「離縁状などいつでも書いてやる」が口癖の夫へ——署名は私が済ませました、残るはあなたの一文字だけです
惜しい。あと指一本ぶん右なら、蜂蜜はパンの中央へ落ちたのに。
細い金色の糸は無情にも耳の部分へ垂れ、皿へ逃げようとしていた。私は急いでパンを傾ける。夫の機嫌は放っておいても冷えるだけだが、焼きたてのパンは放っておけば確実に冷える。朝の優先順位として、これほど明快なものもない。
「食料庫の天井ですが、昨日の雨で染みが広がりました。今日、職人を入れてもよろしいですか」
新聞の向こうから右手だけが現れた。蝿でも追うように、ひらりと一度。
「好きにしろ」
「では、そのように」
ロイドは新聞をめくらなかった。まだ一面の途中らしい。私の話は大陸情勢より小さい扱いである。食料庫の天井よりも小さい夫婦の会話とは、ずいぶん収納に困る代物だ。
扉のそばに控えていたエドガーが、手帳へ短く書きつけた。老家令の筆先には迷いがない。主人の返事に中身がなくても、家令の仕事には期限があるのだ。
「明後日の昼餐会ですが、先方の人数が増えました。食器が足りませんので、銀器を借り受ける手配を——」
二度目の手が新聞の端から出た。今度は手首までで、面倒そうに左右へ振られる。
「おまえに任せる」
「承知いたしました。では、借り受けではなく、先方へ日程の変更をお願いいたします」
「聞いていたのか。食器を借りればいいだろう」
おや。新聞は読めても私の一文は最後まで読めないらしい。
「同じ日に、あなたがご招待なさった方々がこちらへいらっしゃいます。客間を二つに割ることはできませんので」
「そんなもの、片方を断れば済む」
「どちらをです?」
新聞が、ぴん、と張った。紙越しでも眉間に皺が寄ったのがわかる。便利だ。私は長年の経験で新聞紙の表情まで読めるようになった。あまり商会では役に立たなそうな技能である。
「いちいち私に決めさせるな。おまえが適当にやれ」
「あなたがお招きした方々ですので、確認を差し上げております」
「だから好きにしろと言っている!」
三度目の手が大きく振られた。新聞の端が鳴り、卓上の砂糖壺まで怯えたように見えたが、蜂蜜壺は堂々としている。甘味には貫禄がある。
私はパンをひと口かじった。表面は香ばしく、中はまだ湯気が立つほど柔らかい。よし。こちらは救出成功。
「それから、厨房の下働き二名が今月で勤めを終えたいと申しております。後任を——」
「朝からごちゃごちゃとうるさいな」
ようやく新聞が少し下がった。見えたのは目ではなく、不機嫌に歪んだ口元だけだった。
「屋敷の用事でございます」
「おまえが取り仕切ればいい。そういう家の娘だろう」
「取り仕切るために、主人のご意向を伺っております」
「口答えまで覚えたのか。離縁状などいつでも書いてやる」
言い終えたロイドは、私が黙ったことを満足と受け取ったらしい。新聞を持ち直し、冷めかけた卵へフォークを刺した。
私は蜂蜜をもう少し垂らした。先ほどは少しでよかったのだけれど、夫婦の終わりには甘味を増量してもよいだろう。誰が決めた規則かって? 私である。本日ただいま制定した。
「エドガー。昨日までにお願いした件を、確認してもよろしいかしら」
「かしこまりました」
エドガーは手帳を閉じ、背筋を伸ばした。いつもと同じ、朝の報告である。新聞の一面よりよほど屋敷を動かしてきた、短くて正確な報告だった。
「食料庫につきましては、職人が本日午後に参ります。昼餐会は先方へ事情をお伝えし、来月初旬へ変更済みでございます。厨房の二名には商会と取引のある食堂への紹介状をお渡しし、後任の募集も止めております」
「止めた?」
新聞が下がった。今度はロイドの目まで見えた。朝食が始まってから初めての快挙だが、残念ながら感動はない。卵の黄身が皿の上で固まりつつあることのほうが気になる。
