第五章「古書店と、鉛筆の声」
四月が終わりかけていた。
東京の春は、陽菜が想像していたよりずっと忙しない。花びらが散るよりも早く次の出来事が来て、感傷を抱く暇もなく日々が積み重なっていく。入学から一ヶ月。陽菜はまだ、この街の呼吸のリズムを摑みかねていた。
さくらから文芸サークルの話を最初に聞いたのは、入学式の翌週のことだった。以来、陽菜は三度断り、四度目の誘いでようやく首を縦に振った。断りきれなかったというより、断り続けることの消耗に負けた、というのが正確なところだ。「じゃあ次の批評会から来てね」とさくらは言い、それ以上何も押し付けてこなかった。その潔さが、かえって陽菜の罪悪感を軽くした。
文芸サークル「言葉の雨宿り」の批評会は、大学の多目的室の一角を借りて行われていた。木曜の夕方、窓の外にはまだ白っぽい光が残っていて、室内の蛍光灯とぶつかりあって妙に平板な明るさになっている。折り畳み机を四つ繋げたテーブルを囲んで、六人のメンバーが座っていた。
「持ち寄り批評会」というのはそのままの意味で、各自が自作の原稿を持参し、互いに読んで意見を言い合う場だった。初参加の陽菜に対して、先輩にあたる部員の一人——三年生で短髪の、田中と名乗った男性——が「初回は批評する側に回るだけでいいよ」と言ってくれた。原稿を持ってこなかった陽菜にとって、それは救いだった。
その日持ち寄られたのは、散文詩一篇と、短編小説の書きかけが二本。
散文詩を読んで、陽菜はしばらく黙っていた。良い、とは思う。ただ、どこが良いのかを言葉にするのに時間が要る。その時間を周囲は待ってくれた。
「……たぶん、だけど」と陽菜は前置きした。「この詩、後半になるにつれて句点の間隔が広くなっていますよね。それが読む速度を落として、最後の行を受け取るときの余白になってると思って。意識してやってたなら、すごく効いてます」
短い沈黙があった。
「えっ、そこ気づいた人初めてだわ」と書いた本人——さくらの友人という触れ込みの二年生が言って、少し目を丸くした。田中先輩が「陽菜さん、批評の言葉が丁寧だね」とメモを取りながら言った。「ありがとうございます」と陽菜は答えた。
その瞬間、喉の奥でひりっとした。
自分は丁寧だと言われた。でも今日この場に、自分の書いたものは一行たりとも存在していない。批評する言葉は持っていても、批評される原稿がない。それは親切な観客が舞台に上がれないまま幕裏に立っているようなことで、いつかは上がらなければならないと分かっていても、その「いつか」が来るたびに「今日ではない」と言い続けてきた。
批評会が終わったあと、さくらが「来てくれてありがとう」と言った。「また来てね」とも。
「うん」と陽菜は答えた。うん、と言えたことだけが、その夜の小さな収穫だった。
木曜から二日が過ぎた土曜の昼下がり、陽菜は廊下で蒼とすれ違った。
マルヤマ荘の廊下は狭い。外廊下に面した窓から午後の陽が差し込んでいて、蒼の首元のイヤホンが光を拾って白く光った。音楽大学の帰りらしく、肩にトートバッグを斜めにかけていた。すれ違いざまに会釈をして、陽菜は自室の前で立ち止まった。
「あの」
声に出してから、自分が何を言おうとしているのか分からなくなった。蒼が振り返る。首のイヤホンを、迷いなく外した。
「……これ、だけど」
陽菜はトートバッグの中から文庫本を取り出した。梶井基次郎の『檸檬』。コンビニで買ったあの日から、ずっとバッグの底に入れていた本だ。
渡したかったわけではなかった。返したかったわけでも、おそらくなかった。ただ、あの書き込みのことを言葉にしたかっただけなのかもしれない。でもどう切り出せばいいか分からないまま、本を差し出すという行為だけが先に出てしまった。
蒼は受け取った。表紙を見て、それからページを開いた。カフカについての書き込みがある、あのページを。
一秒、二秒。
蒼の表情が変わった。
