第六章「カフカと、もう一冊の書き込み」
気づいたのは、深夜の二時をまわったころだった。
陽菜はノートパソコンを閉じ、気分転換のつもりで本棚から一冊を引き抜いた。カフカの『変身』——第二章の帰りに神保町で見つけた、背表紙のすこし褪せた文庫本だ。古書店の棚の隅で埃をかぶっていたのを、ほかでもない書き込みの多さに惹かれて買った。百円だった。
ページをめくるたびに鉛筆の文字が目に入る。余白に書かれた短い言葉たち。「これは音だ」「母親の声に似ている」「正確な孤独」。改めて眺めていると、その字のかたちに、どこかで会ったような感覚を覚えた。
陽菜は本棚に手を伸ばし、もう一冊を取り出す。梶井基次郎の『檸檬』——これも古書だ。マルヤマ荘に越してきてまもなく、蒼に借りた本。いや、正確には蒼が「どうぞ」と差し出して、そのまま手元に残ることになった本。
二冊を並べて、余白の書き込みを見比べた。
眼鏡のフレームにそっと指をかける。
字の傾き。句読点の打ち方。「だ」と「で」の語尾のはね方。どちらも、感情が先走ったように勢いよく書かれていながら、文字そのものは几帳面に小さく収まっている。
同じ人間が書いた。
陽菜の中で、静かに確信が固まった。
翌週の木曜日、廊下で蒼と鉢合わせた。
蒼は出かける支度の途中らしく、リュックサックを片方の肩だけにかけ、首にはいつものイヤホンがかかっていた。陽菜の顔を見ると、「おう」と短く言って足を止める。
「……変な質問かもしれないんですけど」
陽菜は自分で切り出しておきながら、一瞬だけ躊躇した。「変な」という前置きは本当は保険だ。違ったときのための。
蒼はイヤホンを首からはずして手に持った。「どうぞ」
「カフカの、『変身』。古書で買ったんですけど、書き込みが、その——蒼さんが貸してくれた『檸檬』の書き込みと、筆跡が似てて」
言い終わる前に、蒼の表情がすこしだけ緩んだ。驚きというより、懐かしさに近い顔だった。
「ああ、それも売った。高3のとき」
あっさりとした口調だった。陽菜が思っていたよりずっと、何でもないことのように。
「……両方、売ったんですか」
「『檸檬』と、カフカと、あと何冊か。ひとつの古書店に持ち込んだから、同じ棚に並んだのかも」
陽菜は神保町の、あの薄暗い棚の前を思い浮かべた。隣り合う背表紙。見知らぬ誰かが読んでいたかもしれない言葉。
「なんで、売ったんですか」
問いながら、少し踏み込みすぎたかとも思った。しかし蒼は気分を害した様子もなく、ただ一度だけ視線を窓の外に向けた。廊下の小窓から、曇り空が見える。
それから、しばらく黙っていた。
陽菜は急かさなかった。
「母親が、全部捨てろって言ったから」
蒼の声は淡々としていた。
「音楽に関係ないものは要らないって。だから大事な本だけ選んで、売りに出した。捨てるより、売ったほうが——誰かが読んでくれる気がして」
陽菜は黙って聞いていた。言葉が喉のあたりで動いているのを感じながら、もう少し待った。
「捨てるんじゃなくて、売ったんですね」
蒼は一瞬きょとんとして、それから苦笑いした。
「なんかそういうとこ、よく見てるな」
「……すみません」
「いや、責めてない」
廊下に静けさが戻る。どこかで換気扇の回る音がする。マルヤマ荘の壁は薄く、生活音がよく通る。
「お母さんは、音楽の方が専門なんですか」
「ピアノ教師。俺に音楽を叩き込んだのも母親。で、俺が作曲を選んだとき、あなたには才能がないって言ったのも母親」
事実の羅列のような口調だった。しかし陽菜の耳には、その平らな声の底に、何か固いものが沈んでいるように聞こえた。傷というより、傷跡。すでに時間が経って、表面だけはなめらかになったもの。
「それでも続けたんですね、作曲」
「続けるしかなかった。やめる理由として採用したくなかったから」
陽菜は蒼の横顔を見た。窓の光が蒼の指先に落ちていて、鉛筆のインクの染みがまだそこにある。書き続けている人の手だ、と思った。
「私も」
気づいたら声が出ていた。
「書くことについて、父に……」
そこで言葉が止まった。
「言葉では食べていけない」という父の声が、ふいに耳の奥に戻ってくる。台所のにおい、高校三年の秋の夕方、進路希望用紙を挟んで向き合った食卓。父の顔は怒っているのではなかった。ただ、心配していた。それがわかるから、余計に言葉が出ない。
蒼は待った。続きを促さなかった。ただそこにいて、陽菜が止まったまま黙っていても、何も言わなかった。
しばらくして、陽菜は「……すみません、うまく言えなくて」とだけ言った。
「言えなくていい」と蒼は言った。責める調子はどこにもなかった。「全部言葉にしなくていいときもある」
文学部に来て初めて、それを言ってくれる人に会った気がした。
陽菜は眼鏡のフレームを指先でそっと押し上げた。
「でも一冊だけ、手元に残してある」
蒼が唐突に言った。
「本。楽譜の本で——祖父に借りたまま、返せなかったやつ。返しに行けなくなったから、今も持ってる」
「返しに行けなくなった」
陽菜は繰り返した。その言葉の奥に何があるのか、問いかけることはしなかった。できなかった、というより、今はまだそこに踏み込む言葉を持っていなかった。ただその言葉が、重いものを静かに含んでいることだけは、わかった。
蒼はリュックサックを両肩にかけ直した。「じゃあ、授業行ってくる」
「あ、はい。いってらっしゃい」
廊下に残された陽菜は、しばらくそこに立ったまま、窓の外の曇り空を眺めた。
部屋に戻り、パソコンを開く。
原稿のファイル。タイトルはまだない。第三章、十七ページ目のところで、カーソルが止まっている。
祖母が父と話す場面だ。
陽菜が書いた小説の中では、祖母の名前を「芳江」にした。父親の名前は変えなかった。いや、正確には変えようとして、どの名前も父の顔を持ってしまうので、結局そのままにした。
芳江が息子に言う言葉。息子が芳江に言えない言葉。その間にある空白を、陽菜はずっと埋められずにいた。
自分は何を書こうとしているのだろう。
届けたい人がいる。祖母に届けたい。でも届かないかもしれない。認知症が進む祖母が、この文章を読んだとき、陽菜のことを陽菜だと認識できるかどうか、もうわからない。
「返しに行けなくなったから、持ってる」
蒼の言葉がまた浮かんだ。
持っていること。それ自体が、何かの答えなのかもしれない——と思いかけて、陽菜は首を振った。まだそこまで辿り着けていない。
ただ、第三章の止まったページを見つめながら、陽菜はカーソルをそこに置いた。
書けないまま、ページを閉じない。
今日はそれだけでいい。そう思って、陽菜は深夜のコンビニコーヒーを一口飲んだ。冷えかけた苦みが、のどをゆっくりと降りていく。




