第6話「離反」
四十人いた使用人が、三十人になるのに一週間もかからなかった。
最初に辞めたのは侍女長だった。辞表ではなく、エルンストを通じて「奥様のお供をさせていただきます」という伝言が残されていた。奥様。もう離縁が成立しているのに、使用人たちはフィーネをそう呼び続けている。
次にメイドが三人。それから庭師の若い衆が二人、馬丁がひとり。
理由はさまざまだった。「家の事情で」「体調が優れず」「故郷に帰ることにしまして」。誰ひとり、本当の理由を口にしない。だが、みな同じ方向を見ていた。
フィーネが去った方角だ。
エルンストは辞めなかった。先代から仕える老家令は、毎朝変わらず俺の書斎の前に立ち、その日の報告をする。ただ、報告の量は日に日に増えていた。今までフィーネが処理していた案件が、すべてエルンストのところに流れ込んでいるのだ。
「旦那様、南側の農地から水の配給について問い合わせが三件」
「対処しろ」
「配水の判断は、奥様が精霊との交信を通じて行っておいででした。私には判断の基準がわかりかねます」
「……じゃあ、均等に分けろ」
「地形と土壌によって必要量が異なります。均等では南の畑が水浸しになり、北の畑が干上がります」
俺は黙った。水の配分ひとつが、これほど複雑だとは知らなかった。フィーネはこれを毎日、当たり前のようにこなしていた。
残った使用人の顔にも、疲労が滲んでいた。水の問題だ。精霊の加護がなくなってから、すべての水を裏門の小川から桶で運んでいる。四十人分の生活用水を、桶で。腕が上がらないと訴えるメイドがいた。
「リーゼ」
朝食の席で、俺は切り出した。
「家のことを少し手伝ってくれないか」
リーゼは紅茶のカップを置いた。紅茶も、小川の水で淹れたものだ。味が違う。フィーネの水には、精霊が宿していた微かな甘みがあった。小川の水は、ただの水だ。
「手伝うって、何を?」
「使用人の指示出しとか。フィーネがやっていたことだ。帳簿を見て、一日の予定を確認して、報告を受けて――」
「え、私が?」
リーゼの目が丸くなった。
「だって、それって奥さんの仕事でしょ。私は――なんというか、そういうの苦手で」
「苦手でも、やってもらわないと困る」
声が硬くなった。自分でもわかった。リーゼの顔が曇る。
「……やってみるわ」
◇◇◇
翌日。
リーゼは帳簿を開いて、三十分で閉じた。
「クラウス、あれ無理。数字ばっかりで何が書いてあるかわからない」
「フィーネの字で書いてあるから読みにくいんだろう。エルンストに教えてもらえ」
「エルンストさん、怖いの。何を聞いても『奥様はこうされておりました』って言うだけで」
リーゼの声に、初めて苛立ちが混じっていた。
エルンストを書斎に呼んだ。
「リーゼロッテに業務を教えてやってくれ」
「僭越ながら、旦那様」
エルンストは白い眉の下から、こちらを見つめた。
「奥様の業務は多岐にわたります。水利管理、対外交渉、使用人の労務、領民への対応、商会との折衝。それぞれが専門知識を要し、五年以上の実務経験が土台になっております。一朝一夕で引き継げるものではございません」
「リーゼにやらせろと言っている」
「リーゼロッテ様が、そのご意志をお持ちであれば」
その言い方が、答えだった。リーゼにその意志がないことを、エルンストはすでに知っている。
「――辺境伯様にお願いされてはいかがでしょうか」
「何を」
「水のことでございます。ホーエンヴァルト辺境伯家は水源地帯を治めておいでです。直接水の供給を」
「俺が頭を下げろと? フィーネの父親に?」
エルンストは何も言わなかった。沈黙が、肯定だった。
「断る」
俺は言い放った。
離縁を突きつけてきた家に、水をくれと頼む。そんな屈辱は受け入れられない。公爵が辺境伯に頭を下げるなど、体面が――。
体面。
そんなことを気にしている場合なのか。井戸は枯れ、使用人は辞め、農業用水は干上がりつつある。体面など、とうに崩れているのではないか。
だが、認められなかった。認めれば、俺が間違っていたことになる。リーゼを選んだことが、間違いだったと。
剣の柄に手を伸ばした。革の凹みに指が収まる。使い慣れた感触だけが、まだ俺の味方だった。鍛錬室に行けば、少しは気が紛れる。
――いや。鍛錬をしている場合ではないことくらい、わかっている。わかっているのに、他にどうすればいいかがわからない。
◇◇◇
夕方、書斎の机に向かった。
フィーネが残していった陳情書の束を、初めて手に取った。領民からの文書だ。水路の修繕依頼、配水量の調整願い、新しい農地への水の引き込み許可申請。
字が汚いものもあれば、丁寧なものもある。共通しているのは、すべてに宛名が書いてあることだ。
「公爵夫人フィーネ様」
俺の名前ではない。領主である俺ではなく、妻宛て。
フィーネはこれを一枚ずつ読み、返事を書いていたのだろう。妻の部屋の前の行列の中に、領民の姿があったのを思い出した。日に焼けた顔、泥のついた靴。あの人たちは俺のところには来なかった。最初から、フィーネのところに行った。
俺はなんのための領主だったのだろう。
その問いが、石のように腹の底に沈んだ。
リーゼが書斎に顔を出した。
「ねえ、夕食何時?」
「知らない。料理長に聞いてくれ」
「料理長もう帰っちゃった。今日で辞めるって」
俺は陳情書を机に置いた。
手のひらが、じわりと汗ばんでいた。
夕食は、リーゼが台所で見つけたチーズと黒パンだった。
ふたりで食べた。蝋燭は一本。以前は三本あったのに、誰が替えを用意するのかわからなくなっていた。そういう小さなことの一つひとつが、フィーネの管理下にあったのだと、今さら気づく。
リーゼは黙っていた。いつもの明るさがない。パンをちぎる手が、わずかに震えている。
「大丈夫だ」
俺は言った。
リーゼが顔を上げた。その目に浮かんでいたのは、信頼ではなかった。不安と、それから――なんだろう。値踏みするような、冷たさ。
一瞬のことだった。すぐにリーゼは笑顔を作り、「うん」と頷いた。
見間違いだと思うことにした。




