第2話 ゴブリン襲撃と初勝利
――もしも、脳内にAIが宿ったら。
ブラック企業に心身を削られ、働き詰めの末に倒れた一人の男。
彼が次に目を覚ましたのは、剣と魔法、モンスターが跋扈する異世界だった。
社畜だった男が、“検索チート”で異世界を駆け抜ける物語。
ここに開幕!
街が完全に寝静まった深夜。
最初に聞こえたのは、金属が噛み合う甲高い音だった。
次に、肺の奥で息を攫っていく冷たい空気。
藁の寝床から跳ね起きたサイトは、斜めに差し込む月明かりの細さが「いつもと違う夜」を告げていると、直感で理解した。
外で鐘が鳴っている。ひどく切羽詰まった、間隔の詰まった合図。
階下から《水車亭》の女主人、マーヤの叫び声。
「サイト! ミラを連れて広場へ! ——早く!」
足が先に動き、脳が遅れてついてくる。
階段を駆け下りると、入口の戸はすでに開け放たれ、冷気と人の焦りが店内に流れ込んでいた。
ミラは短弓を胸に抱いたまま、つま先で跳ねるように立っている。
肩が小刻みに震えているのを見て、サイトは一拍だけ深呼吸をした。
「大丈夫だ。行こう」
そう言いながら、自分の声がわずかに掠れていることに気づく。
外へ踏み出すと、夜の空気は鋭い刃物のように肌を切った。
鐘の音、怒鳴り声、子供の泣き声、戸を叩く音、吠える犬。
音のすべてが、街をひとつの巨大な肺にして、荒く呼吸させている。
**推定:北門外の村落に敵影多数。
規模は二十から三十。先行偵察の報告と一致。**
続いて《Oracle》の畳みかけるような声。
**追加:森沿いに進行。十数分で市壁近傍に達する見込み。**
「間に合うのか?」
**間に合わせるなら、今動く。**
木靴の踵が石畳を叩く度、音が短く跳ね返った。
広場には人が集まりはじめ、篝火がひとつ、ふたつと灯る。
炎の明滅が顔の骨格を強調し、誰の表情も固く見える。
中心には見回り隊のヴァンス。
彼の周りに半円を描くように、村人や冒険者が集まっていた。
「北の畑沿いに群れだ。数は多い。女と子供は倉庫へ、男は柵の前へ。……おい、サイト!」
呼ばれて前に出ると、ヴァンスが地面に棒で簡素な地図を描いた。
畑、小川、柵、村の入口。
そして、森から伸びる黒い蛇のような線。
「持久戦はできねぇ。柵の前で止まらなけりゃ、家々に火が入る」
「遅延させる。できる限り長く」
サイトはひざまずき、地図の小川の上に指を滑らせた。
「小川の流れをいったん止める。溜めた水を柵の前で一気に流す。
畑の道は粘土質だ。ぬかるみになる。
移動速度を落とせれば、弓兵が仕事しやすい」
周囲の視線が集まる。
―― 懐疑、期待、不安。
ヴァンスは短く舌打ちをし、しかし首を横に振らなかった。
「やる価値はある。人手は?」
「土嚢を積む人が五、六。縄と杭。石があればなお良い」
「よし。農夫、五人。冒険者から二人。
おい、そこの兄ちゃん、力はあるか? 行ってこい。
……サイト、俺は弓の列を作る。十七刻の鐘を三つ打ったら、合図をくれ。それで流せ」
十七刻。
——時間が、急に形を持って近づいてくる。
**敵距離、約一キロ。歩速換算で十五分前後。
堰の構築、最短で十分。ただし失敗許容は一回。二回目の時間はない。**
「十分で終わらせる」
口に出した言葉は、自分を鼓舞するために向けた釘でもあった。
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小川は月を砕いて流れていた。
普段は涼しげな音を立てるこの細流が、今夜だけは鈍い唸り声に聞こえる。
土嚢を担いで走り、石を運び、杭を打ち、縄を結ぶ。
作業は単純だが、焦りが単純さを壊しにかかる。
「結びが甘い、やり直す。
——ミラ、そっちの枝を梁にする。重ねる方向は水の流れと逆だ」
「うん!」
声に、震えが戻ってくる。
ミラの指先は早い。枝を噛み合わせ、縄で固定し、石を噛ませる。
