夫が私に贈ったのは980円のバラ。それなのに、初恋の彼女には家をプレゼントしていた
結婚三年目の記念日。夫の黒瀬航平がくれたのは、今年も送料込み980円の小さなバラの花束だった。
通販で買った花束は、包装紙にしわが寄り、花びらの縁も少し傷んでいた。
「千春、ごめんな。今、会社が厳しくてさ。落ち着いたら、ちゃんと埋め合わせするから」
私は傷んだ花びらを取り除き、リビングの花瓶に生けた。
その後、会社の資金繰りを助けるために、母が遺した花屋まで売った。二十年以上続いた店で、私が母から相続した唯一の不動産だった。
藤崎莉央の帰国祝いが開かれたのは、それからしばらく経った頃だ。
酔いの回った莉央が、友人たちに囲まれて笑っていた。
「航平がね、ご両親の家を譲ってくれたの。あそこを私のスタジオにするつもり」
周囲から羨ましがる声が上がった。
その家には、私も行ったことがある。
航平が私の手を引いて庭へ出て、会社が落ち着いたら改装しようと話していた家だ。
「いつか、ここで一緒に暮らそう」
あの日、彼はそう言った。
少し離れた場所から航平を見ると、グラスを手に莉央の話を聞いていた。否定する様子はない。
その夜、私はもう家のことを尋ねなかった。
あの家も、航平も。
もう、私にはいらない。
1
午前一時、航平が帰宅したときには、荷物をまとめ終えていた。
ダイニングテーブルには離婚届と、三年前に交わした婚姻に関する覚書がある。航平は玄関脇のスーツケースに目をやり、上着を脱いだ。
「ネットの動画、あれ、お前が流させたのか?」
「違うよ」
「だったら明日、説明を出してくれ。俺たちは話し合って結婚したんだし、あの家は俺のものだ。莉央も酔って余計なことを言っただけだから」
私は離婚届を彼のほうへ滑らせた。
「説明ならする。離婚が成立したら、もう夫婦じゃないって」
航平は書類を見下ろした。
「……離婚? 家のことで、そこまでするのか?」
「今日で三年だよ。もう終わりにしたい」
彼は離婚届をテーブルに放った。
「千春、そんなこと言えば俺が折れると思ってるのか? お義父さんが倒れたとき、病院を探したのは誰だよ。保証人の借金だって、俺が弁護士を紹介しただろ」
父の手術の日、航平は出張先から駆けつけてくれた。債権者とのやり取りを引き受け、夜通し病院にいてくれたことも覚えている。
「感謝してるよ。あのとき助けてくれたことは、今でも」
私は書類をそろえた。
「でも、それとこれとは別だよ。もう一緒には暮らせない」
「意地になってるだけだろ」
スーツケースを引いて玄関へ向かうと、航平が先回りした。
「待てよ。まずネットの件を何とかしてくれ。来週、莉央の番組が始まるんだ。変な噂が広まったら困る」
「莉央のためなら、何でもするんだね」
「は?」
「ご両親の家も、お義母さんのブレスレットも。新ブランドの仕事だって、莉央に任せたでしょう」
「家はスタジオに使わせるだけだ。ブレスレットは撮影用。仕事は仕事だろ」
私はスマートフォンを取り出した。
画面には、航平の車の助手席で白いバラを抱える莉央が写っていた。
「夜中に二人で会うのも友達だから? 会社でいつも莉央の味方をするのも仕事?」
「千春……」
「一緒に住もうって言ってた家まであげちゃった。私、どこまで我慢すればよかったの?」
「いい加減にしろよ。そんな言い方する必要あるか?」
スマートフォンをしまい、私は彼の横を通り抜けた。
「もう聞かなくて済むよ」
今度は引き止められなかった。
「少し頭を冷やせ。何日かしたら、落ち着いて話そう」
返事をせずにドアを閉めた。
家の鍵はテーブルに置いてきた。
2
三年前、航平との結婚には、お互いに事情があった。
父は会社を経営する知人の連帯保証人になっていた。その会社が倒産し、多額の返済を求められるようになった頃、父が脳出血で倒れた。
私は病院と弁護士事務所を行き来し、家を売ることまで考えていた。
そんなときに結婚を持ちかけてきたのが航平だった。
彼の祖父と父は古くからの知り合いだった。黒瀬家は住宅設計やリフォームの会社を経営しており、病床の祖父は親族間で揉めている経営のことも、独身の孫のことも心配していたという。
航平は父の治療先を探し、保証債務の整理に必要な弁護士を紹介してくれた。医療費の一部も立て替えてくれる代わりに、私は彼と結婚し、祖父の前では仲のいい夫婦として振る舞う。
三年後に婚姻を続けるか話し合うことも、書面に残した。
婚姻届を提出した日、市役所の前で航平が言った。
「仕事は今までどおり続けていい。三年経って、千春が別れたいと思ったら、ちゃんと手続きするから」
