第四章「200字の、小さな確信」
最初に書けたのは、たった二百字だった。
四月の終わりか、もしかすると五月の頭だったかもしれない——どちらにせよ、東京に来て一ヶ月ほどが経った夜のことだ。陽菜は机の前に座り、ノートを開いて、そこに二百字を書いた。書き切ったというより、ふと手が動いて、気がついたら二百字に達していたというほうが正確だ。それまでの夜とは何かが違っていた。書きかけで止まっていた言葉が、ほんの少しだけ流れ出した。
二百字。
文庫本にすれば、ほとんど何も書いていないに等しい。だが陽菜にとってそれは、長いあいだ固く閉じていた蛇口から、はじめて水の気配を感じた瞬間に近かった。
翌日も書いた。三百字になった。
その翌日は書けなかった。机の前に一時間座って、ペンを握ったまま、窓の外の曇り空をただ見ていた。翌々日は二百五十字。週末には五百字を超えた日もあった。
少しずつ、原稿が積み上がっていった。
ノートに手書きで書き溜めているのは、誰にも見せないための形式だったかもしれない。データとして存在しなければ、誰かに読まれることもない。修正した跡も、削った痕も、ぜんぶが残る手書きの紙面は、むしろ陽菜の不完全さを可視化するもののはずなのに、それでも画面の前に座るよりずっと書きやすかった。ペン先が紙に触れる微かな摩擦が、思考を言葉に変える速度に追いついていた。
書き続けるほどに「これでいいのか」という問いが、内側で大きくなっていった。
それは不思議な感覚だった。書けなかった頃には「いつか書けるようになれば」とだけ思っていたのに、いざ書き始めると、書いた文字の数だけ不安の根が深くなる。この描写は正確か。この言い回しは本当に自分の感じたことを伝えているか。そもそも自分に、この話を書く資格があるのか。問いは連鎖し、答えが出ないまま、それでもペンは動いた。不安と前進が、不思議な形で同居していた。
誰にも見せていない。
文芸サークルの批評会で他の人の原稿には赤を入れたし、批評の言葉を受け取ることが以前よりは怖くなくなっていた。なのに、自分の書いたものだけは、まだ誰の前にも出せなかった。ノートは二冊目に入っていた。その重みだけが、書いている証拠だった。
父から電話がかかってきたのは、雨の降る夕方だった。
着信表示の「瀬川克己」という文字を見て、陽菜は少しだけ間を置いてから、画面に指を滑らせた。電話が苦手だった。顔が見えない。表情が読めない。声の奥にある感情が、どうしても正確に掴めない気がする。それが相手の父であっても変わらなかった。むしろ父であるぶん、余計に身構えるものがあった。
「米、送った」
開口一番そう言われて、陽菜は「うん、ありがとう」と返した。父の声は、電話越しに聞いてもいつもと同じだった。波の音を毎日聞いて暮らしている人間の声だ、と陽菜は根拠もなく思っている。海沿いの港町で、寡黙に漁師として生きている父の声。
「金、足りてるか」
「うん、足りてる」
短い沈黙。
「勉強、してるか」
「してる」
それだけで、電話は終わった。
陽菜は通話が切れたスマートフォンを、しばらく手の中で握り続けた。窓の外では雨が細く降っていて、アパートの雨樋を流れる水の音が部屋の中まで聞こえた。
頭の中を、声が流れた。
——言葉では食べていけない。
高校三年のとき、進路の話をしている最中に父が言った言葉だった。怒鳴ったわけではない。声を荒げたわけでもない。ただ静かに、当たり前のことを確認するような口調で、そう言っただけだった。だからこそ、陽菜の中に深く刺さって、今でも抜けないまま残っている。
書いていることを、言えなかった。
そう気づいたのは、電話を切って数分後のことだった。ノートが机の上に開いたままで、今日書いた三百字ほどの文章が、視界の端に映っていた。「勉強、してるか」「してる」——その問答の中に、本当のことを一つも言わなかった。文学部の授業の話も、文芸サークルの話も、毎晩ノートに向かっていることも、祖母のことを書こうとしていることも、何も。
言えるはずがなかった、という諦めと、言えばよかった、という悔いが、同時に陽菜の中にあった。どちらが本当かわからなかった。たぶん両方が、本当だった。
窓に当たる雨粒を数えながら、陽菜はしばらくそのままでいた。
洗濯物を抱えて共用の洗濯機置き場に向かったのは、夕方の六時を少し回った頃だった。
一階の奥、廊下を右に折れたところにある小さな空間に、洗濯機が二台並んでいる。年季の入った機械で、回り始めると独特のリズムで振動し、ガタガタという音が廊下の端まで響く。陽菜はいつもこの音が嫌いではなかった。何かが確実に進んでいる音に聞こえるから、かもしれない。
洗濯機置き場のドアを押し開けると、先客がいた。
東條蒼が、洗濯物の仕分けをしながら、首にかけたイヤホンを外してポケットに入れるところだった。陽菜の気配を感じて振り向き、目が合って、わずかに表情が和らいだ。