**水位上昇。堰の高さ、あと二握り分必要。
残り時間、七分。**
時間は、冷酷に数字として告げられる。
サイトは自分の呼吸の速さを意識的に落とし、視界の端で星の位置を探る。
右手親指の皮が剝けて血が滲んだ。
痛みは集中を細く削るが、意識は刃のように細く、研がれていく。
遠くから、低い長音が一度、風を伝ってきた。
―― あの音だ。
昨日の“合図”。
体の芯が強張る。
**距離短縮。進行方向に変更なし。
堰、完成率八割。**
「石をもう二つ。——よし、そこまで。最後は俺がやる」
杭の頭を石で叩き込むと、骨に響く衝撃が腕を痺れさせた。縄をたぐり、引き具の取っ手に結ぶ。引けば、堰は崩れる。崩れた水と泥が、夜の畑に牙を剥くはずだ。
「戻るぞ!」
踵を返した瞬間、茂みが小さく鳴った。
黒い影が、月光の刃を齧るように飛び出してくる。
小型のゴブリン——偵察だ。こちらを見つけ、喉を鳴らした。
「ミラ!」
矢が光を裂いた。短く、正確に。
喉の皮一枚を切り裂くような音。
影は前のめりに倒れ、土が湿った。
ミラの手が震え、でも目は逸らさない。
サイトは頷き、一拍だけ彼女の肩に手を置いた。
言葉は要らない。時間が、残酷に背中を押してくる。
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柵の前に戻ると、弓兵の列が二重に組まれていた。
前列が射ち、後列が番え、交互に呼吸する。
ヴァンスは柵の中央に立ち、視線で列の乱れを拾っては短く指示を飛ばす。
「十七刻の鐘、二つ!」
見張り台から声が降る。
月は高く、風は乾いている。土は、これから湿る。
**敵距離、四百。
敵の先頭集団、速度上げ。背後個体が押し上げ。**
「押してくるか」
人の群れと違うのは、個々の命の軽さだ。押し潰されても、前へ出る。
だから止めなければならない。
最初の影が、畑の端にこぼれ落ちた。
その数歩後ろ、二つ目。
三つ目が、長く吠える。
その吠え方は、昨日と同じ節回し。肋骨の間を指でなぞられるような不快さを伴う。
「——まだだ」
サイトは縄の取っ手に手をかけ、力の方向を確かめた。
先に引けば、ただの水溜りになる。もっと惹きつけろ。
―― もっと、もっと。
ヴァンスの視線が横から刺さり、無言の問いが来る。
サイトはほんのわずかに首を振った。
影が増える。二十、三十。
黄色い眼が群れて、畑の畝を飲み込み、粘土の道を踏み固め、速度が乗る。
見張り台が叫ぶ。
「十七刻の鐘、三つ!」
「今だ!」
縄を引いた。
手のひらの皮が破れ、鉄の味が口に広がる。
杭が軋み、縄が悲鳴を上げ、次の瞬間、堰が崩れた。
轟音。
溜めた水が、泥を白い牙にして吐き出す。
畑の畝の間を蛇のように蛇行しながら幅を広げ、走る足を舐め、絡め取り、引き倒す。
ゴブリンの足が取られ、体が重みで沈む。
泥は冷たく、だが重い。
「——放て!」
ヴァンスの号令が夜を裂いた。
矢が雨になり、泥の上で暴れる影に刺さる。
呻き声と泥の跳ねる音、折れた矢の鈍い破砕音。
呼吸の合った二重の列が、機械のように冷たく、しかし人間の温度で射ち続ける。
前列の弦が鳴り、後列の弦が応える。
泥は広がり、足場は悪化する。
影は減り、しかし完全に止まらない。
**警告:後方個体に統率あり。波の間隔が整っている。
推定:上位個体の指示による隊形再編。**
その時、群れの背後にひときわ高い影が立った。
粗い鉄の兜。片刃の斧。
肩から腰にかけて走る古傷の線が、月光を拾う。
ゴブリンロード——昨日、森で聞いた長音の主だ。
ロードが、空を割るように吠えた。
泥に足を取られていた個体が、声の方向へ顔を向け、わずかに静止する。
次の瞬間、彼らは泥の斜面を斜めに駆け上がり、足を絡め取られない角度を選び始めた。
声ひとつで、群れが賢くなる。体の芯が冷える。
「畝の斜め——」
「分かってる!」