父の手術が行われた夜、医師から容体がかなり厳しいと告げられた。
説明書に署名しようとしても手が震え、名前すらうまく書けなかった。航平は出張先から急いで戻り、鳴り続ける債権者からの電話に対応してくれた。
手術が終わるまで、ずっと一緒に待っていた。
父が危険な状態を脱したと聞き、私は廊下の椅子に座り込んで泣いた。
航平が目の前にしゃがみ、私の手を包んだ。
「千春、大丈夫。俺がいるから」
結婚後も彼は優しかった。
胃の弱い私に昼食を忘れないよう連絡し、残業で遅くなれば迎えに来た。いつしか、彼の帰宅する音を待つようになっていた。
結婚二年目、航平は両親が遺した家へ連れていってくれた。
長く空き家になっていた木造の一戸建てで、庭には雑草が伸びていた。両親を事故で亡くして以来、彼はほとんど足を運んでいなかったらしい。
二人で窓を開け、庭を片づけ、家具の埃を拭いた。
帰る前、航平が庭を振り返った。
「千春、ここ、どう思う?」
「好きだよ。手入れしたらきれいになりそう」
「じゃあ、会社が落ち着いたら直そうか。そのうち、ここに引っ越してこよう」
その夜、彼は自分の覚書を暖炉で燃やした。
「三年後も、このまま一緒にいよう。千春がよければ」
私も頷いた。
それからしばらくして、航平は会社の資金繰りが苦しいと話すようになった。
車を一台売り、広い社長室から小さな部屋へ移った。自宅の清掃サービスもやめ、結婚記念日には通販で買った安いバラを持ち帰った。
「今年はこれで勘弁して。会社が落ち着いたら埋め合わせする」
私は花束を抱き、気にしないでと笑った。
やがて大きな案件の入金が遅れ、月末の給与支払いも危ういと聞かされた。
母は桐浜市の古い商店街で花屋を営んでいた。学校帰りにはいつも店へ寄り、カウンターの隅で宿題をした。母が亡くなってからも貸す気になれず、空けたままにしていた。
何日も迷った末、私は売却を決めた。
契約の席で、不動産会社の担当者が念を押した。
「佐倉さん、この辺りは再開発の話も出ています。本当によろしいですか?」
それでも署名した。
売却代金は航平に貸し付ける形で渡し、借用書と振込記録を残した。
航平はその話を聞いて声を荒らげた。
「何で勝手に売ったんだよ。お母さんの店だろ!」
「会社、お金が必要なんでしょう? また余裕ができたら買い戻せばいいよ」
私は彼に抱きついた。
「今は会社が助かるほうが大事だから」
航平は長いこと黙っていた。
やがて私を強く抱きしめた。
「千春、絶対に後悔させないから」
その年にもらったバラは、ドライフラワーにした。
結婚式の写真と一緒に、寝室の棚へしまっておいた。
3
藤崎莉央が日本へ帰ってきた日は、私の誕生日だった。
航平とは夕食に出かける約束をしていたのに、午後七時頃、急用ができたと連絡が入った。
結局、一人で夕食を済ませた。
深夜、莉央が投稿した写真を見つけた。車の助手席に座り、白いバラを抱えている。
運転席は手元しか写っていなかったが、腕時計ですぐにわかった。
私が航平に贈ったものだった。
翌日、彼は空港で買ったという香水を持って帰ってきた。
「昨日は悪かった。大事な人を迎えに行っててさ。遅くなったけど、誕生日おめでとう」
「……藤崎莉央さん?」
航平が少し驚いた顔をした。
「知ってるの?」
「名前は聞いたことある」
香水は引き出しにしまい、それきり使わなかった。
一週間後、莉央は黒瀬家の住宅デザイン会社に入社し、新しいインテリアブランドの企画を担当することになった。
私はその会社のデザイン部門を統括していた。
最初の会議で、莉央は古い住宅の改装プランを持ってきた。
撮影で広い空間を見せたいらしく、構造上重要な壁を取り払い、換気口も塞ぐ設計になっている。
「この壁はそのまま撤去できません。換気の計画も見直す必要があります」
私が指摘すると、莉央は資料をめくった。
「海外ではこういうデザイン、よく見かけますけど?」
「建物ごとに構造が違いますから。間取りは工夫できますが、安全に関わる部分は確認が必要です」
莉央は航平を見た。
「航平も、やっぱり難しいと思う?」
「千春、とりあえず莉央のイメージで完成予想図を作ってくれないか」
「それを見せたら、お客さんは施工できると思いますよ」
「そこは後で考える」
航平が私に視線を向けた。
「千春、今は仕事の話だろ。莉央のことが気に入らないのはわかるけど、そこは分けて考えてくれよ」
隣のプロジェクトマネージャーが私をちらりと見て、資料に目を落とした。
会議後、莉央が廊下まで追いかけてきた。
