第9話「日誌」
王家の紋章入りの書簡は、いつも不幸を運んでくる。
朝、エルンストが差し出したそれを見た瞬間、手が動かなくなった。開ける前から、中身がわかる気がした。
『ヴァイセンベルク公爵クラウスに告ぐ。
領地経営における重大な瑕疵、すなわち水利の全面的停止、領民の大規模な流出、税収の著しい減少を確認した。王家は貴殿の公爵位を剥奪し、ヴァイセンベルク領の管理権を王家直轄とする。本通告より三十日以内に屋敷を明け渡すこと。
クローネンブルク王城 宰相府』
書簡を持つ指が、白い。力が入りすぎて血が通っていない。
公爵位剥奪。
先代から――父から受け継いだ爵位。ヴァイセンベルクの名。この屋敷。この土地。すべてが、紙一枚で消える。
「旦那様」
エルンストの声が遠い。
「旦那様。お気を確かに」
「……ああ」
声が出た。かろうじて。
◇◇◇
リーゼが部屋から出てきたのは、昼過ぎだった。
荷物をまとめていた。旅装束を着ている。
「リーゼ」
「クラウス。ごめんなさい」
リーゼの目は泣いていた。涙が頬を伝っている。でも、その涙の種類を、俺は知っている気がした。悲しみではない。恐怖だ。沈む船から逃げる人間の涙。
「こんなところにはいられない。エッペンドルフ男爵が迎えの馬車を出してくれるって」
「エッペンドルフ?」
「前から文通していたの。あの人は、私のことをわかってくれるから」
前から。いつからだ。俺がこの屋敷で水の問題に頭を抱えている間に、リーゼは次の居場所を探していたのか。
「あなたが守ってくれるって言ったのに」
リーゼの声が震えた。
守る。確かに言った。子供の頃にも、大人になってからも。「俺が守る」と。でも、守れなかった。フィーネを守れなかったように、リーゼも守れなかった。いや、違う。フィーネは守る必要がなかった。フィーネが守っていたのだ。この領地を。俺を。
「……すまない」
それしか言えなかった。
リーゼは泣きながら、馬車に乗った。桃色のドレスの裾が、馬車の扉に挟まりそうになった。御者が慌てて直す。
馬車が門を出ていく。砂利を踏む音。あの日、フィーネが去った時と同じ音だ。
ただし、違うところがひとつ。フィーネが去った時には、使用人の半数が見送りに並んだ。今度は、誰もリーゼを見送りに出なかった。残り十五人ほどの使用人は、それぞれの仕事場で黙って手を動かしていた。
玄関の広間に、俺ひとりが立っている。
リーゼの荷物の中に、あの桃色のドレスはなかった。旅には不向きだから置いていったのだろう。客間のクローゼットに、ドレスだけが残されている。
人は去る時、不要なものを置いていく。フィーネは業務日誌を残した。リーゼはドレスを残した。その違いが、何かを物語っている気がしたが、うまく言葉にならなかった。
◇◇◇
エルンストが辞表を出したのは、その日の夕方だった。
「長い間、お仕えいたしました」
白い髪。深い皺。先代が生きていた頃から、この屋敷を支えてきた人だ。
「おまえまで行くのか」
「僭越ながら。もう、私がお支えできることはございません」
エルンストは頭を下げた。そして、書斎の机の上に、何かを置いた。
革の表紙。少し擦れている。厚みがある。
「最後に、これを。フィーネ様がお残しになったものです」
「何だ、これは」
「業務日誌でございます。五年分」
エルンストは最後にもう一度頭を下げて、書斎を出ていった。足音が廊下に消えるまで、俺は日誌に触れられなかった。
◇◇◇
日誌を開いた。
最初のページ。日付は五年前。婚姻の翌日。
『ヴァイセンベルク公爵家業務日誌 第一日
本日より精霊の巡回を開始。祠→井戸→噴水→水路分岐点(南)→水路分岐点(北)の順路。所要時間は約一刻。夜明け前に開始し、朝食前に完了。
旦那様は朝食の席で「散歩か」と仰った。説明しようとしたが、お忙しそうだったので控えた。
明日も巡回する。領民の生活がかかっている』
ページをめくった。
二日目、三日目、四日目。毎日記録がある。水利の状況、使用人の健康管理、領民からの陳情内容と対応。商会との交渉記録。来客の応対。すべてがフィーネの丁寧な字で記されている。
一年目の終わりには、薬湯の調合メモが挟まれていた。
『旦那様の頭痛は季節の変わり目に悪化する傾向。精霊水に白柳の皮と蜂蜜を加えた薬湯を毎晩調合。旦那様には「薬草茶」とだけ伝えている。精霊水であることを知れば、お飲みにならないかもしれないので』
精霊水。あの苦い茶は、精霊の力が入った水だった。
俺の持病を抑えていたのは、フィーネの精霊契約だった。
三年目の記録に、押し花が挟んであった。冬椿。薄い桃色の花弁が、紙の間でひっそりと潰れている。
業務日誌に押し花。なんの意味があるのか。
――いや、わかる。仕事しかなかったのだ。この日誌が、フィーネの世界のすべてだったのだ。仕事と、押し花と、俺の部屋の前に置く薬湯。それだけの五年間。
四年目。ある日の記録に、こうあった。
『部屋の前の行列が増えている。今日は七名。南の農地の灌漑、商会の新規契約、隣領との水利協定更新、領民の結婚届の証人依頼。すべて私宛てだった。旦那様はお忙しい。剣の鍛錬と社交が旦那様のお務めだ。家のことは私がやればいい。それが政略結婚というものだろう。旦那様が、以前そう仰っていた』
俺の言葉が、そのまま引用されていた。
「家のことは妻がやる。それが政略結婚というものだろう」
あの時の夕食で、俺が思ったことだ。口に出したかどうか覚えていない。口に出していたのだ。フィーネは聞いていた。そして日誌に書いた。怒りも悲しみもなく、ただ事実として。
最後のページ。離縁の前日の記録。
『明日、離縁を申し出る。業務日誌は家令に託す。引き継ぎ事項は本日誌にすべて記載した。必要な方にお渡しください。
五年間お世話になりました。
水が止まることを、申し訳なく思います。
しかし、これ以上は。
冬椿が咲いたら、少し嬉しいです』
最後の一行が、目の奥に刺さった。
「冬椿が咲いたら、少し嬉しいです」
中庭の冬椿は、水が止まってからもう枯れかけている。
俺は日誌を閉じた。手が震えていた。全ページが妻の手書きで埋まっている。五年分の記録。五年分の仕事。五年分の沈黙。
「全部、ここに書いてあった」
声に出した。書斎の闇に向かって。
「俺が読まなかっただけだ」




