第二章「文学部の教室で、私は最も小さい」
四月の半ばというのは、不思議な季節だと思う。
桜はとうに散って、木々がやわらかな若葉の緑をまとい始めたころ。大学の廊下にはまだ新入生の緊張の匂いが残っているのに、それよりも一歩先を歩いている二年生や三年生の顔つきには、すでに慣れた人間の余裕がにじんでいる。陽菜は入学から数週間、その「慣れた余裕」というものを持つことができないまま、講義棟の廊下をひとりで歩いていた。
日本文学演習Ⅰの教室は、三号館の四階にある。定員二十名ほどの小部屋で、長机が四角くコの字に並べられ、学生たちは互いの顔が見える形で座らされる。初回から名前を呼ばれて発言を促されるタイプの授業だと聞いていたから、陽菜は前日の夜から小さく身構えていた。
担当教員は五十代半ばの女性で、紺色のジャケットをきりりと着こなし、配ったレジュメを一枚もめくることなく話し続けるような人だった。授業の冒頭、彼女は「自己紹介を兼ねた小課題」として、こんな指示を出した。
「好きな作家とその理由を、二百字で書いてください。原稿用紙ではなく、手元のノートに。書いたら、隣の人と交換して読み合いましょう」
陽菜は迷わなかった。ペンを持った瞬間、指先が梶井基次郎と川上未映子の名前を書こうとしていた。
——梶井基次郎の文章には、壊れそうなほど研ぎ澄まされた感覚が宿っている。『檸檬』の主人公が爆弾に見立てたレモンを積み上げる場面を初めて読んだとき、自分の中の何かが震えた。川上未映子は、言葉が身体から直接はがれてくるような感触を持つ書き手だと思う。感情を「説明」するのではなく「出力」している。二人に共通しているのは、美しさと痛みが分かちがたく結びついていること。そういう言葉に、私はずっと惹かれてきた。
二百字ちょうど。陽菜はそっと文字数を数えてから、隣に座った女子学生とノートを交換した。相手の書いた名前は村上春樹だった。「独特の距離感があって、それが逆に共感しやすい」という内容が、丸みのある字でさらさらと書かれていた。
授業そのものは穏やかだった。教員は特定の誰かを責めるわけでもなく、各自が書いたものを踏まえて文学における「好み」と「読解」の関係について話した。陽菜は自分のノートが教員の目に留まった瞬間、「梶井と川上を一緒に挙げてくれた人がいますね」と言われて、血が少しだけ顔に上ってきた。褒めているのか観察しているのか判断がつかなかったが、教員は次の話題へとすぐに移った。
温度差に気づいたのは、授業が終わってからだった。
廊下に出ると、さっきまで教室で静かにしていた学生たちが急に饒舌になった。
「村上春樹って、やっぱりノルウェイ、好きなんだよね」
「又吉のエッセイ、最近また読み返してさ」
「芥川賞ってどこから読めばいいと思う? 全部は追えないし」
名前がポンポンと飛び交って、笑いが混じって、誰かの靴音に混じって廊下に溶けていく。陽菜は鞄を肩にかけ直しながら、その輪から少し離れた位置に立っていた。彼女たちの言葉は軽やかだった。軽やか、というのは批判ではない。鳥が木から木へ飛び移るような、自然な速度と重力の軽さがあった。話題が本のことであっても、会話は会話の速度で流れていく。
陽菜がさっき書いた二百字は、そういう速度で流れるものではなかった。書くのに時間がかかったし、書いた後も何度か読み直して、「川上未映子」の字が少し歪んでいることを気にした。そういう重さを持った言葉は、この場の空気の中では少しだけ浮いている気がした。
劣等感とは違う。陽菜はそれをきちんと確かめた。自分が正しくて彼女たちが間違っているとも、その逆だとも思わなかった。ただ、温度が違うのだ。どちらかが高くてどちらかが低いわけでもなく、単純に、測っている対象が違う。自分は自分の温度を持っている。それは確かなことだった。
ただ、その確かさというのは、慰めにもはずみにもなりにくいものでもあった。
「ねえ、さっきの梶井の話、すごく良かった」
声をかけられたのは、廊下の角を曲がりかけたときだった。
振り返ると、ショートカットの女子学生が立っていた。陽菜より少し背が低く、大きな布製のトートバッグを肩から斜めにかけている。表情に人懐こさがあって、初対面特有のよそよそしさをあまり感じさせない顔つきをしていた。
「川上未映子と一緒に挙げてたの、あなただよね。『出力している』って書き方、すごいなって思って。私、そこまで言語化できなかったから」
「……あ、はい。ありがとうございます」
陽菜は眼鏡のフレームにそっと触れた。細い金属の感触が指先に当たる。
「私、宮下さくら。同じ学科だよ。よく古書店とか行く? ちょっとそういう雰囲気があったから」
「……たまに。地元にいたときから好きで」
「そっか。あのね、唐突なんだけど」さくらは少しだけ前置きするように笑った。「文芸サークル、入ってたりする? 『言葉の雨宿り』っていうサークルなんだけど、自分の書いたものを持ち寄って読み合うやつで。人数が少ないんだけど、なかなか面白い集まりで」