ヴァンスが列の端に動き、射角を修正させる。
しかし「賢さ」は徐々に効果を上げ、何体かが泥を抜けて柵に迫る。
木の柵が、初めて短く悲鳴を上げた。
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「前列、腰! 腰を狙え!」
ヴァンスの叫びで矢の高さが一段下がる。
泥を蹴り、半身をねじって走る影の腰に矢が刺さり、体が落ちる。
しかし、押す波は途切れない。
一本の矢がサイトの頬をかすめ、熱い線を残した。
血の匂いが鼻腔を刺し、時間が一瞬だけ伸びる。
隣でミラが息を詰めるのがわかる。
彼女の指の関節が白くなり、弦が微かに軋む。
「深呼吸。狙いは呼吸の底で」
短く囁くと、ミラの肩が一度、静かに落ちた。
彼女の矢は、走り抜けようとした一体の足首の腱を正確に切り、影が前のめりに転ぶ。
転んだ体は次の影の足をすくい、波がわずかに崩れる。
その隙間を縫うように、ロードが進む。
泥の上でも大股で、重い斧を肩で運ぶ。こちらを見てはいない。
彼は、彼の後ろしか見ていない。群れを見ている。
嫌な賢さだ。
**近接での抑止、不可避。
提案:柵の隙間の狭い箇所に誘導。長柄を封じる。
補助案:油。滑走面を作る。**
「油は?」
「台所から持ってきた! でも——」
ミラが腰の小さな皮袋を指した。量は少ない。
十分ではないが、ゼロではない。
「右から回る。ロードをここに引き込む」
サイトは棒を握り直し、柵の隙間の一つへ走った。
そこは補修が甘く、人ひとりならすり抜けられる幅がある。
向こう側には、畝と畝の狭い通路。
斧を振り切るには狭すぎ、突きに変えざるを得ない——なら、対処できる。
「ミラ、合図で油を撒け。走り抜ける一歩目のところに」
「合図って?」
「俺が——叫ぶ」
「それ、合図かな!」
笑う余裕はないが、口角がわずかに上がった。
サイトは隙間から外へ身を滑らせた。
夜の空気が体を包む。
泥の匂い、鉄の匂い、脂の匂い。汗は冷えて、皮膚に薄い膜を作る。
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ロードは、近い。
足元の泥が柔らかい場所と硬い場所をパッチワークにしている。
硬い場所——畝のてっぺん、踏み固められた筋。そこを選んで走る。
靴底から震えが脛骨に上がり、耳に自分の心音が大きくなる。
「——おい」
声は、届く。
ロードの片目がこちらに向き、歯が剥き出しになる。
斧が肩から降りる。重さのある武器の軌道は読める。
肩、肘、手首の順に角度が変わり、斧の刃が月光の線を弧に描く。
初撃は——振り下ろし。
サイトは半歩、左へ。重さを逃がす。
刃が地面に食いこみ、泥が飛ぶ。二撃目が刃の反動で跳ね上がり、横薙ぎに変わる。
棒の先を斧の柄に軽く当て、回転を一瞬だけ早める。
彼の力を、彼自身に預け返す。
刃は空を切り、ロードが体勢を崩しかける。
そこへ一歩、踏み込む。膝の内側、関節の隙。
棒の腹で押す。
押すだけ。叩かない。
体勢がわずかに沈む。
「今だ!」
喉が裂けるような声が出た。
柵の向こうから、ミラが油を撒く音が聞こえた。
皮袋が空気を打つ短い音。油は冷たい光を帯びながら地面に広がり、畝の細い通路をぬめらせる。
ロードは足を送る——そこが罠だと分かった瞬間には遅い。
踵が滑り、重い体がわずかに後ろへ。
ほんの一拍だ。だが、その一拍が命の値段を決める。
サイトは棒を顎の下に突き上げた。
兜の縁に力が逃げる。狙いを半寸、下げる。喉の柔らかいところに棒の固いところを当てる。
骨と軟骨が反発し、気道が潰れかける。
ロードの目が見開かれ、斧を手放すか否かの逡巡が見えた。
彼は手放さない。賢い。賢いから、強い。
反動で体が戻る。カウンターの肘。
サイトは首を引き、頬骨にかすめた衝撃が、視界に白い火花を散らした。
足がぐらつき、泥が膝に冷たい。
