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言葉の在処  作者: 試作ノ山
第三部「原稿、完成へ」

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第十一章「原稿用紙、最後の一枚」

 東京に戻ってから、三週間が経った。

 デスクの上には原稿の束がある。A4用紙に打ち出した文字たちが、白いクリップで留められて静かに積まれている。陽菜はその束の重さを毎朝確認するように手のひらで押さえ、それからパソコンの画面と向き合った。

 残すはラストシーンだけだった。

 書けないのではない——そのことは、ここ数日でようやく言語化できるようになっていた。指は動く。言葉は出てくる。ただ、書いた文章を見るたびに、削除キーを押してしまう。何かが足りない、というよりも、何かが恐ろしかった。

 終わらせることが、怖い。

 書き続けているうちは、まだこの物語の中にいられる。書き終えてしまえば、それは陽菜の手を離れ、誰かに読まれるかもしれない場所へと向かっていく。祖母のもとへ届くかもしれない。あるいは届かないかもしれない。その瞬間を引き起こすことが——最後の一行を書くことが——怖くて、できなかった。

 書けないのではなく、怖いのだ、と陽菜は気づいた。

 気づいてしまえば、それは以前よりもずっと鮮明な輪郭を持って胸に居座った。恐怖は認識されると大きくなる。眼鏡のフレームに指先を当て、陽菜はカーソルの点滅を眺めた。点滅は一定の周期で繰り返し、待っていた。焦らずに、ただ待っていた。


 夜の十一時を過ぎたころ、スマートフォンが震えた。

 通知を見ると、蒼からのメッセージだった。

 ——卒制、完成した。

 それだけだった。句読点もなく、絵文字もなく、短い五文字。陽菜はしばらくその文字を見つめた。完成した、という言葉の持つ重さが、画面越しにも伝わってくるようだった。

 何と返せばいいか考えながら、陽菜はベッドから立ち上がった。パーカーを羽織り、廊下に出る。マルヤマ荘の夜は静かで、蛍光灯が古い壁を均一に照らしていた。

 隣の101号室のドアの前まで来て、陽菜は少し迷ってからノックした。

 扉が開いた。蒼は首にイヤホンをかけていたが、陽菜の顔を見た瞬間にそれを外した。パーカーの前をファスナーで閉めたまま、少し寝起きのような、それでいて目だけが妙に覚めた表情をしていた。

「メッセージ、読みました」と陽菜は言った。「おめでとう、ございます」

「ありがとう」蒼は言った。それから少し間を置いて、「少しだけ聴きますか」と言った。

 声は静かで、問いかけというよりも確認のようだった。陽菜は頷いた。


 蒼の部屋は、陽菜の部屋と鏡のような間取りをしているはずなのに、全く別の場所のように見えた。楽譜の束が本棚の間から溢れ、MIDIキーボードがデスクの横に置かれ、ケーブルが床を這っている。本の代わりに音楽が住んでいる部屋だ、と陽菜は思った。

 蒼はパソコンのそばに置かれた小さなスピーカーの前に座り、陽菜にデスクチェアを勧めた。自分は床に直接腰を下ろして、マウスを操作する。陽菜は椅子の端に浅く腰かけ、膝の上で手を組んだ。

「ピアノ音源ですけど」と蒼は言った。「本番はオーケストラで演奏してもらう予定です。でも、こっちのほうが骨格がわかりやすい」

「聴かせてください」

 再生ボタンが押された。

 最初の音が鳴った瞬間、陽菜は背筋が伸びた。

 それは静かな旋律だった。派手でも激しくもなく、ただゆっくりと、まるで誰かの呼吸に合わせるように音が重なっていく。ピアノの鍵盤が、一音一音を丁寧に踏みしめるようにして前へ進んでいった。

 第二章のあの夜から、壁越しに断片として聴こえていた音楽のことを陽菜は思い出した。途中で止まっていた音楽。何度も繰り返されては沈黙に沈んでいた音楽。それが今、止まらずに続いている。蒼の部屋から流れる音楽は、完成していた。

