第三章「壁の向こうの不協和音」
雨が降り出したのは、十一時を過ぎた頃だった。
陽菜はノートを開いたまま、ペンを持ったまま、窓の外が暗く濡れていくのをただ眺めていた。書きたいことはある。いや、正確には、書きたいという感覚の輪郭だけはある。中身はない。霧を掴もうとするような、そういう夜だった。
ノートの上には、書きかけの一文が残っている。
〈祖母の手は、いつも——〉
そこで止まっている。三日前から、そこで止まっている。
部屋に雨音が染み込んでくる。マルヤマ荘の窓枠は古く、サッシの隙間から湿った空気が忍び込んでくるのか、雨の夜はいつも部屋全体がほんのり湿気を帯びる。陽菜はペンのキャップを外し、また嵌め、また外した。眼鏡のフレームに指先を触れさせ、深呼吸をした。
その時だった。
「——すみません、ちょっといいですか」
ドア越しに、声がした。
陽菜はペンを置いた。低く、落ち着いているが、どこか申し訳なさそうな声だった。聞き覚えがあった。隣室の人だ、と思った。廊下ですれ違ったことが二度か三度あって、そのたびに軽く会釈するだけだった、あの人。
ドアを開けると、廊下の蛍光灯の薄明かりの中に、長身の男が立っていた。首にイヤホンをかけているが、今は耳には当てていない。手には何も持っていない。表情は困惑と苦笑の中間くらいだった。
「鍵、中に置いてきてしまって」
一瞬、意味を飲み込むのに少し時間がかかった。
「……締め出された、ということですか」
「そういうことです、はい」
男は東條蒼、と名乗った。隣の201号室に住んでいる、音楽大学の四年生だと言った。楽譜を抱えてゴミを捨てに出て、そのままドアが閉まったらしい。
「管理人さんの緊急連絡先、調べてみます」
陽菜はスマートフォンを取り出した。入居時に渡された書類を写真に撮っていた。几帳面な性格が、こういう時に役に立つ。番号を見つけて電話すると、三度目のコールで眠そうな管理人の声が繋がった。事情を説明すると、「二十分くらいかかるけど行くよ」という返事が来た。
「ありがとうございます、助かりました」と蒼が言った。本当に申し訳なさそうな声だった。
「大丈夫です」と陽菜は返した。「待つ場所、下でいいですか。部屋、散らかってて」
本当は散らかっているわけではなく、開いたままのノートを見られたくなかった。〈祖母の手は、いつも——〉の一行が、見知らぬ人の目に触れることを、なぜか耐えがたく思った。
アパートの一階、エントランスに並んで立つと、入口の庇の縁まで雨粒が跳ねてきた。外は本格的な雨になっていた。街灯が濡れたアスファルトに滲んで、橙色の光が水面の上で揺れている。
二人はしばらく黙って、雨を眺めた。
沈黙は、陽菜にとってそれほど苦ではなかった。言葉を急かされない沈黙というのが世の中にはあって、今のはそれに近かった。雨音が隙間を埋めてくれているせいかもしれない。
「何してたんですか、こんな時間に」
蒼が聞いた。こちらを見ずに、雨を見たまま。
陽菜は一瞬躊躇った。「……書いてました」と言った。「小説を」
言ってしまった、と思った。声に出してしまうと、それは現実になる。書いていた、という事実だけでなく、書いているのに書けていない、という事実まで、言葉にしてしまったような気がした。
「書けてた?」
蒼の問いは、予想外に真っ直ぐだった。飾りがなかった。批評でも興味本位でもなく、ただ状態を確認するような聞き方だった。
「……全然」
正直に返していた。不思議なことに、嘘をつく気が起きなかった。雨音のせいかもしれない。深夜のせいかもしれない。あるいは、この人が「書けてた?」と聞く声の質のせいかもしれない。
「俺も」と蒼は言った。「曲が書けなくて、出てきた」
陽菜は少し驚いて、横を見た。蒼はまだ外を向いていた。街灯の光が頬の線を薄く照らしている。指先に、鉛筆の灰色がうっすらと残っているのが見えた。
「書けないもの同士ですね」
陽菜がそう言うと、蒼は少し笑った気がした。「そうですね」と言った。それだけだった。
雨の音が続く。管理人が来るまで、まだ時間がある。それでも二人は特に多くを語り合わなかった。書けない苦しさを詳しく説明したわけでも、励まし合ったわけでも、慰めたわけでもなかった。ただ、雨音の下で「書けない」という言葉を並べて置いただけだった。
それだけの夜だった。
それだけで、なぜか少し、息がしやすくなった気がした。