ロードの顎がうなる。片目にミラの矢が入り、短い悲鳴が空気を震わせる。
ヴァンスの影が横合いから飛び込み、刃が水平に走る。
顎の下。
骨の抵抗。
血の匂い。
ロードは膝から落ち、泥の上に重く横たわった。
身体が、音を立てて「巨大なものが停止した」と告げる。
静寂は訪れない。
代わりに、蜂の巣を叩いたようなざわめきが一斉に広がった。
統率を失った群れが、各々の方向へ散る。
吠え声も悲鳴も、まるで同じ高さの線になって夜へ吸い込まれていく。
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勝利の合図が、誰の口からも出ないうちに、空気の匂いが変わった。
焦げた匂い。乾いた木に火が入ったときの、最初の甘い匂い。
「火だ!」
誰かの叫びと同時に、柵の外れに赤が立った。
逃げる最中に投げられた松明か、倒れた松明が起き上がって燃え移ったのか。
炎は、勝利の直後の隙を嗅ぎ当てる嗅覚を持っている。
「水! 水を回せ!」
叫びながら、サイトはさっきの堰を振り返った。
水はすでに流れきっている。残りは、泥の池だ。
しかし池でも、火には効く。泥は窒息を起こす。
「桶! 桶を!」
人の列ができる。泥をすくい、運び、投げる。
炎の音は意外に大きい。油の匂いが混じっている。
投げた泥が炎を包み、息の根を止める。
ミラが袖で額の汗を拭い、歯を食いしばって桶を渡す。彼女の小さな肩に泥が飛び、線になって残る。
火は、無事に止まった。
その間も、森の縁からこちらを見ている気配は、ずっと消えなかった。
油断を食べる者は、人だけではない。
**被害、軽微。柵の損傷、二箇所。
死者、なし。重傷者、二。
戦闘継続の必要性、低。追撃、非推奨。**
《Oracle》の報告に、サイトは膝から力を抜いた。
棒の先が泥を描き、円の半分だけが残る。
呼吸の音が、ようやく自分のものに戻ってくる。
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・
広場に戻ると、歓声が波のように押し寄せた。
それは喉の奥から自然に出てくる音で、計算された合唱ではない。
マーヤが駆け寄り、ミラを抱きしめる。彼女の腕は力強く、震えていた。
サイトの肩に手を置いて、短く「ありがとう」と言った。
言葉は短いが、言葉の重さがのしかかる。
ヴァンスは黙って近づき、サイトの肩を拳で軽く叩いた。
彼の目の奥に、昨夜はなかった認識が灯っている。
敵でも味方でもなく、同じ場所を見る者の目だ。
「借りができたな」
「借りはお互い様だ。——あれが倒れなければ、ここは今、火の海だった」
「……そうだ」
ヴァンスは頷き、視線を遠くに投げた。
森の縁は、夜の名残をまだ手放していない。
誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが無言で空を見上げている。
サイトの頬の傷が、脈動に合わせてチリチリと痛む。
その痛みは、生きている証拠の形とかたさを持っていた。
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・
夜の仕事は終わらない。
矢を回収し、折れた柄は燃やし、使える矢尻は拾う。
倒れた影は、耳を切り、袋にしまう。粘土の道に残った水の溝は、朝になれば泥の帯になる。
その帯の形を見て、サイトは指先で空に線を描いた。
「ここが一番深い。次はこっちを掘って、溜めを作る。二度目はもっと広く流せる」
「二度目があるのかい?」
マーヤがいつもの口調で聞く。
サイトは、笑いはしなかったし、眉を寄せもしなかった。ただ、肩をすくめて答えた。
「来ないとは限らない」
「……嫌な匂いが残ってるからね」
マーヤの嗅覚は、比喩ではない。
《Oracle》の報告より、彼女の一言の方が深く刺さる。生き物の勘は、時に計算を越える。
