第十二章「あなたが育ててくれた言葉」
応募の封筒を郵便ポストに滑り込ませた瞬間のことを、陽菜はまだ手のひらに覚えていた。
あの感触——紙の角が指の腹をかすめて消えていく、あの一瞬。取り返せないものが世界の側へ渡っていく感触。怖かった。怖かったけれど、震えていたのは恐怖だけではなかったと思う。
週末の朝、マルヤマ荘の六畳間はやわらかな光の中にあった。カーテンを引いてもにじんでくる九月の朝日が、文机の上に広げた紙を白く照らしている。
それは原稿ではなかった。
帰省の折、父の部屋の引き出しを開けたときに見つけたものだ。探していたわけではない。印鑑を借りようとして、間違えた引き出しを引いた。そこにあった。
陽菜が中学二年のとき書いた短編小説——同人誌に掲載した、あの二十ページの原稿のコピー。紙の縁は少し黄ばんで、折り目がついていた。何度か開かれた証拠だった。
「言葉では食べていけない」
父はそう言った。あの夕食の席で、静かな声で、一度だけ。言い聞かせるでもなく、怒鳴るでもなく、ただそれだけを言って、また茶碗を持ち上げた。あの言葉は長いあいだ陽菜の内側で刺さったまま抜けなかった。文学部への進学を選んだ後も、東京に来てからも、書けない夜も、書けた夜も、ずっとどこかに。
でも父は、言葉を捨てていなかった。
引き出しの中に、娘の言葉を畳んでしまっていた。
電車の中でそのことを考えると、胸の奥に何か温かいものがじわりと広がった。波が砂を濡らすように、ゆっくりと、静かに。父はずっと、言葉で私を見ていた。不器用に、口に出さずに、でも確かに。手のひらの上で紙を軽く握り直すと、折り目の感触が指に伝わった。
施設への路線は、乗り換えが二回ある。車窓の外を住宅と空が交互に流れていった。
面会室は廊下の突き当たりにある。窓が大きく取られていて、午前の光が白く差し込んでいた。
祖母は、その光の中に座っていた。
椅子に浅く腰かけて、両手を膝の上に置いて。背筋はまっすぐで、まだそこだけは昔のままだった。図書館の貸し出しカウンターに立っていた頃の、あの姿勢。
「おばあちゃん」
陽菜は扉のところで声をかけた。
文子はゆっくりと顔を上げた。その目が陽菜の顔の上を一度滑って、それから静かに止まった。今日がどちらの日かは、入ってすぐにわかった。祖母の目はいつも、「覚えている日」と「そうでない日」で、光の深さが違う。今日は——深くはなかった。でも穏やかだった。
陽菜は鞄を椅子の横に置いて、向かいに腰を下ろした。テーブルを挟んで、祖母の膝の上の手をしばらく見つめた。節くれた、本をたくさん触ってきた手。
「読んでいいですか」
文子は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと瞬きをした。
陽菜は鞄の中から原稿の第一ページを取り出した。応募用の原稿とは別に作っておいた、印刷し直したもの。この一枚だけを持ってきた。
息を吸って、読み始めた。
冒頭の一文は、港の描写から始まる。朝の光と、海の匂いと、小さな漁船が桟橋を離れる音。陽菜が生まれ育った町の、どこでもある朝の風景を書いた。でもそれは、陽菜にとってはどこでもない場所の、唯一の朝だった。
声が途中で揺れた。
ページの三分の一ほどのところで、一度呼吸が乱れた。眼鏡のフレームにそっと指を当てた。いつもの癖。でも今日は、それが支えになった。細いフレームの感触を確認してから、また目を文字に戻す。
賞が取れるかどうかはまだわからない。結果は数ヶ月先の話だ。でも書いた。書き終えた。そしてここに届けに来た。それだけが今ここにある事実だった。
文子は動かなかった。どこを見ているのか、陽菜には判然としなかった。窓の外かもしれない。テーブルの木目かもしれない。あるいはもっと遠い、陽菜には見えない何かを見ているのかもしれなかった。
それでも、陽菜は読み続けた。
最後の一行——主人公の少女が、見知らぬ誰かへ手紙を書き始める場面——を読み終えたとき、面会室は静かだった。外から、廊下を歩く靴音が遠く聞こえた。
文子が、目を細めた。
ゆっくりと、皺の寄った目尻がやわらかくほどけて。それから唇が少し動いた。