 しばらく聴いていると、蒼が静かに言った。

「この部分が、祖父に向けて書いた場所です」

 それだけ言って、黙った。

 陽菜は目を閉じた。旋律の中に、何かを感じた。うまく言葉にならないまま、でも確かに感じた。誰かが誰かに向けて音を置いていく時間——届けようとした誰かの時間——が、その旋律の中に刻まれているようだった。届くかもしれないし、届かないかもしれない。それでも諦めずに鍵盤を押し続けた誰かの手が、音の向こうに透けて見えるようだった。

 涙が出た。

 気づいたときには、視界がぼやけていた。慌てて眼鏡を外して目元を拭おうとして、陽菜は自分が泣いているのだと遅れて認識した。静かに涙が頬を伝っていた。

 蒼が音楽を止めた。

 室内に沈黙が戻った。蒼はこちらを見ていた。責めるでもなく、驚くでもなく、ただまっすぐに。

「なんで泣いてるの」

 声は穏やかだった。

 陽菜は眼鏡を持ったまま少し考えて、それから答えた。

「……わかったから」

「何が」

「あなたが何を書こうとしてたか、全部じゃないけど、少しだけ」

 蒼はすぐには何も言わなかった。

「言葉にした?」と、蒼が訊いた。

「してない」陽菜は首を振った。「でも届いた」

 それが本当のことだった。何の言葉も介さなかった。陽菜は音楽の意味を説明されたわけでも、解釈したわけでもなかった。ただ聴いて、届いた。それだけだった。

 蒼は小さく息を吐いて、膝の上に肘をついた。何かを考えているような顔をしていたが、やがて「そっか」とだけ言った。


 部屋に戻ったのは、日付が変わる少し前だった。

 廊下を歩きながら、陽菜の頭の中には音楽がまだ鳴っていた。あの旋律が、胸の中でゆっくりと続いていた。

 デスクの前に座り、パソコンの画面を開く。カーソルはまだ同じ場所で点滅していた。待っていた。

 届いた、と陽菜は思った。

 言葉がなくても届くのなら、言葉で書くことに意味はないのか——いや、違う。蒼が音楽を書いたから、届いた。書かなければ、何も起きなかった。言葉に落とし込もうとすることで初めて、言葉を超えた何かが生まれる可能性がある。それは完成しているかどうかではなく、書こうとした誰かの時間そのものが、別の誰かに届くのかもしれない。

 指が動き始めた。

 ラストシーンを書いた。

 施設の面会室で、主人公は祖母の隣に腰を下ろす。祖母は今日、主人公の名前を呼ばなかった。でも主人公が手を差し伸べると、祖母はその手をそっと両手で包んだ。温かくて、少し乾いた手のひら。主人公はその感触を、言葉にしようとした。言葉にしても足りないと思いながら、それでも書いた。——祖母の手は、長い時間の重さがそのまま皮膚になったようだった。

 そこで物語は終わった。

 陽菜はキーボードから手を離し、画面を見た。

 言葉にしても届かないかもしれない。でも書いたこの原稿は、私がここにいた証明だ。

 その感覚が、静かに胸の中に降りてきた。言葉としてではなく、呼吸のような確かさで。

 何度か読み返して、直さなかった。今夜は直さないでいいと思った。


 翌朝、陽菜はプリンターの電源を入れた。

 大学の図書館で使っているプリンターよりも古い、安いインクジェット機が唸りながら紙を吐き出し始めた。一枚、また一枚と、文字の刻まれた白い紙が積み重なっていく。

 全部出力し終えたとき、陽菜は原稿の束を両手で持ち上げた。

 手が、微かに震えていた。

 震えているのは緊張ではないかもしれない、と陽菜は思った。恐怖でもないかもしれない。ただこの原稿が今、確かに重さを持って自分の手の中にある、その事実が体の中から溢れてくるような、そういう震えだった。

 窓の外では、秋の朝の光が斜めに差し込んでいた。

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