「あ」と陽菜が言った。
「どうも」と蒼が言った。
二人は少し前に、廊下で一度だけ言葉を交わしていた。雨の日に蒼が傘を持っていなくて、陽菜が一本渡したことがあった。それだけの関係だったが、記憶には残っていた。
「この前の雨の日——ちゃんとお礼が言えていなかったので」
蒼が、洗濯物を洗濯機に入れながら言った。唐突ではなかった。どこかで言おうと思っていたものを、ここで言えた、という感じの口調だった。
「いえ」と陽菜は言った。「私も雨、好きだったので」
自分でも少し妙な言い方だと思ったが、嘘でもなかった。雨の日に見知らぬ誰かに傘を渡す理由として、それは自分の中ではちゃんと意味を成していた。
蒼が振り返って、陽菜を見た。
「変わった人だ」
批判ではなかった。馬鹿にした色もなかった。ただ穏やかに、そう述べた。どちらかといえば、感心するような調子だった。
陽菜は自分の頬が少し温かくなるのを感じた。眼鏡のフレームに指が伸びかけたが、洗濯物の袋を両手で持っていたので、触れなかった。
洗濯機に衣類を入れ、硬貨を投入すると、ガタガタという回転音が始まった。二台並んだ洗濯機が同じリズムで回り始め、小さな空間がその音で満ちた。蒼は壁に背中を預けて立ち、腕を組んで洗濯機の丸い窓を見ていた。陽菜も同じように、自分の洗濯機の前に立った。
なぜかその場を離れにくかった。洗濯が終わるまで待つ理由も特になかったが、二人とも動かなかった。回転音が部屋を満たし続けていた。
「書いてる小説、どんな話?」
蒼が言った。突然ではあったが、不自然ではなかった。部屋に音があって、視線が正面を向いていて、だから話しやすかったのかもしれない。
陽菜は少し考えた。いつもなら「……たぶん、だけど」と前置きしてから言葉を出すところだが、今日は少し違った。
「祖母についての話を、書こうとしています」
声に出してみると、それは自分が思っていた以上に確かなことだった。
「でも何度書いても、祖母の本当のことにならなくて」
それも本当だった。書くたびに、文字の中の文子が少しずつ平たくなっていく気がした。実際の祖母はもっと複雑で、もっと矛盾を抱えていて、もっと何かを隠しながら生きていた人のはずなのに、陽菜の文章の中に現れる文子は、いつも少し綺麗すぎた。
「一通の手紙があって」と陽菜は続けた。「それがどうしても、原稿に入れられない」
中学二年のとき、祖母が書いてくれた手紙のことだった。封筒の角が擦り切れるほど繰り返し読んできた、あの手紙。言葉への向き合い方を変えたと思っている、あの一通。それを原稿の中に置こうとするたびに、何か取り返しのつかないことをする気がして、手が止まった。
蒼はしばらく黙って、洗濯機の回転を見ていた。
それから「音楽も同じ」と言った。
「頭の中の音と、譜面に書いた音が、全然別物になる」
声に困惑はなかった。陽菜の言葉に同意しているというよりも、同じ地形を別の道から歩いてきた人間の、静かな確認のような言い方だった。
「書いても書いても、自分が最初に聴いた音にならない。でも書かないと、その音は消える」
洗濯機が一段階、回転の速度を上げた。水が内側で揺れる音がした。
陽菜は黙って、その言葉を聞いていた。
書かないと、消える。
頭の中に浮かんだままになっているものは、やがて形を変えるか、薄れるか、別の何かに置き換えられてしまう。それが言葉であっても音であっても、たぶん同じことだった。だから書く。届かないかもしれなくても、本当のことにならないかもしれなくても、書かないよりは書いたほうがいい——そういうことを、蒼は遠回しに言っているのかもしれなかったし、そうでないのかもしれなかった。
「ありがとうございます」と陽菜は言った。
蒼は軽く首を振った。「俺もそのほうが、すっきりした」
洗濯機の回転音の中に、二人の沈黙が馴染んでいった。嫌な沈黙ではなかった。むしろ言葉が終わったあとの、静けさの余白のようなものだった。
部屋に戻って、洗い終わった洗濯物を干してから、陽菜はノートを開いた。
書くことを他人と話した最初の夜だった。
祖母についての話を書いていること。本当のことにならないこと。手紙が原稿に入れられないこと。そして蒼の言葉——頭の中の音と、譜面に書いた音が、全然別物になる。書かないと、その音は消える。
できるだけ正確に、会話の輪郭を書き留めた。感想は書かなかった。ただそこにあったことを、なるべくそのまま。
ペンを置いて、書いたものを読み返した。
二人分の言葉がノートの上にあった。自分の言葉と、他人の言葉が、初めて同じ紙面に並んでいた。
陽菜は眼鏡のフレームに静かに指を当てた。
「これでいいのか」という問いは、まだ消えていなかった。消えるものではないと、もうわかっていた。それでもノートは確かに重くなっていて、今夜もまた、どこかへ向かっている気がした。