「なぜ後任を募集しない」
「来月以降の厨房の規模が決まっておりませんので」
「誰がそんなことを決めた。職人だの紹介状だの、そんなことまで頼んだ覚えはないぞ」
エドガーは記憶違いを指摘しなかった。主人の記憶を直すより、現実を先へ運ぶほうを選び続けてきた人だ。私と同じである。気が合うはずだ。
「いつでも、と仰いましたので」
ロイドの口が半端に開いた。昨日も、一昨日も、同じような返事をしてきたのは彼である。自分が投げた言葉は、投げた本人からいちばん遠いところへ落ちるらしい。
「何を言っている。私はそんな意味で——」
「食料庫の修繕も、昼餐会の変更も、厨房の二名の紹介も、すでに済んでおります」
「勝手な真似を」
「わたくしへお任せになりました」
ロイドの右手が卓から浮きかけた。また追い払えばよいと思ったのだろう。私はパンを切り分け、蜂蜜の染みた柔らかな部分を確保した。勝負の前に朝食を守る。商家の娘は損失を嫌うのだ。
「エドガー。インクをこちらへ」
「すでにご用意しております」
彼は卓の脇に控えていた小卓から、小さなインク壺を運んだ。続いてペンを一本、私の皿と蜂蜜壺のあいだへ置く。銀器の横に文具。朝食の作法としては少々落第だが、今日の用には満点だった。
私は膝の上に置いていた革の書類入れを開いた。折り目のない紙を一枚取り出し、パン皿の横へ置く。十二日前の日付、その下には私の署名。証人欄の脇にはエドガーが静かに控え、残っているのは夫の署名欄だけだった。
「いつでも、と仰いましたので」
紙の上へ、朝の光が落ちた。私の名前は乾いている。昨日今日に腹を立てて書き殴った字ではない。彼が新聞の向こうで私を追い払い、屋敷が何事もなく動き、また翌朝を迎えていたあいだ、ずっと完成していた字だ。
「……何だ、これは」
「離縁状です」
「それは見ればわかる!」
「ようやくご覧になりましたね」
あら、少し言いすぎたかしら。いいえ、この程度なら塩ひとつまみ。料理にも夫婦にも、たまには必要である。夫婦のほうはもう鍋から下ろすけれど。
ロイドの視線が私の署名と空欄を往復した。新聞を握った左手に皺が増え、持ち上げかけた右手は肩の高さまで届かず、卓上で止まっている。
いつものように振ればいい。好きにしろ、と追い払えばいい。けれど今朝、その手の先にあるのは屋敷の用事ではなく、彼との暮らしを終えた私の顔だった。
やっと新聞より面白いものになれたらしい。光栄ですこと。少々、掲載が遅すぎたけれど。
「冗談はよせ」
ロイドは笑おうとした。口角の片方だけが上がり、すぐに落ちた。似合わないことはしないほうがよい。少なくとも蜂蜜は、パンに似合う仕事をきちんとしている。
「冗談ではございません」
「今朝のことで腹を立てたのか。あんなものは言葉のあやだ」
「署名の日付をご覧ください」
彼は見た。見て、私へ問い返す言葉を探した。十二日前の朝に何を言ったか、たぶん覚えていないのだろう。私は覚えているが、教えて差し上げる気はなかった。答え合わせまで妻の仕事にされたらたまらない。
「こんなことを、朝食の席で決める話ではない」
「ええ。ですから、わたくしは先に決めておきました」
「私に相談もなく?」
「相談でしたら、数年ほど試みました」
ロイドの指が新聞を握り直した。活字が潰れるほど力を入れても、書いてある出来事は変わらない。離縁状も同じである。紙には紙の強情さがある。
「屋敷はどうする」
出た。私ではなく、屋敷。順番が正直で大変よろしい。
「家計は、今朝の支払い分まで整えてあります」
「そういう話ではない。今後の管理は誰がする」
「あなたがお決めください」
「社交はどうする。来月にも招待が——」
「わたくしの名で受けたものは辞退いたしました。あなたのお名前で受けたものは、一覧をエドガーへ預けております」