「……きれいな声だね」
かすれた声だったが、はっきりと聞こえた。
陽菜かどうかはわからなかった。自分の孫娘だと認識しているかどうかも。でも文子は笑っていた。静かに、穏やかに、光の中で笑っていた。
陽菜は原稿をテーブルの上に置いたまま、しばらく何も言えなかった。言葉を探していたわけではなかった。ただ、静かでいたかった。その笑顔と同じ時間の中に、もう少しだけいたかった。
帰り際、スタッフステーションに寄った。
担当の看護師さんは四十代くらいの女性で、いつも穏やかな目をしている人だった。陽菜は原稿の第一ページを差し出した。
「もし祖母が読みたそうにしていたら、渡してください」
看護師は一瞬驚いたように陽菜の顔を見て、それから「はい、お預かりします」と丁寧に受け取ってくれた。大切なものを扱うように、両手で。
施設の自動ドアをくぐると、外の空気がひんやりと頬に触れた。
九月の午後は、まだ夏の名残をどこかに引きずっている。でも影の伸び方が変わっていた。季節はちゃんと動いている。
帰りの電車に乗ってから、スマートフォンを取り出した。
蒼へのメッセージを打つ。文字を選ぶのに少し時間がかかった。何度か消して、打ち直して。
最終的に送ったのは、これだけだった。
「届いたかどうかわからなかった。でも届けた。それでよかったと思ってる」
送信ボタンを押してから、窓の外を見た。電車は高架を走っていて、遠くに夕焼けの始まりが薄く橙色に滲んでいた。
返信は思ったより早かった。
「それが全部だよ」
四文字。
陽菜はしばらくその画面を見つめた。それから小さく息をついて、スマートフォンをバッグにしまった。
蒼らしかった。余計なものを一つもつけない。でも、その四文字の中に、過不足なくすべてがあった。届けることと、届くことは別だ。それを知りながら、届けることを選ぶ。それで十分だと言ってくれている。
電車が揺れるたびに、手元の鞄が膝の上で動いた。もう原稿は入っていない。でも鞄は、空というわけでもなかった。
マルヤマ荘に着いたのは、夜の七時を少し過ぎた頃だった。
古い木造の外階段を上がって、二階の廊下を歩く。薄暗い廊下灯が、足元に淡い光を落としていた。
隣室——203号室のドアの前を通り過ぎようとしたとき、聞こえた。
音楽だった。
小さく、でも確かに、ドアの内側から流れてきている。ピアノの音だと思った。いや、音源かもしれない。鍵盤の一音一音が丁寧に積み重なって、旋律を作っている。
今度は、途中で止まらなかった。
マルヤマ荘に越してきてから、蒼の部屋から音楽が聞こえることは珍しくなかった。でもそれはいつも、途中で止まった。何度も同じところに戻って、また止まって。試行錯誤の音だった。
今夜の音楽は違った。流れていた。迷いながらでも、どこかへ向かって、確かに進んでいた。
陽菜は足を止めた。
廊下のその場所で、しばらく立ったままそれを聞いた。聴く、と決めて聴いた。蒼がイヤホンを外して人の言葉を受け取るように、陽菜も今この音を受け取った。
旋律は続いていた。終わりに向かっているのか、まだ途中なのかはわからない。でもそれでよかった。終わりまで聴かなくてもよかった。今ここに流れていることが、今夜の陽菜には十分だった。
自室の鍵を取り出して、ドアを開ける。
六畳間は暗かった。スイッチを入れると、蛍光灯の白い光が部屋の隅まで満ちた。文机の上には、何も置いていない。応募原稿は郵便局で手放した。施設に持っていったページは、看護師に渡した。手元には何も残っていない。
陽菜はトートバッグを机の横に置いて、椅子に腰を下ろした。
それから、引き出しを開けた。
新しいノートを取り出す。表紙を開いて、一ページ目の白いページを見た。
ペンを持った。
まだ何も書かない。でも持った。
隣から音楽がかすかに聞こえていた。止まらずに、続いていた。
陽菜は白いページを見つめながら、ゆっくりと息を吸った。書き始めるのは、今夜でなくてもいい。でも次の言葉は、もうどこかに存在していた。祖母の笑顔の中に。父の引き出しの奥に。蒼の四文字の返信の中に。
あなたが育ててくれた言葉で、私はまだ書いていく。
ペンの先が、ページに触れた。




