だって発表したのは、どうして?」


「そんなに私の仕事を奪いたいんですか?」


 私はそれ以上言い争わなかった。


 すでに健吾を通じ、会社と取引先には設計者の表記について正式な異議を出していた。


 一週間後、取引先の求めで説明会が開かれた。


 私は初期図面から最終案までの変更履歴と、社内メールを提示した。


 莉央の作品として紹介されたものは、色や一部の装飾を除けば、私の案をそのまま使っていた。


 取引先の責任者が資料を置いた。


「藤崎さん、以前、海外で研究してきた独自のプランだと説明されましたよね?」


 莉央は返事ができなかった。


 航平が資料を閉じた。


「発表会は延期します。設計者の表記も調べ直します」


「宣伝内容は訂正してください。図面の利用についても、契約に沿って確認をお願いします」


 副社長が契約違反の可能性を口にすると、健吾が法務担当者へ書面を渡した。


「こちらの資料は確認済みです。まずは、誰が設計したのか。会社として回答をお願いします」


 資料をまとめて会議室を出ると、航平が呼び止めた。


「千春、家で話そう」


「もう、帰る家は別だから」


 振り返らずに廊下を歩いた。



8



 退職後の一週間は、ほとんど休めなかった。


 証拠資料の整理に案件の引き継ぎ、それに父の定期検診もあった。


 父はまだ右手がうまく動かず、話すのにも時間がかかる。


 病院から戻った日、私が結婚指輪を外してバッグにしまうと、父はその手元をじっと見ていた。


「もう、つけないことにしたの」


 父は小さなノートを開き、ゆっくりペンを動かした。


『またここで暮らせばいい』


 私が顔を上げると、父は空いている隣の椅子を指さした。私はそこに腰を下ろし、父と一緒にお茶を飲んだ。


 この三年間、実家に泊まることはほとんどなかった。母の写真も、学生時代の本棚も、昔と変わらずそこにある。


 健吾の紹介で、家賃の安い事務所を借りた。


 机を二つ置くだけで、部屋はほぼいっぱいになる。


 引っ越して間もなく、元の職場で一緒に働いていた小野寺真帆が訪ねてきた。


「千春さん、私も辞めてきました。ここで働かせてもらえませんか?」


「本当にいいの? まだ仕事が安定してないよ」


「考えて決めたんです。また千春さんと仕事がしたいです」


 最初に受けたのは、結婚を控えたカップルの中古マンションのリフォームだった。


 予算も部屋の広さも限られている。


 彼は机を置きたくて、彼女はクローゼットを増やしたい。十センチほどのスペースをめぐって、何日も意見がまとまらないらしい。


 採寸の日も二人はその話をしていた。


 彼がキッチンへ行った隙に、彼女が小声で尋ねた。


「佐倉さん、結婚したら、こういうことでしょっちゅう喧嘩するんですかね?」


「一緒に暮らせば、意見が合わないこともありますよ。でも、いつも同じ人が譲ってばかりだと疲れちゃいますよね」


 彼女は少し考え、彼を呼び戻した。


 結局、机の位置とクローゼットの扉を工夫し、二人の希望を取り入れられた。


 完成した部屋で、二人は家具を置く場所を楽しそうに相談していた。


 その頃、黒瀬の会社では新ブランドの発表会が中止になっていた。


 私の設計を評価してくれていた取引先も、一部の契約を保留したという。


 莉央は取材で、辞めたスタッフから嫌がらせを受けていると話していた。


 健吾は必要な資料を提出し、公開できる範囲で経緯を説明した。


 しばらくして、莉央から電話が来た。


「千春さん、これで満足ですか?」


「お金の件は、まだ終わってないよ」


「あれは航平が貸してくれたお金です!」


「使い道も含めて確認してもらってる。弁護士から連絡が行くと思う」


 莉央が泣き始めた。


「私は仕事で結果を出したかっただけなの。航平が助けてくれるって、前から約束してたから……」


「その約束は航平と話して」


 電話を切り、机に広げた平面図に目を戻した。



9



 航平が新しい事務所へ来たのは、入居して半月ほど経った頃だった。


「……ここ、狭すぎないか? もっといいところ探してやろうか」


「大丈夫。気に入ってるから」


 航平は書類を机に置いた。


 莉央に譲った旧宅の登記が、再び航平の名義に戻っていた。双方の合意で所有権移転の手続きを済ませたらしい。


「家、戻してもらったんだ」


「もともと航平の家でしょう」


「千春と暮らすって約束したから」


「会社が落ち着いたら、もう苦労させないって約束もしたよね」


 航平は黙った。


