第十章「父の声と、言葉の根っこ」
新幹線を降り、乗り換えた在来線がゆっくりと速度を落とし始めた頃、陽菜は窓の外を眺めながら眼鏡のフレームにそっと指先を触れた。見慣れたはずの車窓の風景が、どこか遠い国の写真のように映る。四カ月。たった四カ月のあいだに、自分の目はこんなにも変わってしまったのだろうか、それとも風景のほうが変わったのだろうか。
ホームに降り立った瞬間、匂いが来た。
潮の匂いだった。
陽菜は歩き出しかけた足を止めた。改札へ向かう人々が脇をすり抜けていく。潮と海藻と、遠い漁港の匂い。鼻腔の奥を満たすその感触は、懐かしさというより暴露に近かった。東京で毎朝アスファルトとコーヒーの匂いを吸いながら、自分がどれほどこの匂いを忘れようとしていたか。その匂いが、ごく静かに、しかし確かに教えてくる。
逃げてたんだね、と陽菜は心の中でつぶやいた。誰に言うともなく。
施設は町外れの小高い場所に建っていた。白い外壁に陽が当たって、正面玄関のガラス扉がきらきら光っている。中に入ると消毒液と、どこからか漂ってくる薄い花の香りが混じっていた。面会の手続きを済ませ、案内された廊下を歩く。靴音が立てないように、自然と足取りが慎重になる。
文子は窓際の椅子に座っていた。外を向いていて、白くなった後ろ頭が見えた。膝の上に薄い水色のひざかけが乗っている。
「おばあちゃん」
陽菜が声をかけると、文子はゆっくりと振り返った。時間をかけて、丁寧に首を回すように。そして陽菜の顔を見た。その目が、しばらく陽菜の上をさまよった。
「あなた、誰でしたっけ」
穏やかな声だった。責めるでも困惑するでもなく、ただ静かに尋ねる声。だからこそ、胸の奥をひどく痛いものが通っていった。
陽菜は息を一度だけ吸った。涙をこらえるのに、その一秒が必要だった。
「陽菜です。文子おばあちゃんの孫です」
自分の名前を名乗ることが、こんなに重い行為だとは知らなかった。言葉にした瞬間、その言葉がどこかへ届いているのか届いていないのか、まるでわからなかった。
文子の目が動いた。何かを探すように、あるいは何かを思い出そうとするように。唇が微かに開いて、しかし言葉は来なかった。沈黙が部屋に満ちた。カーテンがそよいで、外の光が揺れた。
それから文子の手が、陽菜の手の上に重なった。
ゆっくりと、確かに、握り返した。
言葉はなかった。名前も、記憶も、もしかしたらなかった。それでも、その手はたしかに陽菜の手を握っていた。言葉が届かないところで、別の何かが届いていた。陽菜はそのぬくもりを手のひら全体で受け取りながら、泣かないように、泣かないようにと、窓の外の薄い空をひたすら見つめた。
実家に戻ると、夕方の台所から出汁の匂いがした。父・克己は無言で鍋をかき回していた。背中が少し丸くなった気がする。陽菜が「ただいま」と言うと、振り向かずに「おう」と返した。
食卓に二人だけで向かい合う。母はパートのシフトで遅くなるという。
克己はあまり食べなかった。陽菜もあまり食べられなかった。箸の音と、テレビの音だけが部屋に流れた。克己はニュースを見るともなく見ていて、陽菜は自分の茶碗の縁をぼんやりと目で追っていた。
食事が終わりに差し掛かった頃、陽菜は自分でも驚くような声で言っていた。
「お父さん、私、小説を書いてる」
克己の箸が止まった。
「文学賞に、応募するつもり」
沈黙だった。克己はテレビの画面を向いたまま、何も言わなかった。陽菜は構わずに続けた。眼鏡のフレームに触れたいのをこらえながら。
「お父さんが言ったこと、覚えてる? 言葉では食べていけないって」