目が細くなって、それから少しだけ開いた。唇が動いたが、すぐには言葉が出てこなかった。陽菜は息を詰めて待った。
「……これ」と蒼は言った。「俺が書いたやつだ」
「え、」
「高校のとき古書店に売った。この本」
陽菜の頭の中で、何かがゆっくりと繋がった。コンビニの棚で見つけた一冊。古書が混じっていた棚。それがどこかの古書店から流れてきたもので——そしてそれが、隣の部屋に住む人間の手書きの言葉を宿していた。
「あなたが書き込んでいた言葉を、ずっと読んでた」と陽菜は言った。
蒼がこちらを見た。
「どんなこと書いてた?」
少し戸惑ったような、でも真剣な問い方だった。訊かずにはいられなかったのだろう、と陽菜には分かった。自分が過去に書いたものを他者が読んでいたという事実は、受け取り方によっては怖い。
「『言葉にできないものを抱えたまま、カフカは生きていたんだろうか』って」
陽菜は暗記していた。何度も読んでいたから、読まなくても言葉が出てくる。
蒼は一拍置いてから、小さく笑った。
「高校生っぽいな」
からかうような言い方ではなかった。どちらかというと、昔の自分を懐かしむような声音だった。けれど、笑いながらも目だけが真剣だった。本のページを見つめたまま、蒼は何かを考えているようだった。
陽菜は黙ってそれを見ていた。廊下に午後の光が満ちていて、どこか遠くで自転車のベルが鳴った。
「……返さなくていい」と蒼はやがて言った。文庫本を陽菜の方に向けて差し戻しながら。「ずっと持ってたんなら、あなたの本でしょ」
「でも」
「俺はもう、書き込んだことも覚えてなかった」
その言葉は、柔らかかったが、どこか寂しかった。言葉というものは書いた本人の手を離れた瞬間から、もう書いた人のものではない。そんな当たり前のことを、陽菜はその一言で改めて感じた。
「ありがとうございます」と陽菜は言って、文庫本を受け取った。
その夜、マルヤマ荘の部屋は静かだった。
隣から音は聞こえない。窓の外、遠くで救急車のサイレンが通り過ぎ、それも消えると、部屋は水の底みたいな静けさに沈んだ。
陽菜は机の前に座って、文庫本を開いていた。カフカについての書き込み。鉛筆の跡は、今も変わらずそこにある。
書いたものは、知らないところで誰かに届く。
それがこんなに具体的な形で起きるとは思わなかった。コンビニの棚の一冊が、隣人の十代の言葉を運んでいた。書き込みを残した本人はその言葉を忘れていても、言葉はページの中で生きていた。陽菜が何度も繰り返し読む言葉として。
伝わらないかもしれない、と思い続けてきた。
でも、伝わらないものは、伝わらないまま誰かの手の中で生き続けることもある。
陽菜は引き出しからノートを取り出した。ずっと使えずにいた、無地の方眼紙のノート。一ページ目を開いて、ペンを持った。
インクが出るか確かめるように細い線を引いて、それから陽菜はゆっくりと書いた。
「第一章」
それだけ書いて、少しの間そのふた文字を見つめた。眼鏡のフレームにそっと触れる。指先が微かに震えていた。
書いたところで、届くかどうかは分からない。
でも書かなければ、届きようがない。
あの書き込みの言葉のように、言葉は書かれたときにしか生まれない。書かれることなく頭の中に溜まり続けるものは、いつか自分と一緒に消えるだけだ。蒼が自分の言葉を忘れていても、言葉だけはページの中で生きていた。それが証拠だ。
陽菜はペンを走らせた。
最初の一文が出てきた。消すか迷って、消さなかった。次の文が続いた。また出てきた言葉を、今度は迷わず書いた。
雨が降り始めた音が窓の外でして、それがむしろ静けさを深くした。陽菜は顔を上げずに書き続けた。ペンがノートをこする音と、雨音だけが部屋に満ちていた。
どこまで書けるか分からなかった。完成するかも分からなかった。文学賞の締め切りにも、祖母の記憶の残り時間にも、陽菜はまだ間に合っているのかどうかさえ知らない。
ただ、今夜だけは、ペンが止まらなかった。
それで、十分だと思った。




