第7話「回収」
エルンストの手が震えたのを見たのは、初めてだった。
朝、書斎に現れた老家令は、封蝋のついた書簡を両手で持っていた。ホーエンヴァルト辺境伯家の紋章。鷲と水の波紋を組み合わせた意匠。
「辺境伯様より、正式な書簡でございます」
受け取った。封を切る。
『ヴァイセンベルク公爵殿
先代との盟約に基づき、わが家はホーエンヴァルト家の水の精霊契約者を貴家に嫁がせた。水利の安定と引き換えに、わが娘を託した。
しかるに、貴殿は娘を蔑ろにし、愛人を屋敷に招き入れ、娘の労苦を「誰にでもできる仕事」と断じた。
わが娘を守れぬ家に、水を分ける道理はない。
本書簡をもって、ヴァイセンベルク領への水利権の供与を正式に停止する。これは盟約の破棄ではなく、盟約違反に対する正当な措置である。
ホーエンヴァルト辺境伯』
手紙を持つ指が、白くなっていた。力が入りすぎている。
「あの男に何の権利がある!」
叫んだ。声が書斎の壁に跳ね返った。
エルンストは動じなかった。
「水利権は元来ホーエンヴァルト家のものでございます。盟約に基づき、婚姻の間のみ供与されていたに過ぎません。離縁が成立した以上、回収は法的に正当でございます」
「――っ」
正当。法的に正当。
俺が不貞をした。契約に違反した。離縁された。盟約の前提が崩れた。水利権が回収された。
すべてが、つながっている。すべてが、俺の行動から始まっている。
「旦那様。辺境伯家の通告は、王家にも同時に提出されております」
王家。
「どういう意味だ」
「領地の水利が完全に停止した場合、王家は『領地経営の重大な瑕疵』として調査を開始する可能性がございます」
足が止まった。動けない。剣を構えた相手に切り込むことはできるのに、書簡一枚の前で足が竦んでいる。
窓の外を見た。中庭の噴水は止まったままだ。水受けに溜まっていた最後の水も蒸発して、乾いた石肌が白くひび割れている。
「おまえの仕事は誰でもできる」
自分の声が、頭の中で反響した。何度も。何度も。
あの言葉がフィーネの耳にどう響いたか、考えたことがなかった。五年間毎朝、夜明け前に起きて精霊の祠を巡り、井戸に魔力を注ぎ、水路の流れを調整し、領民の相談に応じ、商人と交渉し、帳簿を管理し、使用人を束ね、俺の持病の薬湯まで調合していた人間に向かって。
誰でもできる。
吐き気がした。自分自身の言葉に。
◇◇◇
その週のうちに、領民の移住が始まった。
最初は南側の農民だった。水がなければ作物は育たない。干上がった田畑を前に、家族で荷物をまとめて、隣の領地へ向かう。
「隣のエッペンドルフ男爵領には井戸があるそうだ」
農民のひとりが、そう言って去っていった。荷馬車に家財を積んで、妻と子供を乗せて。子供が振り返って手を振った。俺に向けたものではない。残った友達に向けたものだった。
農民の目は、怒りではなかった。もっと悪い。諦めだった。この土地にはもう未来がない。そう判断した人間の、静かな目。
一日で三家族が去った。翌日はさらに五家族。領地の南側の農地は、人が消えたことで畑が荒れ始めている。水のない畑に、雑草だけが伸びていた。
商人も撤退を始めた。水のない土地で商売はできない。ヴァイセンベルク領に拠点を置いていた三つの商会が、一週間で看板を下ろした。
取引先の代表が、去り際に言った。
「公爵様。奥方が水の要でいらしたことは、商人の間では周知の事実でございました。あの方を手放されるとは、失礼ながら――」
そこで口を閉じた。言わなくてもわかる。「正気ではない」。先月、魔道具商が言ったのと同じ言葉だ。
周知の事実。
みんな知っていた。商人が、使用人が、領民が。フィーネがこの領地にとって何であるかを、俺以外の全員が知っていた。
知らなかったのは俺だけだ。いや、違う。知ろうとしなかったのだ。書類を読まず、報告を聞き流し、行列を疎んじ、巡回を散歩だと思い込んで。
◇◇◇
夜、書斎にひとりで座った。
蝋燭は一本。替えがもう少ない。蝋燭の仕入れ先も、撤退した商会のひとつだった。
こめかみが脈打っている。頭痛がする。最近、ずっと頭が痛い。フィーネが毎晩届けていた薬湯を飲まなくなってから、少しずつ体のどこかが軋み始めている。
あの薬湯は何だったのだろう。ただの薬草茶だと思っていた。苦くて、飲みたくなかった。フィーネは何も言わずに、毎晩、俺の部屋の前に置いていった。
最後に飲んだのはいつだったか。リーゼが来る前の晩か。覚えていない。
喉が渇く。
小川の水を汲んだ水差しがある。手を伸ばして、やめた。もう飲みたくない。あの甘い水を知ってしまっているから。
「俺が悪いわけじゃない」
声に出した。書斎の闇に向かって。
「俺は――俺は、ただ」
言葉が続かなかった。
ただ、何だ。ただリーゼと一緒にいたかった。ただ幼馴染みとの約束を守りたかった。ただそれだけのことなのに。
なぜ俺の領地が崩壊しつつあるのか。なぜ使用人が去り、領民が逃げ、商人が消えるのか。
わかっている。わかっているのに、認められない。
認めたら。
認めたら、俺は何者になるのだ。妻を追い出し、領地を滅ぼし、先代から受け継いだすべてを失った愚かな男。そんなものに、なりたくない。
だが――。
手紙を書こうか、と思った。
フィーネに。
何を書けばいいのか、わからない。戻ってきてくれ。水をくれ。すまなかった。どれも嘘ではないが、どれも本当かどうかわからない。
水が欲しいから書くのか。フィーネに会いたいから書くのか。自分でも区別がつかない。
蝋燭の炎が揺れた。窓の外には、月も出ていない。暗い。
フィーネがいた頃、この書斎の窓から妻の部屋の灯りが見えた。遅くまでついていた、あの灯り。
今はもう、向こう側の窓は暗いままだ。
明日。明日、手紙を書こう。
そう決めて、空の水差しを見つめた。
水差しの底に、薄い水垢の輪が残っていた。かつて精霊の水がここにあった痕跡。指で触れると、かさついた感触だけが返ってくる。
リーゼの部屋の方角から、何の音もしない。もう、鈴のような笑い声は聞こえなくなっていた。