克己が動いた。箸を茶碗の端に置き、両手をテーブルの上で組んだ。そしてテーブルの木目を見た。じっと、まるでそこに答えが書いてあるみたいに、しばらく木目を見ていた。
陽菜は待った。急かさなかった。
「あれは」と克己がやっと口を開いた。声が少し掠れていた。「お前が遠くに行くのが怖かっただけだ」
陽菜は息を詰めた。
「うまく言えなかった。ずっと」
テーブルの向こうで、父がそれだけ言った。それだけ言って、また黙った。手の組み方が変わった。指が少し白くなるほど、強く組まれた。
陽菜の胸の中で何かが溶けていく音がした。怒りでも悲しみでもなく、もっとやわらかい、名前のつかない何かが。
「うん、知ってた」と陽菜は言った。「……たぶん、だけど。でも、言ってほしかった」
克己は頷かなかった。頷く代わりに、一度だけ深く息を吐いた。
完全な和解ではなかった。謝罪の言葉もなく、抱擁もなく、これからどうするという約束もなかった。ただ、長いあいだ閉じていた扉が、少しだけ開いた。ほんの数センチ、光が差し込む程度に。それで十分だと陽菜は思った。今夜は、それで十分だった。
二人は残った味噌汁を飲んで、食器を片付けた。それだけだった。それだけのことが、陽菜にはひどく大切に思えた。
翌日の昼下がり、陽菜は帰省中に実家の整理を手伝うことにした。両親の部屋の棚を拭き、廊下の段ボールを分類し、夕方には克己の書斎の端にある古い机の周りを片付け始めた。
引き出しを開けたのは、特に理由があったわけではない。ただ表面を拭いていて、少し引き出しが浮いているのに気づいたから、閉め直そうとして。
中に、紙が入っていた。
薄い紙だった。きちんと折られて、でも長く保存されていたせいで角が少し柔らかくなっている。陽菜は取り出して、広げた。
見覚えのある活字が目に入ってきた。
自分の名前があった。「瀬川陽菜」という名前が、小さな同人誌のフォントで印刷されていた。
それは中学の文芸部が作った同人誌のページだった。陽菜が書いた短編小説のページ。一冊まるごとではなく、そのページだけが丁寧に切り取られ、折り畳まれて引き出しの中に入っていた。
手が震えた。
克己が、切り取っていた。丁寧に保管していた。書斎の引き出しの中に、何年も。
陽菜はしばらくそのページを持ったまま、動けなかった。「言葉では食べていけない」と言った父が。海の男の手で、娘の書いた文字を切り取って、引き出しの奥に仕舞っていた。
泣かないようにと思っていたのに、今度は止められなかった。声は出なかった。ただ涙が眼鏡のレンズを曇らせて、活字がにじんだ。自分の名前がにじんだ。
帰りの電車は夜になっていた。車窓に自分の顔が映る。眼鏡をかけた、どこにでもいる女の子の顔。
陽菜はスマートフォンを取り出して、メモアプリを開いた。キーボードを打つのではなく、文字を入力する画面をしばらく見つめた。それから、打ち始めた。
「お父さんの言葉は不器用だった。でも根っこには愛があった。それは、言葉が下手でも、言葉で伝わった」
送信ボタンはない。誰にも届けないメモ。けれど書いた。書かずにいられなかった。
電車が揺れる。窓の外、夜の平野が流れていく。街の灯りが点々と続いて、やがて東京のほうへと向かっていく。
陽菜はスマートフォンをトートバッグに戻して、目を閉じた。
原稿が終盤まで来ている。あと少しだ。帰ったら、続きを書こう。祖母の手のぬくもりを思い出しながら、父の引き出しの中の紙を思い出しながら。届かないかもしれない。それでも書く。いや、届かないかもしれないからこそ、今書く。
電車は東京へ向かって走り続ける。陽菜の鞄の中で、書きかけの原稿のデータが静かに眠っている。それはまだ未完成だった。でもたしかに、根っこから育っていた。




