第七章「手紙の全文と、消えていく人」
スマートフォンが震えたとき、陽菜は机の前でノートを開いたまま固まっていた。
画面に表示された「お母さん」の文字を見て、一瞬だけ手が止まる。母から電話がかかってくること自体が珍しかった。LINEで事足りる用件なら必ずLINEを寄越す人だ。電話をするときは、テキストでは伝えにくいものがあるときだと、陽菜は経験上知っていた。
「もしもし」
「陽菜、今大丈夫?」
「うん、大丈夫」
少しの間があった。電話口の向こうで、母が言葉を選んでいる気配がした。
「おばあちゃんのことなんだけどね」
胸の奥が、きゅ、と締まった。
「最近ね、あなたのことわからなくなってきてる日が増えてるって。施設の人に聞いたら、進みが少し早いって言われたんだって」
陽菜は窓の外を見た。夜の東京郊外の空は低く曇っていて、薄汚れた橙色をしていた。港町の夜空とは違う色だと、上京してから何度も思ってきた。
「そっか」と陽菜は言った。「ありがとう」
「陽菜——」
「うん。ありがとう、教えてくれて」
電話を切った。
しばらくの間、スマートフォンをテーブルの上に置いたまま、陽菜は動けなかった。「ありがとう」と言ったが、何への礼なのか、自分でもわからなかった。知らせてくれたことへの礼なのか、それとも知ることができた事実への礼なのか。あるいは、もうすぐ失われてしまうものを、まだ失われていない今のうちに確かめさせてくれたことへの礼なのか。
言葉がどこかでほつれていた。
陽菜は椅子から立ち上がり、部屋の隅に置かれた小さな桐の引き出しの前にしゃがんだ。
その引き出しには、入学式の日に実家から持ってきたものが入っている。母の形見分けに似た小さなブローチ、中学の文芸部の同人誌、そして一通の封筒。
封筒の角はすでに擦り切れていた。折り目が白くなるほど何度も開いて、読んで、折りたたんで、また開いたせいだ。
便箋を取り出す。
今まで何度も読んだはずなのに、陽菜はこの手紙の全文を誰かの前で声に出したことがなかった。頭の中では何度も読み返していたが、それは断片だった。「楽しみにしてるからね」という最後の一文だけ、「あなたの形をしてるって」という一節だけ。全部を通して読むことを、なぜかずっと避けていた気がした。今まで一度も全文を通して読まなかったわけではない。ただ、物語の中では初めて、きちんと開くという感覚があった。
便箋をゆっくりと広げる。
祖母の字は細く、しかし迷いがなかった。
> 陽菜へ。おばあちゃんはね、いつも思っていたよ。あなたが書く言葉はすごく正直だって。うまい、下手じゃなくてね。ちゃんとあなたの形をしてるって。読んでもらうために書くんじゃないよ。書いたものが、あなた自身になるんだよ。あなたの書いた言葉で作られたものを、いつか読ませてほしい。楽しみにしてるからね。文子より
最後の一行で、陽菜の目に熱が集まった。
「楽しみにしてるからね」。
その言葉はもう、届かないかもしれない言葉になりつつあった。施設の人は「進みが少し早い」と言った。今の文子おばあちゃんは、陽菜のことがわからない日が増えている。楽しみにしてくれていた「陽菜」が、祖母の記憶の中で少しずつ輪郭を失っている。
声は出なかった。
ただ、涙が一粒、便箋の端に落ちた。
あわてて手のひらで拭う。祖母の字が滲んだら困ると思って、でもすでに遅かった。端の一文字が少しだけにじんでいた。陽菜はそれを指先で軽く押さえて、ゆっくりと息を吸った。
書いたものが、あなた自身になるんだよ。
そうだとしたら、今の自分は何者なのだろう。机の上には、何度書いてもそこで止まる原稿が置いてある。白い余白が多すぎる原稿用紙。あなた自身になるはずの言葉が、まだそこに存在していない。
その夜、陽菜は初めて自分から隣の部屋のドアをノックした。
マルヤマ荘の廊下はいつも少し埃っぽく、夜になると壁の染みが影を深くした。蒼の部屋の前に立って、陽菜は一度だけ深呼吸をした。
コン、コン。
数秒の沈黙のあと、ドアが内側から開いた。蒼が顔を出す。首にはいつものイヤホンがかかっていたが、それは肩に滑り落ちるようにして外されていた。
「……聞いてもらえますか」
