婚姻届に旦那様の署名がありませんでしたので、この白い結婚は無効です 〜愛人の子の洗礼着も、わたくしが縫うはずでした〜
公爵家の白い布を、三年ぜんぶ縫っていた妻の話です。
一話で終わります。裾は、あと三針でございました。
秋の初めの、朝の間でのことでございました。
わたくしは膝に寸法帯を置いて、指で目盛りを繰っておりました。三日前に旦那様から洗礼着をひとつ頼まれております。丈は二尺一寸、袖は五寸五分。三つの子の寸法でございます。
どなたの子かは、伺っておりません。
「レオノーラ」
「はい」
「跡継ぎは、フェリクスにする」
わたくしは目盛りから指を離しました。
「フェリクスさま、と申しますと」
「ジルケの子だ。三つになる」
二尺一寸。合っております。
「洗礼は、まだお済みでないのですね」
「家に入れねば受けられん」
庶子は、家に入るまで白を着られません。三つまで待たされたということでございます。
「さようでございますか」
「それだけか」
「洗礼着の丈が、合っておりましたので」
旦那様は卓の上の書付を指で押さえて、こちらをご覧になりました。三年のあいだに何度か見た顔でございます。だいたいわたくしが数字の話をしたときに、この顔をなさいます。
「お前には子ができん。三年だ」
「はい」
「恨むな、とは言わん。だが家は残す」
「ひとつ、申し上げてよろしいでしょうか」
「なんだ」
「婚姻届に、旦那様の署名がございません」
朝の間が、そのままの明るさで止まりました。
「なんの話だ」
「三年前に教会へ納めた婚姻届でございます。証人のご署名は二つ、わたくしの名も入っております。旦那様の欄だけ、空いております」
「――書き忘れたということか」
「わたくしには分かりかねます。ただ、空いておりました」
「では今から書けばよい」
「三年前の日付では、お書きになれません」
旦那様は口を開いて、閉じられました。それからもう一度お開きになって、
「教会は何と言っている」
「まだ何も。誰も申し出ておりませんので」
「お前は、いつ気づいた」
わたくしは寸法帯を巻き取って、膝の上でそろえました。
「婚礼の朝でございます」
◇
ドルンバッハ公爵家は、白を着る家でございます。
生まれたときに洗礼着、嫁ぐときに婚礼衣装、亡くなったときに喪の襟。三度とも白でなければなりません。しかもただの白ではいけないのです。三度水を通した麻でなければ格が合わないとされております。
三度水を通すというのは、織り上げた麻を晒し、乾かし、また晒すことでございます。日に当てて、雨に当てて、また日に当てる。ひと通りに三月かかります。
その白を、三年、わたくしが縫ってまいりました。
嫁いですぐ姑さまに言われたのです。あなたは針が動くようだから、白はあなたが持ちなさい、と。この家では白を縫うのは女主人の役目で、外の職人には出さない決まりでございました。外に出すと寸法が漏れるからだそうです。
三年のあいだに、洗礼着を四つ、婚礼衣装を二つ、喪の襟を七つ。数えておりましたので覚えております。
それから、わたくしの持参金は麻布三十反と、生家の晒し場でございます。
晒し場と申しますのは、白を作る場所でございます。
◇
これは、婚礼の朝のことでございました。
衣装は自分で縫いました。三月かけて、それでも当日の朝に裾が三針だけ残っておりました。
書類は、婚礼衣装と一緒に教会へ運ぶことになっておりました。木箱に衣装を入れて、その上に書類の束を載せて、上から布をかけます。わたくしはその布をかけるときに、いちばん上の紙を見ました。
白い紙でございました。
わたくしは白いものを見ると、目が行くようになっております。染みも、寄れも、空きも見えます。職の癖でございます。
署名の欄が、空いておりました。
そのとき、あと半刻で衣装を着ることになっておりました。裾は、あと三針でございました。
わたくしは布をかけて、木箱を閉じました。
裾は糸を取りに戻る間がなかったので、手元に残っていた糸で縫いました。同じ白のつもりでしたが、後で見たらそこだけ少し青みが強うございました。三針でございますから、誰も気づきません。
着たかったのです。
それだけでございます。三年、そのことを誰にも申しておりません。
◇
姑さまが朝の間へ入っていらしたのは、その日の昼でございました。
旦那様から事の次第をお聞きになったようで、扇をお持ちのまましばらく立っておられました。それからいちばんに仰いました。
