結末「白紙は、終わりじゃない」
新しいノートを買った。
大学の最寄り駅そばの文具店で、何の変哲もない大学ノートを一冊。表紙は白。ほかに何も書かれていない。レジで受け取った瞬間、その軽さに少し驚いた。こんなに軽いのか、と思った。こんなに軽いのに、開くことがこんなにも重かったのか。
マルヤマ荘の六畳間に戻って、陽菜はそのノートを机の上に置いた。
窓の外では、夕暮れが東の空から滲み始めていた。夏の終わりの、湿度だけが残ったような夕方だった。部屋に差し込む光が床の木目を細長く照らしていた。陽菜はしばらくその光を見ていた。それから椅子を引いて、腰を下ろして、ノートに手を伸ばした。
表紙を、めくる。
白いページが、ひらいた。
原稿を施設に持っていったのは、三日前のことだった。
電車を乗り継いで二時間半。東京の熱気がじりじりと薄れていく窓の外を眺めながら、陽菜はトートバッグのなかの封筒を何度も確認した。A4サイズの白い封筒。中には四十二ページ。書いては削り、削っては書き直し、最後の一行を打った瞬間、指が震えていたことを覚えている。震えていたのは、完成したからではなく、これがまだ完成とは言えないという感覚が残っていたからだった。それでも陽菜は印刷して、封に入れた。不完全なまま前に進む。それが、自分の選んだ答えだった。
施設の面会室は、いつも空気がゆっくり動いていた。窓の外の庭に、白い槿の花が咲いていた。
「文子おばあちゃん」と陽菜が呼ぶと、祖母は顔を上げた。
瀬川文子の目は、かつて図書館の書架のあいだに射し込む光のように澄んでいた。今も、その澄みかたはどこかに残っていた。ただ、それが何を見ているのかが、以前とは違った。
「陽菜、来てくれたの」
その言葉が今日の祖母をどれくらい表しているかは、わからなかった。陽菜という名前を呼んでくれたことに、胸の奥が静かに波打った。
「うん、来たよ」
陽菜は封筒を差し出した。「読んでもらえたら、嬉しい。おばあちゃんが、教えてくれたことで書いたから」
文子はしばらく封筒を見ていた。それから、細い指先でそっと触れた。
何が伝わったか、確かめようがなかった。今日この瞬間に祖母の中に言葉が届いたかどうか、明日もそれが残っているかどうか、陽菜には知る術がなかった。それでも陽菜は渡した。それでよかった、と思った。届くかどうかとは別に、言葉はそこに在る。その確信が、いつのまにか陽菜の中に根を張っていた。
帰り際、施設のロビーで空を見上げると、薄い月が昼の空に浮かんでいた。
「届いたかどうかって、どうやってわかるんだろうって、ずっと思ってたんだよね」
文芸サークルの批評会のあと、学食の隅のテーブルで陽菜が言った言葉を、陽菜はまだ覚えている。あの夜、自分の書いたものが「読まれた」という体験が、うまく言葉にできない仕方で陽菜の内側を動かした。評価されたからではなかった。誰かが陽菜の文章を目で追って、その文章について話した。それだけのことが、こんなにも違ったのかと思った。
そして蒼の古本のことを思い出した。
あれは春先のことだった。古書店で手に取ったカフカの文庫本の余白に、鉛筆の書き込みがあった。几帳面でありながら、どこかに感情がはみ出したような筆跡だった。「音が、消えていく」という一行。陽菜はその書き込みを目で何度もなぞって、それから本を買った。
後からわかった。その書き込みをしたのが隣室の東條蒼だった。
「偶然ってあるんだね」と陽菜が言うと、蒼は少し笑って「偶然じゃないかもしれない」と言った。彼は常にイヤホンを首にかけていたが、陽菜と話すときは必ず外した。それが最初から気になっていた。外すという小さな動作の中に、何かがあると思っていた。
「俺の書き込みを誰かが読んだって、証拠じゃないですか。届く前から、もう在ったんだよ、言葉は」
蒼の指には、いつも鉛筆の黒が滲んでいた。楽譜を書く指。音符を書く指。書くことで何かを掴もうとしている指。陽菜は自分のペンだこと、蒼の鉛筆の染みが、どこか似ていると思った。
机の上の白いページを、陽菜はしばらく見つめた。
眼鏡のフレームに、無意識に指が触れた。いつもの癖だ。考え込むときの、自分だけの動作。でも今日は、考え込んでいるというより、何かが始まる前の静けさのような気がした。
父のことを思った。
克己は今も漁に出ているだろう。夏の朝の海は、陽菜が育った港町の記憶の中でいちばん明るい色をしている。父の背中はいつも、その光の中にあった。「言葉では食べていけない」という言葉は今でも耳の奥にある。消えたわけではない。でも、あの言葉と父を切り離して考えることが、今の陽菜には少しだけできるようになっていた。
父は不器用だった。愛情も、不安も、言葉にするより前に沈黙になってしまう人だった。
電話ではなく手紙を書こう、と陽菜は思っていた。書いたものを送る。それが陽菜のやりかただから。そういえば、と陽菜は思った。母が言っていた。父が陽菜の応募した文芸誌の短評欄を見つけて、切り抜いていた、と。引き出しに折りたたんで入れてあるのを偶然見た、と。
陽菜はそれを聞いて、しばらく返事ができなかった。
言葉では食べていけない、と言った父が、娘の言葉を折りたたんでいた。
証明なんて、もしかしたら最初からしなくてよかったのかもしれない。でも陽菜は書く。それは父への反骨心から始まったかもしれないけれど、今はもっと別のところに根を張っている。書くことが陽菜の呼吸だから。祖母が教えてくれた言葉の豊かさを、陽菜はまだ全部知らないから。蒼が音符を書き続けるように、陽菜は文字を書き続けるから。
そういうことだ、と陽菜は思った。
言葉はいつも、どこかに在る。
届いたかどうかとは別に、在り続ける。
祖母の手紙の、封筒の角が擦り切れるほど繰り返し読んだあの一通の中に。蒼の古本の余白に残された、かすれた鉛筆の書き込みの中に。父の引き出しに、折りたたまれた小さな切り抜きの紙の中に。施設の面会室で、文子の細い指先に触れた封筒の中の、四十二ページの中に。
そして今、机の上に開かれた、この白紙の中に。
陽菜はペンを持った。
キャップを外す。インクの滲む音が、紙に落ちる前の一瞬の沈黙。
書けない恐怖は消えていない。次の言葉も、伝わらないかもしれない。不完全なまま、どこかに届かないまま、白紙になって終わるかもしれない。それでも陽菜は書こうとしている。届かないかもしれないからこそ、今ここで書く。その選択が、今の陽菜を作っている。
夕暮れの光が窓の外で少しずつ薄れていく。
ペン先が、紙に触れた。
白紙は、終わりじゃない。