陽菜は言った。それだけしか出てこなかった。続きの言葉が、どこかで詰まって出てこない。何を話したいのか、どこから話せばいいのか、頭の中で何かがもつれていた。
蒼は何も言わなかった。
ただドアを少し開けたまま、待っていた。急かすでもなく、困惑した顔をするでもなく、ただそこに立って、陽菜の言葉が来るのを待っていた。
「……入っていいですか」
「どうぞ」
蒼の部屋は、陽菜の部屋と同じ間取りのはずなのに、なぜか広く感じた。楽譜が積まれていたが整然としていて、五線紙の白さが夜の部屋の中で静かに光っていた。蒼は床に座り、陽菜も勧められるままに座った。
しばらく、沈黙があった。
「……祖母のことを、母から聞いて」と陽菜は言った。「認知症が、少し進みが早くなってるって」
声が、思ったより小さく出た。
「祖母はね、図書館の司書だった人で。私が最初に小説を書いたのも、その人に読んでもらいたかったからだと思う。中学のとき、手紙をもらって。その手紙に、書いたものを読ませてほしいって書いてあって」
言葉が少しずつほぐれていくような感覚があった。
「上京してから、原稿を書こうとしてるんですけど、書けなくて。何度書き始めても途中で止まって。その祖母の手紙のことがあるから、書きたいのに、書ける気がしなくて」
声がかすれた。喉の奥が熱くなっていた。
「今日、また読んで。楽しみにしてるからねって書いてあって。その言葉が、もう届かないかもしれなくて」
そこで言葉が途切れた。
陽菜は眼鏡のフレームに触れた。いつもの癖だった。蒼は何も言わなかった。口を開こうとする気配もなかった。ただそこにいた。陽菜の話が終わっていないことを知っているように、あるいは終わっていてもいいことを知っているように。
「……でも、書けない自分が、一番、怖いのかもしれないです」
陽菜はそう言って、息を吐いた。
部屋の外で、風が廊下を通り抜けていく音がした。マルヤマ荘の古い壁が、かすかにきしんだ。
長い沈黙のあと、蒼がゆっくりと口を開いた。
「その手紙、原稿に入れなくていいと思う」
陽菜は顔を上げた。
「入れる、というのは——」
「お守りにしようとしてるんじゃないかって」蒼は静かに続けた。「完成させるために、手紙の言葉を借りようとしてるんじゃないかって、今の話を聞いてそう思った。でも、あなたが書いた言葉で書けばいい」
陽菜は、すぐには受け取れなかった。
何かが引っかかっていた。手紙の言葉を借りることの何が悪いのかと、反射的に思った。あの手紙があったから書きたいと思ったのに。あの手紙を届けたくて書こうとしているのに。
「手紙の意味は、あなたの中にもう入ってる」
蒼の声は低く、穏やかだった。
「読み続けて、角が擦り切れるくらい持ち歩いて、今日また読んで。もうあなたの一部でしょ。わざわざ使わなくていい。もうそれはあなたの言葉になってるんだから、書いたものに自然に滲み出る」
陽菜はしばらく、蒼の言葉を咀嚼していた。
書いたものが、あなた自身になるんだよ、と祖母は書いた。そして蒼は今、手紙の意味はもうあなたの中に入っていると言った。二つの声がどこかで重なって、陽菜の胸の中に落ちていった。
すぐに「わかった」とは言えなかった。
それでも、何かが少しだけほどけた気がした。
「……ありがとう」
帰り際、陽菜はそれだけ言った。今度は「ありがとう」が何への礼なのか、わかっていた。聞いてくれたことへの礼だった。最後まで口を挟まずにいてくれたことへの礼だった。そして、答えを持っていないのに一緒にそこにいてくれたことへの礼だった。
「おやすみ」と蒼が言った。
廊下に出ると、夜の冷気が頬を撫でた。
自分の部屋に戻った陽菜は、机の前に座って、桐の引き出しに手紙をそっとしまった。折り目が白くなった便箋を、いつもどおりに折りたたんで、封筒に戻した。
それから、ノートを開いた。
まだ書けるかどうかはわからない。祖母がいつ自分のことをわからなくなるかもわからない。間に合うかどうかも、誰にも約束できない。
それでも、と陽菜は思った。
書く、と思った。
ペンを持つ手は、かすかに震えていた。それでもペンの先をノートの白い紙に当てて、陽菜は一文字目を書き始めた。