陽菜の指先が、フレームをもう一度なぞった。
書いたものを持ち寄る。誰かに読まれる。その言葉の組み合わせが、喉の奥で小さく引っかかった。
「……たぶん、だけど」陽菜はゆっくりと言った。「考えてみます」
「うん、ぜひ。今すぐじゃなくていいよ。ラインでも教えてくれたら、活動日とか送るから」
さくらはあっさりとそう言って、また軽やかに廊下を歩いていった。陽菜はしばらくその場に立っていた。「考えてみます」というのは断り文句でも社交辞令でもなかった。本当に考えなければわからない、と思っていた。
大学から最寄り駅までの道の途中に、細い路地を一本入ったところに古書店がある。
看板には「文庫・学術書専門 ひなた書房」とあって、外から見ると棚が壁面を埋め尽くしているのが窓越しに確認できる。陽菜は入学後すぐにその店を見つけていたが、今日初めて扉を押した。
ベルの音がして、紙の匂いがした。古い紙と、少しだけ湿気を含んだ木の棚の匂い。陽菜は深く息を吸い込んでから、棚の間を歩き始めた。
外国文学のコーナーに差し掛かったとき、背表紙に見覚えのある文字が目に入った。
カフカ『変身』。
新潮文庫版の古い刷りで、カバーに少し焼けがある。取り出して開いてみると、最初の一ページから余白が埋まっていた。
鉛筆の書き込みだった。
几帳面な字で、しかし感情を堪え切れなかったように筆圧が強くなっている箇所がある。「なぜ?」という問いが、章の変わり目のたびに書かれている。「なぜグレゴールだけが?」「なぜ誰も驚かないのか?」「なぜこれで終わるのか?」感嘆符が何か所かに打たれていて、一か所だけ「信じられない」と、他の書き込みより少し大きな字で書いてある。
陽菜はそのまま立ったまま、しばらくページをめくり続けた。
この本を読んだ誰かが、ここで止まった。ここで怒った。ここで何かに気づいた。その痕跡が、鉛筆の線と問いの言葉になって残っている。誰かが必死にこのテキストと格闘した跡だった。
迷わなかった。
レジに持って行くと、二百二十円だった。消費税を足しても三百円を切る値段で、陽菜はその軽さが少し不思議な気がした。誰かの格闘の記録が、こんなに軽い値段で手元に来ることへの、かすかな違和感と、それを差し引いてもなお惹かれる気持ちと。
部屋に帰ったのは夕方の六時を少し過ぎた頃だった。
マルヤマ荘の廊下は夕暮れ時には橙色の光が差し込んで、少しだけ懐かしい色になる。自分の部屋の鍵を開けながら、陽菜は今日一日を軽く反芻した。演習の授業。廊下の会話の速度。さくらの声。そして古書の余白に並んだ「なぜ?」の繰り返し。
電気をつけ、鞄を下ろし、買ってきた『変身』をテーブルに置いた。
夕食を済ませてから、改めて本を開いた。書き込みを読むというのは、本文を読むとは少し違う行為だと思った。本文は著者の言葉だが、書き込みは読者の言葉だ。そこには著者と読者の間に起きたことが、圧縮されて残っている。「なぜ?」という問いを何度もここに残した人は、答えを求めていたのかもしれないし、ただ驚きを書き留めずにいられなかっただけかもしれない。どちらにしても、その人はここにいた。この本を手に持って、このページを開いて、何かを感じながら鉛筆を走らせた。
他人の言葉の痕跡の中に、生きていた人がいる。
陽菜はその感覚を、しばらく胸の中に置いていた。
ノートを引き出しから取り出した。ペンのキャップを外した。
書き始めた。
——誰かが必死に読んだ本を、私は今日手に入れた。その人の問いが余白に残っていて、私はその問いをなぞるように読んだ。伝わることと、残ることは、同じではないかもしれない。でも——
そこで止まった。
「でも」の後が来なかった。来ないのではなく、来てはいるのだが、それを書いた瞬間に何かが壊れそうな気がして、手が動かなかった。陽菜は数秒そのまま座っていて、それからペンのキャップを閉めた。ノートを閉じた。消すのではなく、ただ閉じた。閉じることと消すことは、同じではないから。
そのとき、壁の向こうから音が聞こえた。
ピアノの音だった。
数小節、静かに流れた。旋律というよりは、音の断片が順番に置かれていくような音楽だった。それが途中でふつりと止まって、しばらく沈黙が続いたと思ったら、また最初の音から弾き直される。同じ箇所で、また止まる。また最初から。
隣の部屋だ、と陽菜は思った。
壁一枚の向こうで、誰かが何かを作ろうとして、何度も同じ場所に戻っている。
陽菜はその音を聞きながら、自分が閉じたノートを見た。書きかけで止まった文章が、表紙の下に挟まっている。止まったのは自分だけではない、とは思わなかった。それは慰めにならない。ただ、繰り返し最初から弾き直す音が、暗い部屋の中でしばらく続いていた。




