第九章「最初の読者」
五枚のプリントを、陽菜は三つ折りにしてトートバッグに入れてきた。
バッグから出して広げてみると、折り目のところでわずかに波打っている。それがひどく気になって、陽菜は会議室のテーブルに着く前に、指の腹で何度か紙を撫でた。けれどやはり折り目は消えなかった。
文芸サークル「言葉の雨宿り」の月例批評会は、大学の第三共用棟にある小さな会議室で行われる。定員十二名の部屋に今日集まったのは六人だった。陽菜がサークルに参加するようになって、これで三度目の批評会になる。最初の二回は他のメンバーの作品を読んで批評するだけだったが、今日は初めて自分の原稿を持ってきた。
サークル長の松岡さくらが、使い込まれた蛍光ペンをペンケースに並べながら「じゃあ今日は七本か。多いね」と言った。
「六本です」と誰かが訂正した。
「え、陽菜ちゃんも出すって言ってたよね」
陽菜は「はい」と答えながら、バッグの中に手を入れた。五枚のプリントを取り出して、テーブルの上に置く。表を下にした。
裏向きのまま膝の上に移して抱えていると、自分が書いたものがそこにある感触だけがやけにはっきりした。五千字。第一章の、最初の部分だけ。祖母と、海の話。何度も書き直して、それでも完成とは言い切れないまま、とにかくプリントアウトしてきた原稿。
眼鏡のフレームに触れた。細いプラスチックの感触が、いつも通りそこにある。指先にじんわりと力が入っていた。
六人がそれぞれの原稿を持ち寄り、まず全員に配って読む、というのがこのサークルの形式だった。
沈黙が会議室を満たした。
誰かがページをめくる音がする。エアコンが低くうなっている。窓の外では夕方の風が木の枝を揺らしていて、葉の擦れる音が遠くで聞こえた。
陽菜は自分の原稿から目を逸らして、そのまま手元の誰かの作品を読もうとした。けれど文字が頭に入ってこなかった。隣でさくらが静かにページを繰る気配がして、陽菜はまた眼鏡のフレームを触った。
"読まれている。"
今この瞬間、自分の書いた言葉を誰かが目で追っている。その事実が、胸の中でじりじりと熱を持った。怖いというのとも違う。でも怖いといえば怖い。自分の中にあったものが、急にどこか遠くへ行ってしまうような感覚だった。
最初に口を開いたのは、やはりさくらだった。
「陽菜ちゃんの、読んだ」と彼女は言って、プリントをテーブルに置いた。「これ、おばあさんについての話だよね」
「……はい」
「読んでて、ちょっと泣きそうになった」
陽菜は何も言えなかった。
さくらは感情的な人ではない。むしろどちらかといえば批評のときは辛口で、文体の粗を的確に指摘することで知られている。その彼女が「泣きそうになった」と言った。陽菜の中で何かが大きく揺れた。うれしいというよりも、揺れた、という感覚だった。
「文体は、固いと思う」と別のメンバー——文学部の二年生で、さくらより批評が辛辣だと陽菜は思っている村田という男子——が言った。「丁寧に書こうとしているのはわかるんだけど、その丁寧さが邪魔してるというか。感情移入しにくい部分がある。特に中盤のここ」と言って、プリントの該当箇所を指で示した。
その言葉は、刃のような形をしていた。陽菜の胸にすっと入ってきて、そこに留まった。
「わかります」と陽菜は言った。「自分でも、そこが気になってました」
「じゃあなんで直さなかったの」
「……直そうとしたんですけど、どう直せばいいかわからなくて」
正直に言うと、村田は少し意外そうな顔をして、「そういう感じか」とだけ言った。それ以上の批判はしなかった。
他のメンバーからも言葉が来た。「冒頭の海の描写は好き」「人物の輪郭がもう少しくっきりすると読みやすい」「方言の混じり方が独特で、これは意図的なの?」。陽菜は一つずつ「ありがとうございます」と答えながら、メモを取った。
"ありがとうございます。ありがとうございます。"
声が思いのほか落ち着いていた。内側ではずっと揺れていたのに、言葉を受け取るたびに手が安定してペンを動かしていた。それが不思議だった。
批評会が終わったのは夜の七時を過ぎた頃だった。