「千春さん、さっきはごめんなさい。航平とは昔からの付き合いだから、つい頼っちゃって。でも、奥さんは千春さんですもんね」
「仕事中は、黒瀬社長って呼んでもらえる?」
莉央は笑ったまま、返事をしなかった。
その夜、航平は帰宅するなり、莉央に厳しく当たらないでほしいと言った。
「帰国したばかりで、あいつも結果を出したいんだ。千春が少し助けてやれば済むだろ」
「安全上の問題がある図面に、私の名前を載せるの?」
「まだ社内の提案段階だろ。そこまで言うことか?」
結局、実際の設計には私の修正案が採用された。
ところが新ブランドのお披露目会で配られたパンフレットには、メインデザイナーとして藤崎莉央の名前が印刷されていた。
私はパンフレットを持って航平の部屋へ行った。
彼は莉央のインタビュー用写真を選んでいた。
「これ、どういうこと?」
「莉央にも実績が必要なんだよ」
「図面を描いたのは私だよ」
「お前はもう部門の責任者だろ。この一件くらい、いいじゃないか」
私はパンフレットを机に置いた。
「じゃあ、莉央に給料を払って、私が仕事をすればいいの?」
そばにいた莉央の目が潤んだ。
「千春さん、そんなに気にされるなんて思わなくて。千春さんに教えてもらったって、公表しましょうか?」
「しなくていい」
航平が遮った。
「こんなことを外に出したら、会社の評判に関わる」
私はパンフレットを取り、部屋を出た。
4
莉央が帰国してから、航平は家にいる時間が減った。
仕事の打ち合わせや取材の付き添い、友人との食事会。何日もまともに話せないことも珍しくなかった。
ある夜、会員制のレストランに来てほしいと電話があった。
個室へ入ると、莉央はすっかり酔い、航平の腕にしがみついていた。友人たちは、海外にいた莉央が帰国して真っ先に頼ったのも航平だった、と笑っている。
私に気づいた一人が慌てて手を振った。
「あ、奥さん。変な意味じゃないですよ。昔からの友達ですから」
航平は車のキーを差し出した。
「莉央、酔っちゃってさ。家まで送ってくれないか?」
「そのために呼んだの?」
「この後も打ち合わせがあるんだ」
莉央が航平の肩に顔を寄せた。
「千春さんじゃ嫌。航平がいい……」
航平は彼女を引き離さなかった。
「酔ってるだけだから。気にするなよ」
「じゃあ、航平が送ってあげて」
私はバッグを持って店を出た。
外は雨だった。タクシーがなかなかつかまらず、三十分ほど待ってようやく帰宅した。
翌朝には熱が出て、会社を休んだ。
昼過ぎ、航平が薬を持って帰ってきた。
「電話したのに出なかっただろ」
「寝てたの」
「昨日、莉央の具合が悪くなって、病院に連れていったんだ。変に考えないでくれよ」
「うん」
航平は薬の袋を置いた。
「……それだけ?」
「何て言えばいいの?」
しばらく私を見ていた彼が、話題を変えた。
「週末、あの家に行こうか。寸法を測りたいって言ってただろ?」
私は頷いた。
土曜日、改装図面を持って旧宅へ向かった。
午前中に来るはずだった航平は、午後になっても現れない。夕方、ようやくメッセージが届いた。
『莉央が撮影中に怪我した。今日は無理。また今度な』
私は庭の縁側に座り、広げていた図面を巻いた。
翌日、莉央が動画を投稿した。
病室のベッドに座る彼女のそばで、航平がリンゴの皮をむいている。
『彼氏さんですか?』
そんなコメントに、莉央は照れた顔の絵文字を返していた。
スクリーンショットを送ると、航平から電話が来た。
「番組の宣伝だよ。何日かしたら消すって」
「今、消してもらえないの?」
「まだ放送前なんだよ」
「私たちのこと、誤解されてもいいの?」
「ネットの連中なんてすぐ忘れるって。千春も知らない人の言うこと、気にしすぎだよ」
私は思わず笑った。
「言われてるのは私だもんね。航平は気にならないよね」
5
莉央の帰国祝いには、できれば出席したくなかった。
けれど航平は、新ブランドの責任者として顔を出してほしいと言った。
「お前と莉央が仲悪いって噂になってるんだ。少し顔を出してくれれば、それで済むから」
「本当に仲が悪かったら?」
「一晩だけだ。会社のためだと思って」
パーティーの途中、友人の一人が莉央に尋ねた。
「帰国してからもらったプレゼントで、一番嬉しかったのって何?」
莉央は航平を見て笑った。
「航平が、ご両親の家を私にくれたの」
「えっ、冬瀬の西側にある、あの家?」
「黒瀬社長、あそこは絶対に手放さないって言ってなかった?」
莉央はスマートフォンを取り出し、改装のイメージ画像を見せ始めた。
スタジオにして、撮影や打ち合わせ、友人との集まりにも使うという。
私は航平の前へ行った。
「家の名義、いつ変えたの?」