 真帆が資料を抱えて階下へ降り、私たちだけになった。


 航平は向かいの椅子に座った。


 会社が最初に苦しかったのは本当だったという。ただ、新しい出資が入り、経営が持ち直してからも、彼は私に話さなかった。


 お金がなくなっても私がそばにいてくれるのか、知りたかったらしい。


 莉央の海外スタジオが資金難になったときには、私から借りたお金の一部をそちらへ回していた。


「莉央の仕事がうまくいって、お金が戻ったら花屋を買い戻すつもりだったんだ。あんなに早く再開発が進むとは思わなくて……」


「取り壊されなかったら、いつ教えてくれたの?」


「ずっと隠すつもりじゃなかった」


「そんなに長く黙ってたのに?」


 航平は借用書に目を落とした。紙の端を指で押さえたまま、しばらく口を開かなかった。


「……お前が、俺の金なんかなくても一緒にいてくれるのが嬉しかったんだよ」


「それで、会社が持ち直してからも言わなかったんだ」


 航平は答えなかった。


 私は借用書を彼の前に置いた。


「母の店を売ったんだよ。服も買わずに、壊れかけたスマホを使い続けて、お父さんのリハビリ用品だって何度も値段を比べた」


 航平は書類を見つめた。


「航平は全部知ってたよね。それでも、莉央にお金を貸したんだよね」


 彼が手を伸ばしてきたので、私は少し身を引いた。


「埋め合わせはする。店のことも、お金のことも、仕事のことも」


「お金と契約の話は弁護士に任せる」


 私は離婚届を出した。


「これもお願い」


 航平の手が止まった。


「……離婚だけは待ってくれ」


 私は立ち上がり、ドアを開けた。


「じゃあ、今日はもう話すことないね」


 航平はなかなか立たなかった。


「千春。俺、莉央とは本当に何もなかったんだ」


 私は振り返った。


「私が花屋を売るとき、航平は一度でも、売りたくないんじゃないかって聞いてくれた?」


 彼は顔を上げた。


「莉央にお金を渡す前に、私に相談した?」


「……千春なら、わかってくれると思ってた」


「何も聞かされてなかったのに?」


 航平は口を開きかけ、黙った。


 私は旧宅の書類を返した。


「あの家は航平が持ってて。私はもう住まないから」



10



 莉央が担当したモデル住宅の一つで、問題が起きた。


 撮影に間に合わせるため、承認済みの施工プランを勝手に変更していたという。完成検査で不備が見つかり、施主から是正工事と損害の補償を求められた。


 社内調査では、私の設計資料の無断使用も確認された。


 さらに、承認を得ていない設計確認書に、私の署名を複製して貼りつけていたことまで判明した。


 法務部門が調査を進め、莉央のスタジオが提出した経費にも不自然な申告があったという。


 航平は莉央を企画責任者から外した。


 数日後、莉央が私の事務所へやってきた。


「千春さん、航平に何か言ったんでしょう?」


「人事のことなら、会社に聞いて」


「前は何でも助けてくれたのに、最近は電話にも出てくれないの。絶対、千春さんのせいよ!」


 私は資料をバッグにしまった。


「だったら、本人に聞けば?」


 莉央は出口を塞いだ。


「航平が戻ってきたがってるの、愛されてるからだと思ってる? 千春さんに逃げられるのが嫌なだけよ」


「うん。そうかもしれないね」


 彼女が目を見開いた。


「だから、戻るつもりはないよ」


 莉央は唇を噛んだ。


「だったら、どうして今さらお金も返せ、名前も訂正しろって言うのよ!」


「私のものだから。離婚とは別の話でしょ」


 私はバッグを肩に掛けた。


「出かけるから、通して」


 その後、莉央は協議に従って実際の設計担当者を訂正し、私にも謝罪した。


 スタジオは営業を停止し、案件の補償や経費申告については、その後も処理が続いた。


 次に莉央の名前を見たのは、健吾から届いた精算状況の報告書だった。



11



 航平は何度も私の前に現れた。


 父のために新しいリハビリ施設を探し、費用まで先払いしたこともあった。私は施設に確認し、そのお金を返してもらった。


 高価な輸入バラは、受付の人に頼んで近くの店へ配ってもらった。


 やがて航平は、両親が遺した家を改装し直した。


 庭も書斎も、以前私が描いた図面に合わせたらしい。


 工事が終わった日、彼が迎えに来た。


「千春、一度でいいから見に来ないか。好きだって言ってた庭も残してあるし、書斎も図面どおりにしたんだ」


「行かないよ」


「千春……」


