第5話「渇き」
朝、顔を洗おうとして、水盆が空であることに気づいた。
侍女が水を汲みに行っていないのかと思い、鈴を鳴らした。しばらく待っても、誰も来ない。仕方なく廊下に出ると、使用人が数人、厨房のほうで何やら騒いでいた。
「どうした」
メイドのひとりが振り返った。目が大きく見開かれている。
「旦那様、井戸の水が……出ません」
最初は意味がわからなかった。
井戸は屋敷の裏庭にある。石造りの、立派な井戸だ。桶を落とせば、冷たくて甘い水が汲める。五年間――いや、先代の頃からずっとそうだった。
「壊れたのか」
「わかりません。桶を下ろしても、底に当たるだけで」
厨房に行くと、水瓶が空になっていた。料理長が腕を組んで、蒼白な顔をしている。
「旦那様。昨晩まで満杯だった水瓶が、今朝には干上がっておりました。井戸も、噴水も、水路も。すべて、止まっています」
噴水。
中庭に走った。昨日まで絶え間なく水を吐き出していた石の噴水が、沈黙していた。水受けの底に薄く残った水が、朝日を反射している。それだけだ。
水が、止まった。
比喩じゃない。本当に、止まったんだ。
◇◇◇
エルンストを呼んだ。
老家令は書斎に入るなり、深く頭を下げた。白い眉の下の目が、疲れていた。
「旦那様。ご説明申し上げなければなりません」
「水はどうなった。故障か。修理はできるのか」
「故障ではございません」
エルンストは一呼吸置いた。
「この領地の水は、精霊の加護によって供給されておりました」
「精霊の加護……? フィーネが精霊契約者の血筋だというのは知っている。だが、この領地の水がすべてそれで賄われていたというのか」
「左様でございます。この領地の井戸、噴水、水路、農業用水。すべてが、フィーネ様の精霊契約によって維持されておりました」
俺は椅子の背もたれを掴んだ。
「毎朝、フィーネ様が屋敷の中を巡回されていたのをご存知でしょうか」
知っている。散歩だと思っていた。
「あれは精霊への魔力供給の儀式でございます。屋敷の地下にある祠、井戸、噴水、水路の分岐点。すべてを巡り、精霊に魔力を注ぐ。フィーネ様は五年間、一日も欠かさずそれを行っておいででした」
散歩じゃなかった。
毎朝聞いていたあの足音は、この領地の水を守るための儀式の足音だった。
「なぜ――なぜ、誰も俺に教えなかった」
声が震えた。こめかみが脈打つ。
「僭越ながら、旦那様。フィーネ様は水利の報告を毎月提出されておりました。精霊契約の維持についても、書面でご説明されていたはずでございます」
机の上の書類の山が目に入った。読んでいない書類の山。「後で見る」と言い続けた山。
「……」
「精霊契約は契約者個人に属するものでございます。売買も譲渡もできません。フィーネ様がこの領地を離れた時点で、加護は消滅いたします」
言葉が、順番に腹の底に沈んでいく。
売買できない。譲渡できない。消滅する。
「では、別の精霊契約者を連れてくれば」
「ホーエンヴァルト辺境伯家の血筋のみが、水の精霊と契約できます。辺境伯家の令嬢は、フィーネ様おひとりでございます」
代わりはいない。
「おまえの仕事は誰でもできる」と、俺は言ったのだ。あの書斎で。フィーネの目を見て。
誰にもできない仕事をしている人間に向かって。
◇◇◇
午後、魔道具商を呼んだ。
代替の水源を確保する方法はないかと聞いた。魔道具で水を生成できないか。地下水を汲み上げる装置はないか。
「精霊の加護なしに、これだけの規模の水利を維持する魔道具は存在しません」
魔道具商は首を振った。
「失礼ですが、公爵様。精霊契約者を手放されたのは、正気の沙汰とは思えません」
手放した。
その言葉が、刃のように刺さった。俺が手放したのだ。「おまえの仕事は誰でもできる」と言い放って。
――いや、違う。フィーネが勝手に出て行ったのだ。契約書を持ち出して、一方的に。
でも、不貞条項に引っかかったのは俺だ。リーゼを屋敷に入れたのは俺だ。
頭の中で、二つの声がせめぎ合っている。「俺は悪くない」と「おまえが悪い」が交互に響く。どちらも俺の声だ。
「たかが水だ。どうにかなる。――どうにか、なるはずだ」
繰り返した。声が廊下に吸い込まれて消えた。リーゼはどこにいるのだろう。部屋にいるのか。この事態を知っているのか。
厨房の前を通ると、料理長が桶を抱えて走っていた。裏門の外にある小川から水を運んでいるらしい。四十人分の飲み水、調理用の水、洗い物の水。それを桶で一杯ずつ運ぶ。精霊の加護がなければ、水とはそういうものだ。
喉が渇く。水を飲みたい。水差しの水は、もう冷たくも甘くもなかった。昨晩の残りだ。ぬるくて、微かに埃の味がする。
◇◇◇
夕方、屋敷の廊下を歩いた。
フィーネの部屋の前を通った。行列はない。扉は閉じている。ノブに触れると、鍵はかかっていなかった。
部屋の中は、きれいに片づいていた。家具はそのまま。ただ、個人の持ち物はすべて消えている。本棚の隙間、引き出しの中、窓辺の花瓶。からっぽだ。
花瓶だけが残っていた。冬椿の花瓶。
花はもう枯れている。水がないから。
フィーネが冬椿を好きだったことを、俺は知らなかった。この部屋に何度来たことがあるだろう。五年間で、片手で数えられるほどだ。
部屋を出て、廊下に立つ。
静かだ。
行列がない廊下は、広くて、冷たくて、何もない。
あの行列が何だったのか。なぜ毎朝あれほどの人が妻の部屋の前に並んでいたのか。それが何を意味していたのか。
理解し始めていた。理解したくなかったが、喉の渇きが、嘘をつかせてくれなかった。
リーゼが部屋から出てきたのは、日が暮れてからだった。
「ねえ、クラウス。お水が出ないんだけど」
「ああ」
「いつ直るの?」
答えられなかった。直らない、とは言えなかった。言ってしまえば、それが本当になる気がした。
「……どうにかする」
「お願いね」
リーゼは笑って、また部屋に戻っていった。
俺は空の噴水の前に立って、しばらく動けなかった。水が落ちない噴水は、ただの石の塊だ。音がない。飛沫がない。光を弾かない。
ここにいつも水があったことを、当たり前だと思っていた。
フィーネがいたから、水があったのだ。
その単純な事実を受け入れるのに、俺はまだ時間がかかりそうだった。