「先月だよ」
「……私には何も言わずに?」
「俺の家だろ」
「一緒に住もうって言ったの、覚えてない?」
航平は周囲に目をやった。
「あのときは軽い気持ちで言ったんだ。今は人がいるんだから、家で話そう」
「莉央はここで話していいのに、私は聞いちゃだめなの?」
莉央が近づき、私の手を取った。
「千春さん、誤解しないで。帰国したばかりで場所がなくて、航平が使わせてくれるって……」
私は手を引いた。
「使うだけなら、どうして名義まで変えたの?」
莉央が口をつぐんだ。
航平が立ち上がる。
「千春、ここで騒ぐな」
「騒ぎにしたの、私?」
航平は声を落とした。
「俺たちは最初、そういう約束で結婚しただろ。それでも俺なりに、お前のことは大事にしてきたつもりだ」
近くにいた人たちが会話をやめた。
「そうだね。今日でちょうど三年だし」
「何が言いたい?」
「明日、弁護士から連絡してもらう」
航平は眉を寄せた。
「帰ってからにしろよ」
「航平とは一緒に帰らない。先に失礼するね」
私はバッグを取り、会場を出た。
背後から小声が聞こえた。
「えっ、あの二人って、そういう結婚だったの?」
「じゃあ、莉央さんとは昔から……」
家はもともと黒瀬家のものなのだから、妻が口を出すことではないと言う人もいた。
私はそのまま会場を後にした。
家を誰に譲るかは航平が決めることだ。私も、これからどこで暮らすかを決めた。
6
あの夜、航平と話して家を出てから、私は会社の近くにあるビジネスホテルに泊まっていた。
翌日から、担当案件の精算資料と、会社へ貸し付けたお金の書類を整理し始めた。
母の店を売ったお金は、運転資金として貸し付ける約束だった。
ところが記録をたどっているうちに、見覚えのないプロジェクト名が出てきた。母の店を売ったお金が、そこへ回されていた。
後から貸した分も含め、振込明細と借用書を宮原健吾に渡した。
健吾は大学時代の同級生で、今は知的財産や企業間契約を扱う弁護士だ。
彼が関係資料を確認したところ、資金の一部は莉央の海外スタジオへ流れていた。
さらに、会社はすでに新たな出資を受け、経営も持ち直していた。
私は長く航平の秘書を務める田辺修一を訪ねた。
「田辺さん、会社が落ち着いたのって、いつ頃ですか?」
田辺さんは目を合わせなかった。
「一昨年の年末には、主な案件は正常に動いていました」
「じゃあ、どうして航平は、まだお金がないって……」
私は借用書を机に置いた。
「このお金、莉央さんのスタジオに回ってたんですよね?」
「……藤崎さんの事業が、向こうでうまくいかなくなっていたんです。社長は千春さんに知られると、誤解されると思って……」
「社員の給料も払えないって、私には言ってました」
田辺さんは黙った。
「結婚記念日の花も、会社がよくなったと気づかれないため?」
「新しい出資のことは、奥様に話さないようにと言われていました」
私は書類をまとめ、会社を出た。
午後、桐浜市へ向かった。
母の花屋があった商店街には工事用の仮囲いが並び、角の店も隣の古い建物も取り壊されていた。
近くで朝食の店を営んでいた女性が気づいた。
「あら、千春ちゃん。久しぶりね」
彼女は更地を見た。
「お母さんの看板、取っておけたらよかったんだけどね。工事の人が古い棚と一緒に持っていっちゃったのよ」
私はフェンスの前で航平に電話をかけた。
「ねえ、花屋が取り壊されたの、知ってた?」
彼は少し黙った。
「……新しい店なら買ってやれるよ」
「もう買い戻せないよ」
「千春、店一軒のことだろ。そんなに物にこだわるなよ」
私は更地を見た。
「航平、あのお金、何で莉央のスタジオに使ったの?」
返事がない。
「会社のために貸したお金だったよね?」
「帰ってきてくれ。ちゃんと説明するから」
「説明は弁護士にして」
電話を切り、健吾に連絡した。
「健吾、離婚したい。お金のことも、仕事のことも相談に乗ってほしい」
「もう決めたんだな?」
「うん」
フェンスの向こうには、見慣れた店の面影が残っていなかった。
「取り戻せるものは、ちゃんと取り戻したい」
7
退職届を提出したとき、莉央は新ブランドの発表会を準備していた。
「千春さん、本当に辞めるんですか? 名前の件だけで、そこまでしなくても……」
「理由はそれだけじゃないから」
私は引き継ぎ資料を整理した。
「これ以上、他の人の仕事まで引き受けたくないの」
その後、副社長に呼ばれた。
南地区のモデル住宅が翌週に完成検査を控えており、担当者が辞めれば困るという。
「図面と資料はそろえます。引き継ぎも契約に従って進めます」