「使用人は」
「残る方、移る方、職を探す方。それぞれがご自分で選べるよう、紹介状だけ用意いたしました」
これ以上、朝食を昼食にする義理はない。
「おまえが抜ければ回らないとわかっていて、こんな——」
「わたくしがいなくても回るようになさるのが、あなたのお仕事です」
「妻の務めを放り出すつもりか」
「わたくしへ任せると仰って放り出したものを、ずいぶん長く拾ってまいりました」
ロイドは何か言いかけ、やめた。そこへ私が言葉を足す必要はない。落としたものの数を本人が数え始めたのなら、私はその計算から降りればよい。
「実家に泣きつくのか」
「戻ります」
「同じことだろう」
「いいえ。わたくしの働きを、必要とする場所へ戻すだけです」
実家の商会が持つ信用は、私が嫁いだ日からこの屋敷の取引を支えてきた。支払いを少し待ってもらえたこと。品薄の品を優先して回してもらえたこと。急な客人にも恥をかかずに済んだこと。ロイドはそれを自分の名に付いた飾りだと思っていたようだが、借り物の銀器は返すものである。
「商会との取引まで切るつもりか」
「今後は、商会が条件を決めます。わたくしはもう、屋敷の都合を先に伝える立場ではございません」
「恩知らずな」
「持ち出すのは、わたくしの荷物と、わたくしの署名だけです」
屋敷も、家具も、銀器も、彼の名もいらない。彼の暮らしを支える義務も、もちろん置いていく。ずいぶん大きな忘れ物に見えるだろうけれど、もともと私の所有物ではない。
「考え直せ」
命令にするには声が細かった。頼みにするには頭が高かった。たいへん中途半端で、返事の置き場所に困る。
私はパンの残りへ目を落とした。蜂蜜がほどよく染み込み、端まで柔らかくなっている。今すぐ席を立ってもよかったが、焼きたてを途中で捨てる理由はない。夫は置いていけても、パンに罪はないのだ。
「わたくしは、考え終えております」
嫁いだばかりの頃、ロイドは一度だけ「困ったらいつでも言え」と言った。
馬車を降りた私の荷物を使用人が運び込み、知らない屋敷の匂いに足が止まったときだった。あの頃の一言だけは、頼ってよいという意味だと思っていた。思っていたから、次こそは聞いてもらえるかもしれないと、食卓へ報告を運び、書斎の扉を叩き、新聞の端へ声をかけた。
けれど、あの言葉へ一度も辿り着けないまま、同じ響きは面倒事を遠ざけるためのものへ痩せた。
私は最後のひと口を口へ入れた。まだ少し温かい。急いで飲み込まず、いつもの朝と同じようによく噛んだ。皿の上には、細かなパン屑と蜂蜜の光だけが残った。
ナプキンで指先を拭き、ペンを取る。インクを確かめてから、空欄の前へまっすぐ滑らせた。ペン先はロイドの右手の近くで止まり、離縁状の私の署名と向かい合った。
こいつは……いつから、こんな……。
彼はペンを取らなかった。冗談だとも、考え直すとも言わなかった。新聞から離れた左手も、卓上で止まった右手も、そのままだった。
私は署名を急かさない。撤回を待つつもりもない。彼がいつ書くのか、書かずに紙を眺め続けるのか、それはようやく彼自身が片付けるべき仕事だった。
「エドガー」
「こちらに」
老家令は離縁状の証人欄の脇に立った。主人を責める目も、慰める言葉もない。ただ、実行されるべき事実のそばに控えている。
「紹介状をお願いいたします。残る方へ渡す必要はありません。けれど、屋敷を出たいと望んだ方には、一通ずつ」
「すべて封を終えております」
「ありがとう。あなたの分もあります」
エドガーの眉が、ほんのわずかに動いた。それだけだった。深く頭を下げ、胸元へ手を当てる。
「確かに、お預かりいたします」
「待て。使用人まで連れていく気か」
「連れてはまいりません」
