第八章「音楽と、届かなかった先生」
五月の終わりに、雨が続いた。
梅雨にはまだ少し早いはずなのに、東京の空はぐずぐずと泣き濡れて、マルヤマ荘の錆びた雨どいが夜通しごぼごぼと鳴り続けた。陽菜はそういう夜が嫌いではなかった。雨の音は、沈黙の輪郭をくっきりとさせてくれる。何も書けない夜でも、雨の音があれば「何も書けていないこと」を静かに許してもらえる気がした。
第七章の夜に起きたことは、ここには書かない。
ただ、あれ以来、隣室との境界が少し変わった、とだけ言っておく。壁は相変わらず薄いのに、その薄さがもはや不快ではなくなっていた。
声をかけられたのは、土曜日の昼過ぎだった。
陽菜が共用の給湯器でお湯を沸かしていると、廊下の奥から足音がして、東條蒼が現れた。首にイヤホンをかけていたが、陽菜の姿を認めた瞬間にそれをはずして、ポケットに押し込んだ。彼がいつもそうするように。
「瀬川さん、ちょっとお時間ありますか」
いつもの飄々とした口ぶりではなく、どこかためらいがちな、たどたどしい声だった。陽菜は少し驚いて、湯気の立つカップを持ったまま振り返った。
「あります」と答えると、蒼はわずかに目を伏せて、「卒業制作について話してもいいですか」と言った。
蒼の部屋は、陽菜の部屋と間取りが左右対称だった。同じ四畳半に、違う人間の時間が積み上がっている。楽譜の束が棚からはみ出し、五線紙が机の上に広げられ、鉛筆が何本も転がっていた。指に染みついたのと同じインクの色が、あちこちに痕跡として残っていた。
向かい合って座ると、蒼はしばらくの間、手元の湯飲みを両手で包んだまま何も言わなかった。陽菜はその沈黙を急かさなかった。言葉は、出てくる前に少し時間が要る。それは自分が誰より知っていることだ。
「祖父のために書いてるんです」と、蒼はついに口を開いた。「卒業制作の交響曲。三年前に亡くなったんですけど」
陽菜はそっと眼鏡のフレームに触れた。
「音楽の本質を教えてくれた人で」蒼は続けた。「技術とか理論とかじゃなくて、もっと根っこのところ。なんで音を並べることが人に何かを伝えるのか、なんで旋律が記憶になるのか。そういうことを教えてくれた人が、祖父でした」
窓の外で雨がまた降り始めていた。細い糸のような雨が、ガラスをゆっくりと伝い落ちていく。
「完成させる前に、逝かれてしまったんですね」と陽菜は言った。
蒼は頷いた。静かに、一度だけ。
陽菜はその頷きの重さを確かめるように、少し間を置いた。第六章で蒼が漏らしていたあの言葉が、今になって別の意味で聞こえてきた。「一冊だけ手元に残した楽譜の本がある」と彼が言ったとき、陽菜は事情をよく知らなかった。借りたまま返せなかった、とも言っていた。
「あの楽譜の本」と陽菜はゆっくり言った。「祖父さんから借りたものだったんですね」
蒼は少し目を細めた。「覚えてたんですか」
「……たぶん、だけど、と思ってたんです。聞けなくて」
「正解です」と蒼は言った。声に苦さはなかった。ただ、静かだった。「返す相手がいなくなって、ずっと手元に置いてある」
以前、陽菜が偶然目にした楽譜の表紙に、鉛筆で書かれた文字があった。「祖父へ」。そのときは一瞬のことで、深く考えないようにしていた。今その文字の意味が、ようやく完全に像を結んだ。卒業制作の表紙に書かれた献辞。返せなかった借り物の本と、まだ完成していない交響曲。二つが同じ人間への、同じ方向の祈りだったのだ。
「それでも書いてるんですね」と陽菜は言った。
蒼は少しだけ口元を動かした。笑い、というより、何かを確かめるような表情だった。
「聴いてもらえないとわかってても書いてる。届かないとしても」
その言葉が、陽菜の胸の中で何かに触れた。とがった石が、眠っていた水面を叩くような感触。波紋が広がる前の、あの一瞬。
「諦めているわけではないんですよね」
問いというより、確認だった。陽菜は自分でもそれがわかっていた。蒼も、そう受け取ったらしかった。
「諦めたら書かない」と彼は言った。
簡単な言葉だった。短すぎるくらいの言葉だった。でもその短さの中に、どれだけのものが詰まっているか、陽菜にはわかった。諦めたら書かない。書いているということは、諦めていないということ。届かないかもしれないと知りながら、それでも手を動かし続けるということ。
陽菜はしばらく何も言えなかった。
雨音が続いていた。蒼も何も言わなかった。二人の間に、やわらかい沈黙が満ちていた。沈黙でも、通じ合うことができる。陽菜はそれを文字の中でしか知らなかった気がするのに、今はこうして膝と膝が届きそうなくらい近い距離で、それを体感していた。
蒼の祖父は、三年前に逝った。もう声を聴かせることも、完成した曲を届けることもできない。
陽菜の祖母は、今も生きている。施設の白い部屋で、窓から何かを見ている。でもその記憶は日々少しずつ溶けていっていて、いつか陽菜のことさえわからなくなるかもしれない。
亡くなった人への届かぬ言葉。忘れていく人への届かぬ言葉。形は違っても、向かっている場所が同じだった。消えていくものに向けて、手を伸ばし続けること。諦めずに書き続けること。
陽菜は自分の手の甲を見た。何も染みついていない指先。でもこの手でいつか、何かを書けるはずだと、初めて根拠なく信じる気持ちになった。
「ありがとうございます」と陽菜は言った。
蒼は首を傾けた。「俺、なんかしましたっけ」
「話してくれたから」
蒼は少し考えてから、「そうですか」とだけ言って、また湯飲みに口をつけた。
自分の部屋に戻ると、陽菜はトートバッグからノートを取り出した。
いつも持ち歩いているのに、ずっと開けなかった。正確に言えば、開いても白いページを前に手が止まって、また閉じることを繰り返していた。
それは、祖母と父が対峙する場面を書こうとするときだけ起きる現象だった。
陽菜が書こうとしている物語の核心にある場面。父・克己が、母の施設への入居を反対し続けた日々。祖母の文子が、それでも静かに息子を見続けていた日々。陽菜はその場面を何度も頭の中でなぞってきたのに、文字にしようとするたびに指先が凍りついた。伝わらないかもしれない、という恐怖が、最初の一文字を書くことを阻んでいた。
でも今夜は違う。
蒼の言葉が、まだ耳の中に残っていた。
"届かないとしても。"
"諦めたら書かない。"
陽菜はペンを取った。細フレームの眼鏡をかけ直して、ノートの白いページを正面から見た。雨の音が外で続いている。
書き始めた。
最初の一文は、ぎこちなかった。でも二文目は少しましで、三文目を書き終えるころには、手が止まらなくなっていた。
祖母の声が聞こえるような気がした。中学二年生のとき、封筒に入れて届けてもらった手紙の文体。あの文字が、今でも皮膚の下に眠っているみたいに、指先に染み出てくる感覚があった。
父が玄関先に立っている。祖母が縁側に座っている。二人の間の、長い長い沈黙。陽菜はその沈黙を書いた。誰の言葉にもなれなかった空白を、今夜初めて文章にした。
届かないかもしれない。
それでも書く。
諦めていないから、書く。
雨音の中で、ページが埋まっていった。深夜一時を過ぎるころ、陽菜の手はまだ動き続けていた。