「社長とはご夫婦でしょう? ご家庭の問題なら、家で話し合えませんか」
「私の設計が藤崎さんの名前で発表されたときも、同じことを言っていただきたかったです」
副社長は資料をめくったまま、黙っていた。
午後、航平が私のオフィスへ来た。
「千春、退職は少し待ってくれないか」
「もう決めたの」
「俺たちのことで、仕事まで投げ出さなくてもいいだろ」
「引き継ぎはするよ。それより、設計者の名前を訂正してほしい」
「莉央は、お前に指導してもらったって公表すると言ってる」
「私が描いた図面なのに?」
航平が息を吐いた。
「じゃあ、どうしたいんだよ」
私は資料を机に置いた。
「名前を正して。それから、借りたお金も精算してほしい」
続けて離婚届を出した。
「これにも署名して」
「……離婚以外なら話し合える」
「どうして?」
航平は答えなかった。
外に人が集まり始め、彼は声を潜めた。
「ここで話すことじゃないだろ」
「じゃあ、お金を莉央に渡した理由は、どこで聞けばいいの?」
私は借用書を指さした。
「会社が苦しいって言うから、母の店を売ったんだよ」
「千春、声を落とせ」
「会社にはもう出資が入ってたんでしょう?」
そのとき莉央が入ってきた。
「そのお金は航平が貸してくれたの! 千春さんのお金だなんて知らなかった!」
「お金は弁護士に調べてもらってる」
私は彼女を見た。
「それより、私の図面を自分の作品だって発表したのは、どうして?」
「そんなに私の仕事を奪いたいんですか?」
私はそれ以上言い争わなかった。
すでに健吾を通じ、会社と取引先には設計者の表記について正式な異議を出していた。
一週間後、取引先の求めで説明会が開かれた。
私は初期図面から最終案までの変更履歴と、社内メールを提示した。
莉央の作品として紹介されたものは、色や一部の装飾を除けば、私の案をそのまま使っていた。
取引先の責任者が資料を置いた。
「藤崎さん、以前、海外で研究してきた独自のプランだと説明されましたよね?」
莉央は返事ができなかった。
航平が資料を閉じた。
「発表会は延期します。設計者の表記も調べ直します」
「宣伝内容は訂正してください。図面の利用についても、契約に沿って確認をお願いします」
副社長が契約違反の可能性を口にすると、健吾が法務担当者へ書面を渡した。
「こちらの資料は確認済みです。まずは、誰が設計したのか。会社として回答をお願いします」
資料をまとめて会議室を出ると、航平が呼び止めた。
「千春、家で話そう」
「もう、帰る家は別だから」
振り返らずに廊下を歩いた。
8
退職後の一週間は、ほとんど休めなかった。
証拠資料の整理に案件の引き継ぎ、それに父の定期検診もあった。
父はまだ右手がうまく動かず、話すのにも時間がかかる。
病院から戻った日、私が結婚指輪を外してバッグにしまうと、父はその手元をじっと見ていた。
「もう、つけないことにしたの」
父は小さなノートを開き、ゆっくりペンを動かした。
『またここで暮らせばいい』
私が顔を上げると、父は空いている隣の椅子を指さした。私はそこに腰を下ろし、父と一緒にお茶を飲んだ。
この三年間、実家に泊まることはほとんどなかった。母の写真も、学生時代の本棚も、昔と変わらずそこにある。
健吾の紹介で、家賃の安い事務所を借りた。
机を二つ置くだけで、部屋はほぼいっぱいになる。
引っ越して間もなく、元の職場で一緒に働いていた小野寺真帆が訪ねてきた。
「千春さん、私も辞めてきました。ここで働かせてもらえませんか?」
「本当にいいの? まだ仕事が安定してないよ」
「考えて決めたんです。また千春さんと仕事がしたいです」
最初に受けたのは、結婚を控えたカップルの中古マンションのリフォームだった。
予算も部屋の広さも限られている。
彼は机を置きたくて、彼女はクローゼットを増やしたい。十センチほどのスペースをめぐって、何日も意見がまとまらないらしい。
採寸の日も二人はその話をしていた。
彼がキッチンへ行った隙に、彼女が小声で尋ねた。
「佐倉さん、結婚したら、こういうことでしょっちゅう喧嘩するんですかね?」
「一緒に暮らせば、意見が合わないこともありますよ。でも、いつも同じ人が譲ってばかりだと疲れちゃいますよね」
彼女は少し考え、彼を呼び戻した。
結局、机の位置とクローゼットの扉を工夫し、二人の希望を取り入れられた。
完成した部屋で、二人は家具を置く場所を楽しそうに相談していた。
その頃、黒瀬の会社では新ブランドの発表会が中止になっていた。
私の設計を評価してくれていた取引先も、一部の契約を保留したという。
莉央は取材で、辞めたスタッフから嫌がらせを受けていると話していた。
