第8話「手紙」
手紙を書こうとして、インク壺の水が足りないことに気づいた。
インクを薄めるための蒸留水。以前は書斎の棚に常備されていた。フィーネが――いや、フィーネの指示を受けた侍女が、毎週補充していたのだろう。今は誰もやっていない。
小川の水で代用した。インクが少し滲むが、仕方がない。
羊皮紙を広げる。
書き出しで止まった。
「フィーネへ」? 呼び捨てにしていた。五年間ずっと。今さら「様」をつけるのも奇妙だ。かといって呼び捨てのまま手紙を書けるほど、俺には面の皮の厚さがない。
――いや。面の皮なら、十分厚いか。「おまえの仕事は誰でもできる」と言える程度には。
結局、宛名を書かずに本文から始めた。
『水が止まった。おまえが――あなたが去った日から。精霊契約のことを知らなかった。俺は何も知らなかった。毎朝の巡回が何だったか。行列が何だったか。薬湯が何だったか。何ひとつ。すまなかった。戻ってきてほしい』
読み返した。破った。
「すまなかった。戻ってきてほしい」。この二つの文は、繋げてはいけない気がした。すまなかったのは本当だ。戻ってきてほしいのも本当だ。でも、並べると、まるで謝罪が取引の材料になっている。
もう一度書いた。
『すべては俺の責任だと、今はわかっている。あなたの仕事が誰にもできないものだったことも。この領地があなたに支えられていたことも。水が止まってようやく、それを知った。遅すぎた。愛していた。いや、愛していたのかどうか、正直わからない。ただ、あなたがいないことが、こんなにも痛いとは思わなかった』
ペンが止まった。
「愛していた」。
この五文字を見つめた。紙の上のインクが乾いていく。
本当に愛していたのか。五年間、一度も言ったことがない。フィーネの笑顔を見たことがない。フィーネが何色の花を好きか知らない。フィーネの誕生日を覚えていたかも怪しい。
それでも「愛していた」と書くのか。
――書いた。
嘘かもしれない。でも、嘘とも言い切れない。この胸の痛みの名前がわからない。水のせいなのか、フィーネのせいなのか、区別がつかない。区別がつかないこと自体が、たぶん答えなのだろう。
手紙を封蝋で閉じた。ホーエンヴァルト辺境伯領のフィーネ宛て。エルンストに託した。
「届けてくれ」
「かしこまりました」
エルンストは何も聞かなかった。ただ、手紙を受け取る時、ほんの一瞬だけ俺の目を見た。何を思ったのかはわからない。
「僭越ながら、旦那様」
「なんだ」
「お返事は、期待されないほうがよろしいかと」
老家令の声は穏やかだったが、刃のように正確だった。五年分の信頼を踏みにじった男が手紙一通で何を取り戻せるのか。エルンストにはわかっているのだ。
「わかっている」
わかっていなかったが、そう答えた。
◇◇◇
一週間。返事は来なかった。
その間に、噂が届いた。
フィーネが辺境の港町レーゲンフェルトで暮らし始めたらしい。精霊契約の能力を活かして、港の水利施設を整備しているという。レーゲンフェルト伯爵という若い貴族が、フィーネの才能を高く評価しているとも。
「伯爵様は、奥様――フィーネ様のことを『水の賢者』とお呼びだとか」
エルンストが伝えてくれた。「水の賢者」。俺は「おまえの仕事は誰でもできる」と言ったのに。
喉の奥が、きゅっと詰まった。何かを飲み込んだような感触。飲み込んだのが何かはわからない。後悔かもしれない。嫉妬かもしれない。自分の愚かさへの吐き気かもしれない。
フィーネは新しい場所で、新しい人に評価されている。俺が見なかったものを、見てくれる人がいる。
それは喜ぶべきことだ。少なくとも、まともな人間ならそう思うだろう。
俺は喜べなかった。
窓辺に立って、レーゲンフェルトの方角を見た。港町。海がある。水が豊かな場所に、フィーネは行ったのだ。水の精霊と契約できる女が、水の豊かな町で生きる。当たり前のことだ。枯れた土地にしがみつく理由はない。
手のひらを見た。汗ばんでいる。剣を握った時の感触を思い出そうとした。鍛錬室にはもう行っていない。相手をしてくれる護衛も、半分が辞めた。
◇◇◇
リーゼとの間に、沈黙が増えていた。
以前は笑い声で屋敷を満たしていたリーゼが、最近は部屋に籠もっていることが多い。時折、書き物机に向かっているらしい。手紙だろうか。誰に宛てているのかは聞かなかった。食事の席でも、うつむいてパンをちぎっているだけ。
「ねぇ、クラウス」
ある夜、リーゼが口を開いた。
「どうにかしてよ」
「どうにかって」
「水のこと。領民のこと。使用人のこと。全部。私がここに来てから、どんどんおかしくなってる」
リーゼの声が震えていた。怒りなのか、恐怖なのか。
「私のせいじゃないよね。私は何も悪くないよね」
返事に詰まった。
リーゼは何も悪くない。そう言いたかった。でも、口が動かなかった。リーゼが悪くないなら、誰が悪いのか。答えは一つしかない。
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃないでしょ。見ればわかるわ」
リーゼの目が、俺を射抜いた。あの優しかった目に、棘が生えている。
「あなたがあの人を追い出したから、こうなったのよ」
違う。追い出したんじゃない。フィーネが自分から――。
いや。
同じことだ。
リーゼが部屋に戻っていった。足音が荒い。鈴の音みたいな笑い声は、もう聞こえない。
ひとりで書斎に座った。机の上に、返事の来ない手紙の控えがある。「愛していた」と書いた手紙。
本当だったのだろうか。今でもわからない。
ただ、ひとつだけわかることがある。フィーネが毎晩、誰にも見られない書斎で陳情書を読んでいたこと。毎朝、暗いうちから巡回していたこと。毎晩、俺の部屋の前に薬湯を置いていたこと。
それは愛だったのか。義務だったのか。それとも――なんというか、もっと名前のつかないものだったのか。
わからない。もう聞くこともできない。
窓の外は暗い。月が細い。
インク壺の水は、もう残っていなかった。
フィーネがいつもインク壺を補充していたことを、今日、初めて知った。エルンストが「奥様が毎週、蒸留水を書斎にお持ちでした」と教えてくれた。
五年分の蒸留水。五年分の薬湯。五年分の朝の巡回。五年分の行列。
数えてはいけないものを、数えてしまった。




