第10話「足跡」
水盆には、昨夜の雨水が少しだけ溜まっていた。
指先を浸す。冷たい。ただの雨水だ。精霊の加護もなければ甘みもない。空から落ちてきた水が、たまたま窓辺の盆に入っただけのこと。
顔を洗った。タオルは自分で絞った。もう侍女はいない。使用人は全員去った。最後まで残っていた下働きの少年も、昨日、親元に帰った。
屋敷に、俺ひとり。
朝食はない。厨房にはもう誰もいない。昨日の残りのチーズが棚にひとかけら。硬くなっている。齧ると、口の中の水分を全部持っていかれる。
水が欲しい。
いつからだろう。この喉の渇きが日常になったのは。精霊の水を知っている体は、ただの水では潤わないのかもしれない。あるいは、これは体の渇きではなく、別の何かなのかもしれない。
◇◇◇
日誌を持って、屋敷を出た。
フィーネの巡回路。日誌の一ページ目に書かれていた順路を、そのまま辿る。
最初は精霊の祠。屋敷の地下にある、小さな石の部屋。苔むした壁の奥に、水の精霊を祀った石碑がある。碑の表面はかつて水滴で濡れていたのだろう。今は乾いている。石の窪みに、蝋燭の跡が残っていた。フィーネが毎朝ここで灯していたのだろう。
五年分の蝋。石に染みている。
次に井戸。裏庭の、石造りの井戸。桶を下ろしても、底に当たるだけ。枯れた井戸の内壁に、水の跡がくっきりと残っている。かつてここまで水位があったという線。その線の高さは、俺の胸のあたりまであった。
これだけの水を、フィーネが毎朝維持していた。
噴水。中庭の。水受けは空で、石の底にひび割れが走っている。かつてここに水が落ちていた。リーゼが「素敵」と言った噴水。フィーネが支えていた噴水。
水路の分岐点。南と北。畑に水を送るための分岐。石組みの水路は乾いて、隙間から雑草が伸びている。ここで毎朝フィーネは立ち止まり、精霊と交信して水量を調整していたのだろう。
俺はその場所に立ってみた。何も感じない。精霊の声は聞こえない。水の気配もない。ただ、足元の石畳に窪みがある。
窪み。
靴ひとつ分の大きさ。浅い凹み。毎朝同じ場所に立ち、同じ足を踏みしめていた人間の重さが、石を削っている。
五年分の足跡。
千八百回以上、同じ場所に立った人間の重さ。雨の日も、雪の日も、熱が出た日も。日誌を読んだ。三年目の冬に「高熱があったが巡回は休めない。領民の冬の水を止めるわけにはいかない」と書いてあった。
俺はその日、何をしていただろう。覚えていない。たぶん、剣の稽古をしていた。
指で窪みに触れた。石は冷たい。でも、ここにフィーネがいた。毎朝、暗いうちから。俺が寝台の中で温かい布団にくるまっている時間に、この人は冷たい石畳の上で水を守っていた。
立ち上がれなかった。しばらくそのまま、窪みの前にしゃがみ込んでいた。膝が石畳に当たって痛い。フィーネは毎朝、この痛みを踏んで歩いていたのか。
◇◇◇
中庭に戻った。
銀木犀の木が枯れかけていた。葉が茶色く縮れ、枝が乾いてもろくなっている。フィーネが水をやっていた木だ。庭師の親方に「低く切れ」と言った時、親方の表情が固くなった理由が今ならわかる。
あの木は、フィーネのものだった。
木の根元に、何かが落ちている。拾い上げた。小さな石。丸くて、青みがかっている。川の石だ。フィーネの実家がある辺境伯領の川の石かもしれない。あるいは、ただの石かもしれない。
どちらでもよかった。握りしめた。手のひらが汗ばんだ。
◇◇◇
書斎に戻った。
日誌を机に置いた。隣に、王家の書簡。爵位剥奪の通告。三十日以内に明け渡し。
窓の外を見た。噴水は止まっている。行列はない。使用人はいない。リーゼもいない。領民もほとんどいない。
この屋敷に残っているのは、俺と、枯れかけた銀木犀と、空の井戸と、フィーネの日誌だけだ。
「幼馴染みと暮らしたかっただけだった」
声に出した。静かな書斎に、自分の声が響く。
「なぜ俺の人生は終わるんだ」
答えは日誌の全ページに書いてあった。
俺が読まなかっただけだ。
◇◇◇
夕暮れ。
枯れた井戸の前に立った。
空を見上げた。茜色の光が、石壁を染めている。この時間、フィーネは書斎で陳情書を読んでいた。俺はリーゼと笑っていた。そういう五年間だった。
井戸の底を覗き込んだ。暗い。何も見えない。水の音はしない。
かつてこの井戸から、冷たくて甘い水が湧いていた。顔を洗うのも、料理を作るのも、庭に水をやるのも、すべてこの水だった。フィーネの水。
もう二度と出ない。
日誌を胸に抱えた。革の表紙が、体温で少しだけ温かくなった。この中に、五年分のフィーネがいる。五年分の朝の巡回と、五年分の陳情書と、五年分の薬湯と、五年分の押し花。
俺はそのどれも見なかった。
俺はそのどれも知らなかった。
知ろうとしなかった。
井戸の縁に腰を下ろした。石が冷たい。風が吹いた。銀木犀の枯れた枝が、かさかさと音を立てる。かつてここに立つと、水の匂いがした。湿った石の匂い。冷たい空気。今は乾いた風が吹くだけだ。
遠くで、鳥の声がする。
フィーネはどこかで、水のある場所で、新しい朝の巡回をしているだろうか。新しい井戸に、新しい水を注いでいるだろうか。
知ることはできない。知る権利もない。
俺が手紙に書いた「愛していた」は、結局なんだったのだろう。返事は来なかった。来るはずがない。五年間目も合わせなかった男の「愛していた」に、何の重さがあるのか。
フィーネの日誌には、俺への不満が一行も書かれていなかった。怒りも、恨みも、悲しみも。ただ業務の記録と、時折挟まれた押し花だけ。
それが一番、堪えた。
恨んでくれたほうが楽だった。怒ってくれたほうが、まだ救いがあった。何も書かれていないことが、俺という人間の不在を証明している。フィーネの人生に、俺は業務の発注主としてしか存在しなかったのだ。
日誌の最後のページを開いた。
『冬椿が咲いたら、少し嬉しいです』
中庭の冬椿は枯れかけている。でも、枝の先に小さな蕾がひとつだけ残っていた。
水がなくても、咲くのだろうか。
わからない。
枯れた井戸の底から、水の音はしない。