ミラは自分の手の豆を見て、指先でそっと撫でた。
皮の向こうに熱があり、今日が残っている。
「痛い?」と問うより先に、彼女は顔を上げて笑った。
「平気。ねえ、サイトさん。わたし、やれたよね?」
「ああ。よくやった」
「次はもっと——」
「次は、来ない方がいい」
彼女は小さく舌を出し、それでも頷いた。
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・
・
夜と朝のあいだの白んだ空が、村の屋根を薄く塗りつぶしていく。
その静けさを破ったのは、見回り隊の少年の駆け足だった。
「通達! ギルドから通達だ!」
少年は息を切らし、紙を掲げる。
紙は薄く、墨は濃い。
末尾の印は、ギルドと——水利署。
ヴァンスが受け取り、走り書きの文字を目で追う。
サイトは横から覗き込み、印影の輪郭にほんのわずかな滲みを見つけた。
昨夜、リーナの帳面で見たものと、同じ癖だ。
「見回り隊の再編……北の水門の管理は貴族領の監督下に。理由、治安悪化。——治安は俺たちの仕事だろうが」
ヴァンスの声に、怒りではなく疲労が滲んだ。
人は戦いよりも、書面に疲れることがある。
サイトは紙から目を離し、小川の上流の方角へ視線を移した。風はそちらから吹いてくる。
その風に、昨日まではなかった石の匂いが混ざっている気がした。
川は石を運び、石は川を変える。
**上流での流量変化、微。夜間に石積みの可能性。
提案:日中の巡視と、印影照合の素材採取。**
「行こう。上を見に行く。——ヴァンス、隊から一人、目の利くやつを貸してくれ」
「貸し借りは嫌いだが、今はそれでいい。二人やる。……ミラは——」
「行く!」
ミラは息を弾ませながら口を挟んだ。
マーヤが眉を上げ、しかし何も言わない。昨夜の矢が、彼女の言葉よりも先に説得力を持っている。
「じゃあ三人だ」
サイトは短く頷き、棒の握りを確かめた。手のひらの皮が、また薄くなっている。
痛みは、必要なことを教えてくれる。
強く握るな。押せ。叩くな。支点を探せ。
それは仕事の中で身につけたコツと、同じだ。
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・
・
・
上流へ向かう道は、朝の匂いが濃い。
湿った草、土の冷たさ、遠くのパン窯のあたたかい匂い。
川は細くなり、音は少し高くなる。子供が秘密を囁くような速度だ。
やがて、川の筋が不自然に膨らんでいる場所に出た。
石が、積まれている。自然に崩れたものではない。人の手か、人に近いものの手。
ヴァンスが足で石を押し、サイトは手で石の角を撫でた。
石の表面には泥の薄い膜があり、その下に、新しい傷が幾筋か走っている。
積まれてから日が浅い。
「夜のうちにやりやがったな」
ヴァンスの低い声。
サイトは石の並びを目で追い、最も新しい石の位置と形を記憶に焼き付ける。
**堰の設計、粗い。だが目的は達成する:流量の調整、村側の水車の減速。
併せて、昨夜の炎上のタイミングと一致。偶然性、低。**
偶然ではない。
一つ一つは小さな「嫌な匂い」が、同じ場所に集まりはじめている。
サイトは川面に手を差し入れ、冷たさで痛みを洗い流した。
「——誰が、何のために」
答えは、まだ出ない。
だが、この問いは正しい方向へ向いている。
それだけで、体の芯に一本、骨が通る。
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昼近く、ギルドに戻ると、受付のリーナがいつもの退屈そうな顔で帳面を捌いていた。
しかし、彼女の指先の力はいつもより強かった。
紙がかすかに悲鳴を上げる。
「北の村は?」
「守った。——ロードも倒した」
リーナの目が、わずかに丸くなる。
それからすぐ、いつもの半眼に戻った。
