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婚姻届に旦那様の署名がありませんでしたので、この白い結婚は無効です 〜愛人の子の洗礼着も、わたくしが縫うはずでした〜

作者: 葉山みのり
掲載日:2026/07/30

公爵家の白い布を、三年ぜんぶ縫っていた妻の話です。

一話で終わります。裾は、あと三針でございました。

 秋の初めの、朝の間でのことでございました。


 わたくしは膝に寸法帯を置いて、指で目盛りを繰っておりました。三日前に旦那様から洗礼着をひとつ頼まれております。丈は二尺一寸、袖は五寸五分。三つの子の寸法でございます。


 どなたの子かは、伺っておりません。


「レオノーラ」


「はい」


「跡継ぎは、フェリクスにする」


 わたくしは目盛りから指を離しました。


「フェリクスさま、と申しますと」


「ジルケの子だ。三つになる」


 二尺一寸。合っております。


「洗礼は、まだお済みでないのですね」


「家に入れねば受けられん」


 庶子は、家に入るまで白を着られません。三つまで待たされたということでございます。


「さようでございますか」


「それだけか」


「洗礼着の丈が、合っておりましたので」


 旦那様は卓の上の書付を指で押さえて、こちらをご覧になりました。三年のあいだに何度か見た顔でございます。だいたいわたくしが数字の話をしたときに、この顔をなさいます。


「お前には子ができん。三年だ」


「はい」


「恨むな、とは言わん。だが家は残す」


「ひとつ、申し上げてよろしいでしょうか」


「なんだ」


「婚姻届に、旦那様の署名がございません」


 朝の間が、そのままの明るさで止まりました。


「なんの話だ」


「三年前に教会へ納めた婚姻届でございます。証人のご署名は二つ、わたくしの名も入っております。旦那様の欄だけ、空いております」


「――書き忘れたということか」


「わたくしには分かりかねます。ただ、空いておりました」


「では今から書けばよい」


「三年前の日付では、お書きになれません」


 旦那様は口を開いて、閉じられました。それからもう一度お開きになって、


「教会は何と言っている」


「まだ何も。誰も申し出ておりませんので」


「お前は、いつ気づいた」


 わたくしは寸法帯を巻き取って、膝の上でそろえました。


「婚礼の朝でございます」


    ◇


 ドルンバッハ公爵家は、白を着る家でございます。


 生まれたときに洗礼着、嫁ぐときに婚礼衣装、亡くなったときに喪の襟。三度とも白でなければなりません。しかもただの白ではいけないのです。三度水を通した麻でなければ格が合わないとされております。


 三度水を通すというのは、織り上げた麻を晒し、乾かし、また晒すことでございます。日に当てて、雨に当てて、また日に当てる。ひと通りに三月かかります。


 その白を、三年、わたくしが縫ってまいりました。


 嫁いですぐ姑さまに言われたのです。あなたは針が動くようだから、白はあなたが持ちなさい、と。この家では白を縫うのは女主人の役目で、外の職人には出さない決まりでございました。外に出すと寸法が漏れるからだそうです。


 三年のあいだに、洗礼着を四つ、婚礼衣装を二つ、喪の襟を七つ。数えておりましたので覚えております。


 それから、わたくしの持参金は麻布三十反と、生家の晒し場でございます。


 晒し場と申しますのは、白を作る場所でございます。


    ◇


 これは、婚礼の朝のことでございました。


 衣装は自分で縫いました。三月かけて、それでも当日の朝に裾が三針だけ残っておりました。


 書類は、婚礼衣装と一緒に教会へ運ぶことになっておりました。木箱に衣装を入れて、その上に書類の束を載せて、上から布をかけます。わたくしはその布をかけるときに、いちばん上の紙を見ました。


 白い紙でございました。


 わたくしは白いものを見ると、目が行くようになっております。染みも、寄れも、空きも見えます。職の癖でございます。


 署名の欄が、空いておりました。


 そのとき、あと半刻で衣装を着ることになっておりました。裾は、あと三針でございました。


 わたくしは布をかけて、木箱を閉じました。


 裾は糸を取りに戻る間がなかったので、手元に残っていた糸で縫いました。同じ白のつもりでしたが、後で見たらそこだけ少し青みが強うございました。三針でございますから、誰も気づきません。