「白は、どうなるのです」
「洗礼着は裁ってございます。縫えば仕上がります」
「縫ってちょうだい」
「わたくしはこの家の者ではございませんので、女主人の役目には当たりません」
姑さまは扇を閉じられました。
「では外の職人に出します」
「出せますが、三度水を通した麻がございません」
「蔵にあるでしょう」
「蔵にございますのは反物が四反、いずれも一度きりのものでございます。三度通したものは、先月の喪の襟で終いになりました」
「取り寄せなさい」
「取り寄せますと、通すのに三月かかります。冬の洗礼には間に合いません」
「……晒し場は」
「わたくしの持参金でございます」
姑さまは扇の先で卓を二度お打ちになりました。この家の方は卓をお打ちになる癖がおありです。
「あなた、三年前から知っていて、黙っていたのですね」
「はい」
「なぜ」
「申し上げても、直せるものではございませんでしたので」
嘘ではございません。ただ、そればかりでもございません。
◇
出てまいりましたのは、その月の末でございます。
寸法帳は置いてまいりました。この家の方々の寸法が、三年ぶん書いてございます。姑さまの肩幅も、旦那様の裄も、亡くなった大叔父さまの襟回りも入っております。
「これは、置いていくのですか」
「お納めくださいませ。数は正しゅうございます」
姑さまは帳面をお開きになって、しばらく見ておいででした。数字は書いてあるのです。ただ、その数字に合わせる布が、この家にはもうございません。
持ってまいりましたのは、母の針箱がひとつ。麻布三十反は荷車で、晒し場は動きませんので、証文だけを持ちました。
門を出るとき、フェリクスさまが乳母に抱かれて、庭を横切っていかれました。
二尺一寸でございました。丈は、間違っておりません。
◇
王都の東に、白物ばかりを扱う仕立て屋がございます。
洗礼着と、婚礼衣装と、喪の襟。人が生まれるときと、嫁ぐときと、死ぬときのものだけを縫う店でございます。年を通して仕事が絶えません。人はたいてい、そのどれかをしておりますので。
わたくしは針箱を持って、そこへ入りました。
主人は年配の女で、わたくしの縫い目を四半刻ほど見て、それから言いました。
「三度通しの麻を、扱ったことは」
「三年ございます」
「うちは、ひと月に十二反使います。回せますか」
「回せます。晒し場を持っておりますので」
主人は、そこで初めて顔を上げました。
「――買います」
「売りません。通したものをお納めいたします」
「では、通しの分も払いましょう」
そういう話になりました。給金のほかに、反ごとの手間賃をいただいております。
仕立て屋には、布と一緒に噂も集まります。
冬の初めに、ドルンバッハ公爵家の大叔母さまがお亡くなりになりました。喪の襟が間に合わず、三年前のものを出して使われたそうでございます。三年前のものは、一度洗って仕舞ってございました。洗った白は、仕舞っておくと黄ばみます。三度通した麻は、とくに黄ばみます。
葬儀の列で、公爵家の方々の襟だけが少し色が違ったと聞きました。
それから、フェリクスさまの洗礼が春に延びたそうでございます。
冬に取り寄せた麻を、いま晒しておられるのでしょう。日に当てて、雨に当てて、また日に当てる。ちょうど三月でございます。
春の洗礼は、この家では初めてのことだそうでございます。
わたくしはその話を聞いて、手元の裾を縫い上げました。
◇
春の終わりに、直しの品がひとつ持ち込まれました。
婚礼衣装でございます。仕立て直して、丈を詰めてほしいとのことでした。持ち込んだのは商家の使いで、どちらのお家のものかは仰いませんでした。仰らないのが、この店の作法でございます。
わたくしは布を広げました。
三度通した麻。襟の裏に、ドルンバッハの紋が一つ。
裾を裏返しますと、最後の三針だけ、糸の色が違っておりました。
お読みいただきありがとうございました。
裾の三針は、婚礼の朝に、糸を取りに戻る間がなくて別の糸で縫ったものです。レオノーラがその直しをどうしたかは、書きませんでした。
この「葉山みのり」名義では、一話で終わる話を書いています。
・跡継ぎを十四年仕込んでいた妻の話 『「初恋の方のお子を跡継ぎに」と仰いますので、娘と出てまいります』
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