「あの図面、航平と住むつもりで描いたんだよ。今はもう使わないから」


 航平はそれ以上勧めなかった。


 数日後、彼は木の看板を持ってきた。


 母の花屋の名前が彫られている。写真をもとに、文字の形まで再現してもらったようだった。


「取り壊したときの業者にも聞いたんだけど、元の看板は見つからなかった。だから写真から作ってもらったんだ」


 私は看板を受け取り、眺めた。


 母の字によく似ていた。線の曲がり方まで丁寧に再現されている。


「よく似てるね」


 航平が少し顔を上げた。


 私は看板を返した。


「でも、お母さんが書いたものじゃない」


 航平は受け取ったまま、動かなかった。


「千春、どうしたら許してくれる?」


「もう何もしなくていいよ」


「店なら何軒でも買える。もっといい場所に、十軒だって……」


 私は木の看板に目を落とした。


「母の店がよかったの」


 航平は黙っていた。


「あの店、売らずに持っていられたんだよ。たまに帰って、お母さんが育ててた花を見たり、昔の椅子に座ったりできたのに」


 私は看板から手を離した。


「会社にあのお金が必要なかったなんて、知らなかった」


 航平は俯いた。


 しばらくして、小さな声が聞こえた。


「……ごめん」


 私は事務所に戻り、ドアを閉めた。



12



 離婚調停は三回行われた。


 一回目、航平は離婚に応じなかった。


 結婚前に三年間の約束はしたが、後になって夫婦として暮らし続けることを決めた、と調停委員に説明した。


 二回目には旅行の写真や誕生日の贈り物、二人で過ごした記録を持ってきた。


 三回目、航平が机に置いたのは古い箱だった。


 中には色あせたバラのドライフラワーが入っている。


 あの、送料込み980円のバラだった。


「千春、これ、ずっと大事に取ってたんだろ?」


 彼は箱を私のほうへ向けた。


「なのに、今はもう見たくもないのか?」


 私は花を見つめた。


「そのときは、本当に会社が大変なんだと思ってたから」


 箱の底には小さな花びらの欠片が落ちていた。


「航平も苦しいのに、記念日を忘れずにいてくれたんだって。それが嬉しかったの」


 航平は箱を持つ手を動かした。


「でも、会社はもう持ち直してたんでしょう? 私にはずっと言わなかったよね」


 私は顔を上げた。


「安い花でも、十分嬉しかったんだよ。航平には、わかってたと思う」


 彼はゆっくり箱を引き寄せた。


「俺が悪かったのはわかってる。でも、三年間のことが全部嘘だったわけじゃないだろ?」


「……嘘ばかりだったとは思ってないよ」


 父の手術の日、航平が来てくれたこと。帰りの遅い私を迎えに来てくれたこと。二人で笑った夜もあった。


 私は彼を愛していた。


「一緒にいて、幸せだったこともあったよ」


 航平が顔を上げた。


「だったら、もう一度……」


「でも、後から起きたことまで、なかったことにはできない」


 航平の目が赤くなった。


「もう、やり直せないのか?」


「私はもう続けたくない」


「それでも待つよ」


「待たないで、航平。戻らないから」


 航平は俯き、それ以上何も言わなかった。


 三回の調停でも合意には至らなかった。


 その後も代理人を通じた話し合いは続いた。別居が長引くなか、航平も最終的には離婚を受け入れ、私たちは協議離婚の手続きを済ませた。


 離婚届を提出した日、役所の前まで航平が来ていた。


「千春、これからも会えないかな」


「仕事で必要なら、弁護士か会社を通して連絡して」


「それ以外は?」


 私は彼を見た。


「もう離婚したんだよ」


 航平はその場で立ち止まった。


 私は振り返らずに歩き出した。



13



 離婚が成立し、私は旧姓の佐倉に戻った。


 会社から返還されたお金や補償金は、父のリハビリ費用と、事務所を立ち上げたときの借入金の返済に充てた。


 残ったお金で、桐浜市の古い商店街の近くに小さな建物を借りた。


 一階は花屋、二階はデザイン事務所。


 母の店と同じ内装にはしなかった。カウンターも花を並べる棚も、自分が使いやすいように考えた。


 真帆には二階の仕事を任せた。


 父も体調のいい日には一階で花を包むのを手伝ってくれる。包装紙が少し曲がることもあるけれど、お客さんと話すのは楽しそうだった。


 住宅設計の依頼も少しずつ増えた。


 若い夫婦の間取りを見直したり、高齢者の家に手すりをつけたり、小さな食堂の厨房を使いやすくしたり。


