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幼馴染みと暮らしたかっただけなのに、なぜ俺の人生は終わるんだ  作者: 九葉(くずは)


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第1話「行列」

妻の部屋の前には、いつも人が並んでいた。


朝、書斎に向かう廊下でそれを見るのが、俺の日課のようなものだった。日課というか――まあ、目に入るのだから仕方がない。


商人が二人、使用人が三人、それから見覚えのない文官風の男がひとり。誰も彼もが手に書類や帳簿を抱え、妻の部屋の扉が開くのを待っている。


まるで王宮の謁見の間だ。


いや、さすがにそこまでではない。だが公爵家の廊下にこうも人が溢れると、俺が自分の書斎に行くのにも気を遣う。壁に背を預けて待つ男の横を、主人である俺がすり抜けなければならないのは、なんというか――据わりが悪かった。


「おはようございます、旦那様」


行列の先頭にいた侍女長が、小さく頭を下げる。


「ああ。――今日も多いな」


「水路の分岐点の件で、南側の農地から三名ほど。それと、隣領の商会から納品の確認が」


そこまで聞いて、俺は片手を上げた。もういい、という意味だ。


水路がどうとか、納品がどうとか。それは妻の仕事であって、俺の仕事ではない。俺には俺の務めがある。領主としての公務、社交、剣の鍛錬。妻は妻で家のことをやる。それが政略結婚というものだろう。


書斎の扉を閉めると、廊下の気配がようやく遮断された。


窓から差し込む朝の光が、積み上がった書類の山を白く照らしている。水利協定の更新書類、領民からの陳情書、商会への返信の下書き。どれも妻が「旦那様にご確認を」と置いていったものだが、正直なところ、俺が目を通したことはほとんどない。


後で読もう、と思う。いつも思う。いつも読まない。


――まあ、フィーネがちゃんとやっているのだから、俺が口を挟む必要もないだろう。


机の隅に、封蝋のついた手紙が一通。


見覚えのある丸い文字。封を切る指先に、少しだけ力がこもる。


『クラウスへ。お屋敷の準備、もう整った? 私、来週にはそちらに行けると思うの。久しぶりに会えるのが楽しみ。あなたの隣にいられるなんて、夢みたい。――リーゼ』


手紙を二度読んだ。


三度目は、最後の一行だけ。


◇◇◇


リーゼロッテ・メルツ。幼馴染みだ。


子供の頃、領地の境にある川でよく一緒に遊んだ。水が冷たくて、石が滑って、リーゼが転んで泣いて、俺が手を引いて立たせて。あの頃の川の水は、冷たいのに不思議と心地よかった。


「いつか一緒に暮らそうね」


リーゼがそう言ったのは、たしか十の頃だった。俺は笑って頷いた。子供の約束だ。でも、忘れなかった。


――忘れられなかった、というほうが正確だろうか。


父が死んで、俺が爵位を継いで、政略結婚でフィーネを迎えた。辺境伯ホーエンヴァルト家の長女。水の精霊と契約できる、希少な血筋の娘。先代同士の盟約で、この結婚は決まっていた。


俺に選択の余地はなかった。


――いや。選択の余地がなかったと、思いたかっただけかもしれない。でも、まあいい。


フィーネは物静かな女だった。挨拶は丁寧だが、笑わない。食事の席でも必要なことしか話さない。「水路の補修が完了しました」「南の農地への配水量を増やしてよろしいでしょうか」「来月の社交会の招待状の返信を」。


事務連絡。それだけ。


夫婦の会話というより、家令への報告に近い。


毎朝、フィーネは屋敷の中を歩いて回っていた。散歩だと思っていた。朝が早い人なのだろう、くらいにしか考えなかった。石畳の廊下を、いつも同じ順路で、ゆっくりと。


その足音を聞くと、ああ朝か、と思った。それだけだった。


結婚して五年になる。


五年。長いのか短いのか、よくわからない。少なくとも、リーゼと文通していた五年に比べれば、あっという間のようでいて、ひどく長かった。リーゼの手紙が届く日は月に二度。その二度を待つ間に、フィーネとの食事が六十回ほどあった計算になる。


六十回の食事で、フィーネが笑ったのを見たことがない。


――いや。一度だけ、庭の冬椿が咲いた朝に、唇の端がわずかに動いたような気がした。気がしただけかもしれない。俺はそういう機微に疎い。剣を握れば相手の足運びの癖まで読めるのに、目の前の人間の表情は、からきしだ。


◇◇◇


夕食。


長いテーブルの端と端に、俺とフィーネが座る。蝋燭が三本。料理は山羊乳のチーズと燻製の干し魚、黒パンに蜂蜜水。質素だが、これがこの領地の食事だ。


「旦那様」


フィーネが口を開いた。


「本日、辺境伯領との水利協定の更新書類が届きました。ご確認をいただきたいのですが」


「ああ、後で見る」


「それと、噴水広場の精霊の祠に亀裂が入っております。補修の手配を」


「おまえに任せる」


フィーネは一拍置いて、「承知しました」と言った。


それだけだ。


蝋燭の炎が揺れた。フィーネの顔に影が落ちる。切り分けた黒パンを口に運ぶ仕草は丁寧で、音を立てない。蜂蜜水のグラスに触れる指先が細い。何を考えているのかわからない目。いつもそうだ。この人の目は、何も映していないように見える。


――いや、映していないんじゃなくて、俺が読む気がないだけなのかもしれないが。


まあいい。


食事を終えて書斎に戻ると、リーゼの手紙をもう一度読んだ。丸い文字が、蝋燭の光に温かく見えた。


来週、リーゼが来る。


屋敷の客室を整えさせよう。いや、客室ではなく、もっと居心地のいい部屋を。俺の部屋の隣の、陽当たりのいい部屋。


妻は何も言わないだろう。今まで何も言わなかったのだから。


エルンストには明日伝えよう。「客人を迎える」と言えばいい。家令のあの老人は、白い眉の下で何を思うかわからないが、主人の命に逆らうことはない。


リーゼが来れば、この屋敷も少しは明るくなる。石壁と書類と沈黙ばかりの毎日に、あの高い笑い声が響けば。鈴みたいな、あの声。


廊下に出ると、フィーネの部屋の扉の下から灯りが漏れていた。まだ起きている。この時間に何をしているのかは知らない。帳簿でも見ているのだろう。


そのまま通り過ぎようとして、ふと足が止まった。


何かを言おうとした。何を言おうとしたのか、自分でもわからない。


結局、何も言わずに自室に戻った。


寝台の脇の小卓に、湯気の立つ杯がひとつ置いてあった。苦い薬草の匂い。毎晩のことだ。誰が置いているのかなど考えたこともない。一口含んで、残りはそのままにした。


明日からのことを考えると、少しだけ喉が渇いた。水差しの水を一口含む。冷たい。この屋敷の水は、いつも適度に冷たくて、微かに甘い。


当たり前のことだと、ずっと思っていた。

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