健吾は必要な資料を提出し、公開できる範囲で経緯を説明した。
しばらくして、莉央から電話が来た。
「千春さん、これで満足ですか?」
「お金の件は、まだ終わってないよ」
「あれは航平が貸してくれたお金です!」
「使い道も含めて確認してもらってる。弁護士から連絡が行くと思う」
莉央が泣き始めた。
「私は仕事で結果を出したかっただけなの。航平が助けてくれるって、前から約束してたから……」
「その約束は航平と話して」
電話を切り、机に広げた平面図に目を戻した。
9
航平が新しい事務所へ来たのは、入居して半月ほど経った頃だった。
「……ここ、狭すぎないか? もっといいところ探してやろうか」
「大丈夫。気に入ってるから」
航平は書類を机に置いた。
莉央に譲った旧宅の登記が、再び航平の名義に戻っていた。双方の合意で所有権移転の手続きを済ませたらしい。
「家、戻してもらったんだ」
「もともと航平の家でしょう」
「千春と暮らすって約束したから」
「会社が落ち着いたら、もう苦労させないって約束もしたよね」
航平は黙った。
真帆が資料を抱えて階下へ降り、私たちだけになった。
航平は向かいの椅子に座った。
会社が最初に苦しかったのは本当だったという。ただ、新しい出資が入り、経営が持ち直してからも、彼は私に話さなかった。
お金がなくなっても私がそばにいてくれるのか、知りたかったらしい。
莉央の海外スタジオが資金難になったときには、私から借りたお金の一部をそちらへ回していた。
「莉央の仕事がうまくいって、お金が戻ったら花屋を買い戻すつもりだったんだ。あんなに早く再開発が進むとは思わなくて……」
「取り壊されなかったら、いつ教えてくれたの?」
「ずっと隠すつもりじゃなかった」
「そんなに長く黙ってたのに?」
航平は借用書に目を落とした。紙の端を指で押さえたまま、しばらく口を開かなかった。
「……お前が、俺の金なんかなくても一緒にいてくれるのが嬉しかったんだよ」
「それで、会社が持ち直してからも言わなかったんだ」
航平は答えなかった。
私は借用書を彼の前に置いた。
「母の店を売ったんだよ。服も買わずに、壊れかけたスマホを使い続けて、お父さんのリハビリ用品だって何度も値段を比べた」
航平は書類を見つめた。
「航平は全部知ってたよね。それでも、莉央にお金を貸したんだよね」
彼が手を伸ばしてきたので、私は少し身を引いた。
「埋め合わせはする。店のことも、お金のことも、仕事のことも」
「お金と契約の話は弁護士に任せる」
私は離婚届を出した。
「これもお願い」
航平の手が止まった。
「……離婚だけは待ってくれ」
私は立ち上がり、ドアを開けた。
「じゃあ、今日はもう話すことないね」
航平はなかなか立たなかった。
「千春。俺、莉央とは本当に何もなかったんだ」
私は振り返った。
「私が花屋を売るとき、航平は一度でも、売りたくないんじゃないかって聞いてくれた?」
彼は顔を上げた。
「莉央にお金を渡す前に、私に相談した?」
「……千春なら、わかってくれると思ってた」
「何も聞かされてなかったのに?」
航平は口を開きかけ、黙った。
私は旧宅の書類を返した。
「あの家は航平が持ってて。私はもう住まないから」
10
莉央が担当したモデル住宅の一つで、問題が起きた。
撮影に間に合わせるため、承認済みの施工プランを勝手に変更していたという。完成検査で不備が見つかり、施主から是正工事と損害の補償を求められた。
社内調査では、私の設計資料の無断使用も確認された。
さらに、承認を得ていない設計確認書に、私の署名を複製して貼りつけていたことまで判明した。
法務部門が調査を進め、莉央のスタジオが提出した経費にも不自然な申告があったという。
航平は莉央を企画責任者から外した。
数日後、莉央が私の事務所へやってきた。
「千春さん、航平に何か言ったんでしょう?」
「人事のことなら、会社に聞いて」
「前は何でも助けてくれたのに、最近は電話にも出てくれないの。絶対、千春さんのせいよ!」
私は資料をバッグにしまった。
「だったら、本人に聞けば?」
莉央は出口を塞いだ。
「航平が戻ってきたがってるの、愛されてるからだと思ってる? 千春さんに逃げられるのが嫌なだけよ」
「うん。そうかもしれないね」
彼女が目を見開いた。
「だから、戻るつもりはないよ」
莉央は唇を噛んだ。
「だったら、どうして今さらお金も返せ、名前も訂正しろって言うのよ!」
「私のものだから。離婚とは別の話でしょ」
私はバッグを肩に掛けた。
「出かけるから、通して」
その後、莉央は協議に従って実際の設計担当者を訂正し、私にも謝罪した。