「こっちは紙の戦争よ。通達の山。水利署の印影、見た?」
「見た」
「ズレてるわよね」
彼女は声を落とし、引き出しから薄い紙片を一枚、卓の端に滑らせた。
印影の写し。輪郭のわずかな滲み。
サイトは昨夜の記憶と、今朝の通達の印影を並べ、同じ癖を見つける。
同じ手が、二度押した。
「証拠には弱い。でも、匂いは濃い」
「匂いは、風上を教えてくれる」
リーナはそう言って、帳面を閉じた。
彼女の視線は一瞬だけ横へ流れ、そこにあるべき人影の不在を確かめるようだった。
「見回り隊の再編で、ヴァンスは忙しくなるわ。あなたも気をつけて。紙で殴る相手は、棍棒より厄介よ」
「棍棒は痛い。紙は——」
「眠らせる。気づけば絡め取られて、起きたら手錠、ってね」
冗談めかした口調で、冗談ではないことを言った。
サイトは笑わず、頷いた。
笑いで済むことと、笑いが奪われることの境界は、狭い。
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水車亭に戻ると、マーヤが鍋をかき回しながら顔だけをこちらに向けた。
目の奥の緊張は、まだ解けていない。
しかし、その上に乗っている表情はいつもの「働き者の顔」だ。強くて、疲れていて、優しい。
「食べな。冷めるとまずい」
皿に盛られたスープは、昨夜より塩が少し強い。
疲れを、前提として味が決められている。
ミラはスプーンを両手で持ち、猫舌を誤魔化すようにふうふうと息をかけた。
「サイトさん」
「ん?」
「わたし、矢を三本、回収し忘れちゃった。——ごめん」
「謝ることじゃない。回収できた七本が、次を助ける」
ミラは唇を引き結んで、うん、と頷いた。
サイトはスープを飲み干し、椅子の背にもたれないまま、少しだけ目を閉じた。
眠りは、すぐそこにある。
しかし、完全には手渡さない。夜は、まだ終わっていない。
屋根裏に上がると、藁の匂いがいつもより濃い。体の重さを受け止めた藁が、キシ、と小さく鳴く。
目を閉じる前に、《Oracle》に問いを投げた。
「俺は、間違ってないか?」
**現時点での選択は、最適に近い。
ただし、相手は学習する。こちらも学習し続ける必要がある。**
「学習、ね。——仕事と同じだ」
**仕事と違うのは、失敗の代償が違う点。
だから、休め。休息は次の判断の精度を上げる。**
「分かってる」
藁の上で体を丸め、目を閉じる。
水車の音が、遠くでゆっくりと回り続けている。
その回転が、ほんのわずかに重いことも、耳は覚えていた。
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夜が明けきり、朝靄が川面に薄く漂うころ。
上流の石積みのそばに、足跡がひとつ残っていた。
人のものに似ているが、指先が長い。
足跡の傍ら、短い棒で砂に描かれた図形がある。
丸と、十字。丸は、車輪。十字は、堰。
図形を指で消したのは、爪に黒い泥が入った小さな手。
その手の主は、川の音に耳を傾け、頭をゆっくりと傾けた。
遠くで、水車の音がした。
重くなった回転。
その重さは、彼——あるいは「それ」にとって、音楽の最初の二小節にすぎない。
風が、森の奥へ走り、長い低音を運ぶ。
応える声は、今はまだ遠い。
だが、いつまでも遠いとは限らない。
——「水を握る者」が、舞台袖で息を潜めている。
――第2話 了――
ゴブリン襲撃編、最後までお付き合いいただきありがとうございました!
今回の見どころは「知識を応用して罠を作る」点と、「ゴブリンロードとの対決」でした。
単なるAIチート無双ではなく、仲間との連携や恐怖との折り合いを描きたいと思っています。
また、戦いの勝利の裏で見え始めた“水利”や“ギルドの影”は、今後の陰謀パートの伏線です。
次話では、いよいよ王都や貴族との関わりが描かれます。物語は戦いから政治劇へ……お楽しみに!