管理人のおじさんがやってきたのは、それから二十分ほど後だった。スペアキーを開けてもらい、蒼は「ご迷惑おかけしました」と頭を下げた。陽菜にも「本当に助かりました、ありがとう」と言った。
「おやすみなさい」と陽菜は返した。
蒼が201号室に入る直前、廊下の灯りの角度が変わって、蒼の手の中にあった楽譜の表紙が一瞬だけ視界に入った。
〈祖父へ〉
手書きの文字だった。それだけが、ぱっと見えて、消えた。
陽菜は何も聞かなかった。扉が閉まって、廊下がまた静かになった。自室に戻り、ドアを閉めて、ノートを眺めた。〈祖母の手は、いつも——〉の続きは、まだ来なかった。でも今夜はそれでいいと思った。ペンのキャップを閉めて、陽菜は布団に入った。
翌朝、晴れていた。
さくらからメッセージが来たのは、午後になってからだった。
〈今日、言葉の雨宿り、見学だけでもどう? 批評会だから、雰囲気わかるよ〉
文芸サークル「言葉の雨宿り」のことは、先週の大学の廊下でさくらから聞いていた。定期的に集まって、自作の小説や詩を持ち寄って批評し合うのだという。聞いた時に「いいかも」と思い、「でも」と思い、返事を濁したまま一週間が過ぎていた。
陽菜は少し考えてから、〈行きます〉と返信した。
集まりは、大学のキャンパス内の小さなセミナー室で行われた。参加者は七人。陽菜はさくらの隣に座り、「見学の子」として紹介された。
批評会は、一人ずつ自作を読み上げるところから始まった。
最初に読んだのは、眼鏡をかけた男子学生で、短編小説の冒頭三枚だった。読む声が少し震えていた。自分で書いたものを声に出して、他人の前で読む。その行為の重さが、陽菜には痛いほどわかった。
批評が始まると、声が重なった。「文体が整いすぎていて感情が入ってこない」「この比喩は面白い」「主人公の動機が弱い気がする」「でも冒頭の一文は好き」——称賛と指摘が、ほぼ同じ温度で混在した。読んだ男子学生は頷いたり、メモを取ったり、時々困った顔をした。でも崩れなかった。
陽菜はその間、ずっと喉の辺りに何かが詰まったような感覚を持っていた。
私の書いたものがここで読まれたら。
その想像は、恐怖だった。確かに恐怖だった。書いた言葉を声に出されて、それが批評される。傷つくかもしれない。的外れな読まれ方をするかもしれない。あるいは——届かないかもしれない。
でも同時に、それはどうしようもなく、憧れだった。
読まれること。声を持つこと。誰かの耳に、自分の書いた言葉が触れること。
恐怖と憧れが、胸の中で同じ重さで揺れていた。
この日は見学だけで終わった。「入る?」とさくらが聞いてきた時、「……もう少し考えます」と陽菜は答えた。さくらは「そっか」と言って、それ以上は押さなかった。
夜、部屋に戻ってから、陽菜はノートを開いた。
昨夜から続いていた〈祖母の手は、いつも——〉の先が、まだそこにある。
陽菜はペンを取った。眼鏡のフレームに触れて、深呼吸をした。そして、書き始めた。
批評会で読み上げる声が、まだ耳の奥に残っていた。震えながら、それでも声に出した人の顔が。傷つくかもしれなくても、届かないかもしれなくても、それでも読み上げた声が。
ペンが動いた。
〈祖母の手は、いつも少し乾いていた。冬も夏も、乾いていて、でも温かかった。その手で頭を撫でられると、本の紙の匂いがした。司書の手は、紙の匂いがするのだと子どもの頃に思った。今も思っている。あの手の感触を、私はまだ完全には言葉にできていない。でも、いつかしなければならないと思っている。〉
書いてから数えると、二百字に満たなかった。二百字足らずの、小さな断片。でもこれは、今まで陽菜が書いてきたどの文章とも少し違っていた。
消したくなかった。
ノートを閉じずに、しばらくそのまま眺めた。文章が、そこにあった。原稿と呼ぶには短すぎる。でも陽菜は、心の中でひそかにそう呼んだ。
原稿だ、と思った。
初めて、そう思えた。
窓の外は、昨夜の雨が嘘のように静かだった。どこかで水溜まりに風が触れているのか、かすかに水音がした。陽菜はもう一度ノートを開いて、もう少しだけ続きを書こうとした。
そして——また、止まった。
でも今日の止まり方は、昨日とは少しだけ違う気がした。霧の中に、一本だけ細い道が見えた。まだ踏み出せていないが、道があることだけは、わかった。
それで今日は、十分だった。