スタジオは営業を停止し、案件の補償や経費申告については、その後も処理が続いた。
次に莉央の名前を見たのは、健吾から届いた精算状況の報告書だった。
11
航平は何度も私の前に現れた。
父のために新しいリハビリ施設を探し、費用まで先払いしたこともあった。私は施設に確認し、そのお金を返してもらった。
高価な輸入バラは、受付の人に頼んで近くの店へ配ってもらった。
やがて航平は、両親が遺した家を改装し直した。
庭も書斎も、以前私が描いた図面に合わせたらしい。
工事が終わった日、彼が迎えに来た。
「千春、一度でいいから見に来ないか。好きだって言ってた庭も残してあるし、書斎も図面どおりにしたんだ」
「行かないよ」
「千春……」
「あの図面、航平と住むつもりで描いたんだよ。今はもう使わないから」
航平はそれ以上勧めなかった。
数日後、彼は木の看板を持ってきた。
母の花屋の名前が彫られている。写真をもとに、文字の形まで再現してもらったようだった。
「取り壊したときの業者にも聞いたんだけど、元の看板は見つからなかった。だから写真から作ってもらったんだ」
私は看板を受け取り、眺めた。
母の字によく似ていた。線の曲がり方まで丁寧に再現されている。
「よく似てるね」
航平が少し顔を上げた。
私は看板を返した。
「でも、お母さんが書いたものじゃない」
航平は受け取ったまま、動かなかった。
「千春、どうしたら許してくれる?」
「もう何もしなくていいよ」
「店なら何軒でも買える。もっといい場所に、十軒だって……」
私は木の看板に目を落とした。
「母の店がよかったの」
航平は黙っていた。
「あの店、売らずに持っていられたんだよ。たまに帰って、お母さんが育ててた花を見たり、昔の椅子に座ったりできたのに」
私は看板から手を離した。
「会社にあのお金が必要なかったなんて、知らなかった」
航平は俯いた。
しばらくして、小さな声が聞こえた。
「……ごめん」
私は事務所に戻り、ドアを閉めた。
12
離婚調停は三回行われた。
一回目、航平は離婚に応じなかった。
結婚前に三年間の約束はしたが、後になって夫婦として暮らし続けることを決めた、と調停委員に説明した。
二回目には旅行の写真や誕生日の贈り物、二人で過ごした記録を持ってきた。
三回目、航平が机に置いたのは古い箱だった。
中には色あせたバラのドライフラワーが入っている。
あの、送料込み980円のバラだった。
「千春、これ、ずっと大事に取ってたんだろ?」
彼は箱を私のほうへ向けた。
「なのに、今はもう見たくもないのか?」
私は花を見つめた。
「そのときは、本当に会社が大変なんだと思ってたから」
箱の底には小さな花びらの欠片が落ちていた。
「航平も苦しいのに、記念日を忘れずにいてくれたんだって。それが嬉しかったの」
航平は箱を持つ手を動かした。
「でも、会社はもう持ち直してたんでしょう? 私にはずっと言わなかったよね」
私は顔を上げた。
「安い花でも、十分嬉しかったんだよ。航平には、わかってたと思う」
彼はゆっくり箱を引き寄せた。
「俺が悪かったのはわかってる。でも、三年間のことが全部嘘だったわけじゃないだろ?」
「……嘘ばかりだったとは思ってないよ」
父の手術の日、航平が来てくれたこと。帰りの遅い私を迎えに来てくれたこと。二人で笑った夜もあった。
私は彼を愛していた。
「一緒にいて、幸せだったこともあったよ」
航平が顔を上げた。
「だったら、もう一度……」
「でも、後から起きたことまで、なかったことにはできない」
航平の目が赤くなった。
「もう、やり直せないのか?」
「私はもう続けたくない」
「それでも待つよ」
「待たないで、航平。戻らないから」
航平は俯き、それ以上何も言わなかった。
三回の調停でも合意には至らなかった。
その後も代理人を通じた話し合いは続いた。別居が長引くなか、航平も最終的には離婚を受け入れ、私たちは協議離婚の手続きを済ませた。
離婚届を提出した日、役所の前まで航平が来ていた。
「千春、これからも会えないかな」
「仕事で必要なら、弁護士か会社を通して連絡して」
「それ以外は?」
私は彼を見た。
「もう離婚したんだよ」
航平はその場で立ち止まった。
私は振り返らずに歩き出した。
13
離婚が成立し、私は旧姓の佐倉に戻った。
会社から返還されたお金や補償金は、父のリハビリ費用と、事務所を立ち上げたときの借入金の返済に充てた。
残ったお金で、桐浜市の古い商店街の近くに小さな建物を借りた。
一階は花屋、二階はデザイン事務所。