私は椅子を引いた。脚が絨毯を擦る音に、ロイドの肩が動いた。
「選べるようにしただけです。あなたの屋敷に残るよう命じることも、わたくしについてくるよう命じることもいたしません」
「それでは屋敷が——」
「どうなさるかは、あなたがお決めください」
ロイドの右手は上がらなかった。
食堂を出ると、廊下に屋敷を出たいと望んだ使用人たちが並んでいた。誰も口々に何かを訴えたりはしない。エドガーから封筒を受け取り、それぞれ胸の前へ抱え、揃って深く一礼した。
私も頭を下げた。彼らの次の暮らしまで背負うことはできない。それでも、働いた時間が無かったことにされない場所へ繋ぐくらいならできる。あとは彼らが選ぶ。私が選んだのと同じように。
背後の食堂では、紙をめくる音がしなかった。
私は振り返らなかった。朝食はきれいに食べ終えたし、忘れ物もない。上出来である。
◇
実家の商会へ戻った翌朝、私は倉庫の机で三冊の帳面に迎えられた。父も兄も歓迎の言葉より先に仕事を置いていったあたり、血縁とは恐ろしい。だが、任せると言いながら何を任せたか忘れる人はいない。帳面には期限も数量も、困っている相手の名前も書いてある。なんと親切な世界だろう!
最初に片付けたのは、港で止まっていた染料の荷だった。買い手は納期の遅れに腹を立て、運び手は追加の荷賃が決まらず、倉庫は空きを用意できない。三者がそれぞれ相手の返事を待っている。見慣れた光景だった。返事をしない主人の代わりに屋敷中を走っていた数年が、ここでまさかの換金である。
私は荷を二つに分け、急ぐ分だけ先に運ばせた。残りは倉庫代と荷賃をまとめ直し、買い手へ新しい日取りを示す。誰が、何を、いつまでに。たったそれだけを揃えると、三日止まっていた荷はその日の午後に動き出した。
「先便、買い手へ引き渡しを終えました」
若い手代の報告に、私は受領の印を確認した。紙の隅へ赤い印がひとつ。言葉どおりに仕事が終わった証は、見ていて気持ちがよい。
「残りは明朝、倉庫を出ます。追加の荷賃も先方の承認済みです」
「では、その条件で進めてください。遅れが出たら、買い手へ先に知らせること」
「承知しました」
婚家で身につけたのは、我慢だけではなかった。支払いの順番を決め、人を足りない場所へ回し、揉める前に手紙を出す。誰も仕事と呼ばなかった仕事が、商会ではきちんと利益になり、次の依頼を連れてきた。
屋敷から移ることを選んだ使用人たちも、紹介先でそれぞれ働き始めた。残った者が何人だったのか、エドガーがどちらを選んだのか、私は尋ねなかった。紹介状は扉を示すだけのものだ。そこを通るかどうかまで決めれば、ロイドと同じになる。
ほどなく、ロイドが妻の働きと商会の信用を同時に失い、招待客の輪から外れたという便りが一行だけ届いた。
私はその手紙を帳面の下へ敷いた。机が少しがたついていたので、ちょうどよい。夫婦であった年月にも、最後にひとつくらい実用的な役目があってよかったではないか。
「セシリア」
番頭が次の書類を抱えてやってきた。挨拶より先に、机へ一枚の注文書を置く。こちらも血縁ではないが、商会育ちとして話が早い。
「南へ出す毛織物の取引だ。先方が数量を増やしたいと言っている。運び手と倉庫の手配まで任せていいか」
注文書には希望の数量と期限があり、余白には先方の条件が簡潔にまとめられていた。困り事が見える。必要な手も見える。責任の置き場所まで、ちゃんとここにある。
私はペンを取り、受け取った日付を記した。窓の外では、荷馬車が次々と門を出ていく。誰かの気分ではなく、約束した時刻に合わせて車輪が回っていた。
「ええ、いつでも。今の私は、言ったことは必ず片付けますので」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