 着たかったのです。


 それだけでございます。三年、そのことを誰にも申しておりません。


    ◇


 姑さまが朝の間へ入っていらしたのは、その日の昼でございました。


 旦那様から事の次第をお聞きになったようで、扇をお持ちのまましばらく立っておられました。それからいちばんに仰いました。


「白は、どうなるのです」


「洗礼着は裁ってございます。縫えば仕上がります」


「縫ってちょうだい」


「わたくしはこの家の者ではございませんので、女主人の役目には当たりません」


 姑さまは扇を閉じられました。


「では外の職人に出します」


「出せますが、三度水を通した麻がございません」


「蔵にあるでしょう」


「蔵にございますのは反物が四反、いずれも一度きりのものでございます。三度通したものは、先月の喪の襟で終いになりました」


「取り寄せなさい」


「取り寄せますと、通すのに三月かかります。冬の洗礼には間に合いません」


「……晒し場は」


「わたくしの持参金でございます」


 姑さまは扇の先で卓を二度お打ちになりました。この家の方は卓をお打ちになる癖がおありです。


「あなた、三年前から知っていて、黙っていたのですね」


「はい」


「なぜ」


「申し上げても、直せるものではございませんでしたので」


 嘘ではございません。ただ、そればかりでもございません。


    ◇


 出てまいりましたのは、その月の末でございます。


 寸法帳は置いてまいりました。この家の方々の寸法が、三年ぶん書いてございます。姑さまの肩幅も、旦那様の裄も、亡くなった大叔父さまの襟回りも入っております。


「これは、置いていくのですか」


「お納めくださいませ。数は正しゅうございます」


 姑さまは帳面をお開きになって、しばらく見ておいででした。数字は書いてあるのです。ただ、その数字に合わせる布が、この家にはもうございません。


 持ってまいりましたのは、母の針箱がひとつ。麻布三十反は荷車で、晒し場は動きませんので、証文だけを持ちました。


 門を出るとき、フェリクスさまが乳母に抱かれて、庭を横切っていかれました。


 二尺一寸でございました。丈は、間違っておりません。


    ◇


 王都の東に、白物ばかりを扱う仕立て屋がございます。


 洗礼着と、婚礼衣装と、喪の襟。人が生まれるときと、嫁ぐときと、死ぬときのものだけを縫う店でございます。年を通して仕事が絶えません。人はたいてい、そのどれかをしておりますので。


 わたくしは針箱を持って、そこへ入りました。


 主人は年配の女で、わたくしの縫い目を四半刻ほど見て、それから言いました。


「三度通しの麻を、扱ったことは」


「三年ございます」


「うちは、ひと月に十二反使います。回せますか」


「回せます。晒し場を持っておりますので」


 主人は、そこで初めて顔を上げました。


「――買います」


「売りません。通したものをお納めいたします」


「では、通しの分も払いましょう」


 そういう話になりました。給金のほかに、反ごとの手間賃をいただいております。


 仕立て屋には、布と一緒に噂も集まります。


 冬の初めに、ドルンバッハ公爵家の大叔母さまがお亡くなりになりました。喪の襟が間に合わず、三年前のものを出して使われたそうでございます。三年前のものは、一度洗って仕舞ってございました。洗った白は、仕舞っておくと黄ばみます。三度通した麻は、とくに黄ばみます。


 葬儀の列で、公爵家の方々の襟だけが少し色が違ったと聞きました。


 それから、フェリクスさまの洗礼が春に延びたそうでございます。


 冬に取り寄せた麻を、いま晒しておられるのでしょう。日に当てて、雨に当てて、また日に当てる。ちょうど三月でございます。


 春の洗礼は、この家では初めてのことだそうでございます。


 わたくしはその話を聞いて、手元の裾を縫い上げました。


    ◇


 春の終わりに、直しの品がひとつ持ち込まれました。


 婚礼衣装でございます。仕立て直して、丈を詰めてほしいとのことでした。持ち込んだのは商家の使いで、どちらのお家のものかは仰いませんでした。仰らないのが、この店の作法でございます。


 わたくしは布を広げました。


 三度通した麻。襟の裏に、ドルンバッハの紋が一つ。


 裾を裏返しますと、最後の三針だけ、糸の色が違っておりました。

お読みいただきありがとうございました。


裾の三針は、婚礼の朝に、糸を取りに戻る間がなくて別の糸で縫ったものです。レオノーラがその直しをどうしたかは、書きませんでした。


この「葉山みのり」名義では、一話で終わる話を書いています。


・跡継ぎを十四年仕込んでいた妻の話 『「初恋の方のお子を跡継ぎに」と仰いますので、娘と出てまいります』

 https://ncode.syosetu.com/n7238mn/

・鍵を二百十一本あずかっていた侍女の話 『お嬢様を捨てた殿下へ――ただの侍女ですので、王城の鍵を全部お返ししますね』

 https://ncode.syosetu.com/n7242mn/

・鳴っていない鐘の刻に断罪された令嬢の話 『聖女を突き落とした刻、わたくしは宰相閣下と密室におりました』

 https://ncode.syosetu.com/n7247mn/

・庭の隅で蜂を飼っていた妻の話 『白い結婚を終えましたので、蜜蜂と辺境へ参ります』

 https://ncode.syosetu.com/n7249mn/


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