母の店と同じ内装にはしなかった。カウンターも花を並べる棚も、自分が使いやすいように考えた。
真帆には二階の仕事を任せた。
父も体調のいい日には一階で花を包むのを手伝ってくれる。包装紙が少し曲がることもあるけれど、お客さんと話すのは楽しそうだった。
住宅設計の依頼も少しずつ増えた。
若い夫婦の間取りを見直したり、高齢者の家に手すりをつけたり、小さな食堂の厨房を使いやすくしたり。
大きな案件ばかりではなかったが、仕事を終えて店の鍵を閉める頃には、心地よい疲れが残った。
開店の日、健吾が新しい看板を持ってきた。
「店の名前、もう決めた?」
私は紙に書いた文字を見せた。
『佐倉花房』
真帆が笑った。
「ずいぶんシンプルですね、千春さん」
「そのほうが覚えてもらいやすいでしょ」
夕方、若い女性がバラを抱えて店に入ってきた。
「すみません、包み直してもらえますか? 彼氏にもらったんですけど、最近お金がなくて、もっといいのは今度って言われて……」
包みをほどくと、花はあまり新鮮ではなかった。
「佐倉さん、こんな安い花って、あんまり大事にされてないってことなんでしょうか」
私は傷んだ花びらを取り除いた。
「値段だけじゃ、わからないですよ。普段、彼とはどうですか?」
女性は少し考えた。
「優しいです。ただ、最近はお金がないって、よく言ってて」
「じゃあ、ちゃんと話してみるといいかもしれませんね。嬉しかったことも、気になることも」
私は包み直した花束を差し出した。
「こんな感じでどうでしょう?」
女性は花束を見て笑った。
「ありがとうございます。きれいになりました」
彼女を見送ったあと、切り落とした花びらを掃き集めた。
顔を上げると、店の向かいに見覚えのある車が停まっていた。
航平が立っている。
しばらくこちらを見ていたが、やがて入り口に花束を置き、車へ戻っていった。
向日葵だった。
母がよく店先に並べていた花だ。
カードはついていなかった。
私はスタッフに頼んで、その花束を包み直してもらった。翌日、向日葵はほかの花と一緒に店頭に並び、夕方には売れていた。
14
一年後、古い住宅を改装するテレビ番組で航平を見かけた。
彼はすでに会社の代表を退き、一般住宅の案件を担当していた。
番組で紹介されていたのは、築年数の古いマンションの改修工事だった。
作業着姿の航平が、施工担当者とドア枠の幅について話している。
司会者が、なぜ高級住宅から古い集合住宅の仕事へ移ったのかと尋ねた。
航平は後ろの建物を見た。
「前は見栄えとか、資産価値とか、そういうことばかり考えてました。でも、長く住んでいる方の話を聞くと、簡単には替えたくないものもあるんですよね」
彼は住人が残してほしいと希望した古い戸棚を指さした。
「この棚も、三代にわたって使っているそうです。できるだけ、そのまま使えるように考えました」
放送後、航平が変わったという声を何度か耳にした。
以前の知り合いから、もう一度やり直してみたらどうかと連絡が来たこともある。
私は返事をしなかった。
父の誕生日には、店を早めに閉めた。
真帆がケーキを買い、健吾は鉢植えの花を持ってきた。
「花束より長持ちするから」
得意そうにしている健吾を見て、真帆が笑った。
四人で一階の小さなテーブルを囲み、夕食を食べた。
父は少しだけお酒を飲み、いつものノートを開いた。ゆっくりペンを動かし、私に見せる。
『今が一番いい』
私は頷いた。
「うん。私もそう思う」
父は昔の写真を真帆に見せ始めた。健吾はケーキの上の果物をどう分けるか、真剣に考えている。
窓の外を車が通り過ぎた。
何気なく顔を上げると、通りの向こうに航平が立っていた。
濃い色のコートを着て、こちらを見ている。目が合ったが、私はすぐに視線を戻し、父のケーキを切り分けた。
航平の会社が大変だと聞いたとき、私は一緒に節約するつもりだった。安い花でも嬉しかったし、貯金を使って助けたいとも思った。
あの頃の気持ちは本当だった。
ただ、彼は私の知らないところで、別のことをしていた。
「千春さん、私ももう一切れいただいていいですか?」
真帆に呼ばれ、私はケーキの皿を取った。
健吾がフォークを取りに立ち上がったとき、入り口の風鈴が鳴った。
若い女性客が入ってきた。
「すみません、花束をお願いできますか?」
私はケーキナイフを置いて立ち上がった。
「もちろんです。どなたに贈る花ですか?」
女性は少し照れたように笑った。
「自分に、です」
私も笑って、花桶のほうへ歩いた。
「じゃあ、今日は一番きれいに咲いてる花を選びましょうか」
剪定ばさみを手に取り、花の茎を一本ずつ切りそろえた。
――完――