エレベーターを待つ間、さくらが隣に立った。
「傷ついた?」
正面から問う言葉だった。遠慮がなくて、それでいて乱暴でもなかった。
陽菜は少しの間、黙っていた。エレベーターのボタンが光っている。
「……たぶん、だけど」と陽菜はゆっくり言った。「うれしかった部分もあって」
「うれしかった」
「読んでもらえると、自分が書いたものが急に外側に出た感じがして。それが——怖かったんですけど、でも変な感じで、すっきりもしたというか」
言葉にしながら、それが本当のことだと気づいた。怖かった。でも怖いだけじゃなかった。自分の中にずっとあったものが、ここに在るということを確かめてもらったような、そんな感触があった。
「文体固いって言われたのは、まあそうだなって」
「そうだね。でも固いのと、誠実なのは、ちょっと似てる部分があると私は思う」とさくらが言った。エレベーターが来て、二人で乗り込んだ。「陽菜ちゃんって、書かないといけない人だよね」
「え」
「読んでてそう思った」とさくらは静かに言った。「上手いとか下手とか、そういう話じゃなくて。書かないといけないものを抱えてる人の文章だった」
陽菜はエレベーターの壁を見た。金属の表面に、自分の像が歪んで映っている。
"書かないといけない人。"
誰かにそう言ってもらったのは、初めてだった。書いていいと言われたことなら、何度かあった。書いても構わないと、黙って認めてもらったことも。でも「書かないといけない」は違った。それは義務ではなく、陽菜が自分の中に持っているものへの、外側からの肯定だった。
一階に着いて扉が開いた。冷えた夜の空気が流れ込んできた。
「ありがとうございます」と陽菜は言った。今日何度目かの「ありがとうございます」だったけれど、今回はほんの少し、声の質が違っていた。
さくらは「次回も持ってきてね」と言って、駅のほうへ歩いていった。
アパートに戻ったのは九時近かった。
廊下の蛍光灯が相変わらず少し遅れて点灯する。マルヤマ荘の暗い廊下が白い光で満ちた瞬間、隣の部屋のドアが開いた。
東條蒼が、コンビニのレジ袋を片手に帰ってくるところだった。イヤホンは首にかかっていて、陽菜の顔を見ると無言でそれを外した。
「今日、批評会だったんですよね」と蒼が言った。
「あ、話しましたっけ」
「先週」
「……読んでもらえました」と陽菜は言った。報告というよりも、声に出して確かめたかったのかもしれない。
蒼は少しの間、陽菜の顔を見ていた。
「よかった」と短く言った。それから、コンビニ袋を持ち替えて、「俺も今日、初めて卒制の一部を指導教員以外に聴かせた」と言った。
「誰に」と聞くと、「同じ学科の友人。あいつ、トランペット専攻なんだけど、弦のことわかるやつで」と蒼は言った。
「どうだった?」
蒼は少し間を置いた。廊下がしんと静まり返っていた。
「怖かった」と彼は言った。「でも変な感じで、すっきりした」
陽菜は瞬きをした。
"怖かった。でも変な感じで、すっきりした。"
自分が、さくらに向かって言ったのと全く同じ言葉だった。同じ順番で、同じ意味を持って。
二人はほんの一瞬、廊下の白い光の中で互いを見た。それから、ほとんど同時に、小さく笑った。大きな笑いではなく、ふっと何かが緩むような、そういう笑いだった。
「お互い様ですね」と陽菜は言った。
「そうだな」と蒼は言った。
蒼が自分の部屋に入り、ドアが閉まった。廊下に陽菜一人が残った。
部屋に戻って、トートバッグの中からプリントを取り出した。メモが走り書きされた余白、村田に指摘された中盤の段落、さくらが「泣きそうになった」と言ったページ。折り目はまだ残っていた。でも今は、その折り目が気にならなかった。
机の前に座って、ノートを開いた。
「文体が固い」——それが批評だった。でも陽菜の中でその言葉は、少しずつ別の形に変わりつつあった。固いのは、まだ解け切っていないからだ。解け切っていないのは、まだ書き途中だからだ。書き途中なのは、まだ終わっていないからだ。
終わっていない。
陽菜はペンを取った。
ノートの真っさらなページに、最初の一文を書いた。