 大きな案件ばかりではなかったが、仕事を終えて店の鍵を閉める頃には、心地よい疲れが残った。


 開店の日、健吾が新しい看板を持ってきた。


「店の名前、もう決めた?」


 私は紙に書いた文字を見せた。


『佐倉花房』


 真帆が笑った。


「ずいぶんシンプルですね、千春さん」


「そのほうが覚えてもらいやすいでしょ」


 夕方、若い女性がバラを抱えて店に入ってきた。


「すみません、包み直してもらえますか? 彼氏にもらったんですけど、最近お金がなくて、もっといいのは今度って言われて……」


 包みをほどくと、花はあまり新鮮ではなかった。


「佐倉さん、こんな安い花って、あんまり大事にされてないってことなんでしょうか」


 私は傷んだ花びらを取り除いた。


「値段だけじゃ、わからないですよ。普段、彼とはどうですか?」


 女性は少し考えた。


「優しいです。ただ、最近はお金がないって、よく言ってて」


「じゃあ、ちゃんと話してみるといいかもしれませんね。嬉しかったことも、気になることも」


 私は包み直した花束を差し出した。


「こんな感じでどうでしょう?」


 女性は花束を見て笑った。


「ありがとうございます。きれいになりました」


 彼女を見送ったあと、切り落とした花びらを掃き集めた。


 顔を上げると、店の向かいに見覚えのある車が停まっていた。


 航平が立っている。


 しばらくこちらを見ていたが、やがて入り口に花束を置き、車へ戻っていった。


 向日葵だった。


 母がよく店先に並べていた花だ。


 カードはついていなかった。


 私はスタッフに頼んで、その花束を包み直してもらった。翌日、向日葵はほかの花と一緒に店頭に並び、夕方には売れていた。



14



 一年後、古い住宅を改装するテレビ番組で航平を見かけた。


 彼はすでに会社の代表を退き、一般住宅の案件を担当していた。


 番組で紹介されていたのは、築年数の古いマンションの改修工事だった。


 作業着姿の航平が、施工担当者とドア枠の幅について話している。


 司会者が、なぜ高級住宅から古い集合住宅の仕事へ移ったのかと尋ねた。


 航平は後ろの建物を見た。


「前は見栄えとか、資産価値とか、そういうことばかり考えてました。でも、長く住んでいる方の話を聞くと、簡単には替えたくないものもあるんですよね」


 彼は住人が残してほしいと希望した古い戸棚を指さした。


「この棚も、三代にわたって使っているそうです。できるだけ、そのまま使えるように考えました」


 放送後、航平が変わったという声を何度か耳にした。


 以前の知り合いから、もう一度やり直してみたらどうかと連絡が来たこともある。


 私は返事をしなかった。


 父の誕生日には、店を早めに閉めた。


 真帆がケーキを買い、健吾は鉢植えの花を持ってきた。


「花束より長持ちするから」


 得意そうにしている健吾を見て、真帆が笑った。


 四人で一階の小さなテーブルを囲み、夕食を食べた。


 父は少しだけお酒を飲み、いつものノートを開いた。ゆっくりペンを動かし、私に見せる。


『今が一番いい』


 私は頷いた。


「うん。私もそう思う」


 父は昔の写真を真帆に見せ始めた。健吾はケーキの上の果物をどう分けるか、真剣に考えている。


 窓の外を車が通り過ぎた。


 何気なく顔を上げると、通りの向こうに航平が立っていた。


 濃い色のコートを着て、こちらを見ている。目が合ったが、私はすぐに視線を戻し、父のケーキを切り分けた。


 航平の会社が大変だと聞いたとき、私は一緒に節約するつもりだった。安い花でも嬉しかったし、貯金を使って助けたいとも思った。


 あの頃の気持ちは本当だった。


 ただ、彼は私の知らないところで、別のことをしていた。


「千春さん、私ももう一切れいただいていいですか?」


 真帆に呼ばれ、私はケーキの皿を取った。


 健吾がフォークを取りに立ち上がったとき、入り口の風鈴が鳴った。


 若い女性客が入ってきた。


「すみません、花束をお願いできますか?」


 私はケーキナイフを置いて立ち上がった。


「もちろんです。どなたに贈る花ですか?」


 女性は少し照れたように笑った。


「自分に、です」


 私も笑って、花桶のほうへ歩いた。


「じゃあ、今日は一番きれいに咲いてる花を選びましょうか」


 剪定ばさみを手に取り、花の茎を一本ずつ切りそろえた。


――完――






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