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カニは死んでいる

作者: 松茸

 トゲのある物体がテーブルの上に置かれていた。


 僕が注文していたものであり、それが届いて、彼女が包みを開けたのだった。彼女は不思議そうな目でそれを見つめている。それは恐らく、彼女が初めて見るもののはずだった。彼女がかつていたのは野菜しかないというヴィーガンの異世界。そこには肉も魚もない。このような甲殻類もいないはずだった。


「これはなんていう生き物なの?」と彼女は僕に問いかけた。

「これはカニという生き物だ」と僕は言った。

「カニ……でも、動かないね」

「死んでるんだ」 


 死んでる、と彼女は呟いた。


「カニ……死んでる……」


 彼女は死んだカニを見たのは初めてだった。彼女の顔からは表情というものが失われていた。それは初めて死というものに触れた人間のようだった。死は常に僕たちの身近にある。彼女は幸運にも、そのことに気づかずにこれまでの人生を生きてきたのかもしれなかった。


「そうだね」と僕は言った。できるかぎりの繊細さをその言葉に込めた。だが十分とは言えなかったし、自分でも満足のいく出来栄えではなかった。そこには生というものを軽視する硬質的な響きが含まれていた。突き放すような冷たさもあった。彼女は敏感にそのことを感じ取ったのだろう、僕のことを非難するような目で見つめてきた。


「このカニ……どうするの」

「食べるさ」

「どうして?」

「このカニが死んでるからさ」

「死んでいるから食べるの?」

「このカニが仮に生きていたとしても」と僕は言う。「食べるよ。殺してね」

「なんでそんなひどいことをするの?」

「仕方ないんだ。カニっていうのは……そういうものだろう」


 カニは人に食べられるために生まれる。いつか人に捕まえてもらうことを夢見て、海の底をシャカシャカと歩いている。僕の認識はこうだ。残酷かもしれない。だがそれは事実なのだ。僕を含む、多くの人々にとっての事実。あるいはそれは真実ではないのかもしれない。だが多くの人々がそう信じていることは、それはもう、真実と呼んでも差し支えないのではないか。僕はそのように思う。


「僕はカニが好きだ。だから食べる」

「好きなのに食べるの?」

「そういう愛し方もあるんだよ」

「私にはわからない」

「わからなくてもいいさ。すべてを理解する必要なんてどこにもないんだ」

「でも……」


 彼女は迷っているようだった。死んだカニを食べることを。かつて確かに生きていたカニを殺してまで食べることを。そのことに何か正しくないものを感じているようだった。彼女はすでにこの世界になじんでおり、肉も魚も口にするようになっていた。だからカニも大丈夫だろうと思った。僕は好物のカニを彼女と一緒に食べたかったのだ。


「私は反対……このカニを食べるのは。あなたにも、食べてほしくない」


 彼女が自分の気持ちをここまでハッキリと口にするのは珍しいことだった。僕は少し驚くと同時に、なぜか、どうしても彼女の気を変えさせたいと思った。それはあるいはカニを食べる以上に残酷なことなのかもしれなかった。彼女には彼女の主義主張がある。僕は彼女と暮らし始めてから、ずっとそれを尊重してきたつもりだった。でもこれだけはなぜか譲れないような気がした。僕はカニを食べたい。そしてそのことを、彼女にも認めてもらいたい。それはとても必要なことであるように思えた。


「もう死んでるんだ」と僕は言った。「このまま置いておいたら腐るだけだ」

「腐らせればいい」と彼女は言った。「それが自然なこと」

「自然と言うなら、カニを食べるほうが自然だよ。僕の世界には多くのカニ料理があるんだ」

「私が言いたいのはそういうことじゃないの」

「じゃあどういうことなんだ」

「それが言葉で言えたら――」


 彼女は言葉に詰まった。この世界には言葉にできないものが数多く存在する。これもそのひとつであるのかもしれなかった。


「とにかく」と彼女は言った。「私は嫌なの」


 沈黙が僕たちの間を成仏できない魂のようにさまよっていた。世界から言葉が失われたようだった。僕が何かを口にしようにも、それは言葉になりきれずに音もなく崩れていった。張り詰めた空気が肌に突き刺さる。それは物理的な痛みのように僕には感じられる。痛みに耐えながら、僕はうめくように口を開く。


「カニを……食べたいんだ。どうしても。なぜ……それをわかってくれない」


 言葉は空白に吸い込まれたみたいに、彼女の表情に何の反応も起こさなかった。あらゆる表情がぎ落された彼女の顔はまるで能面のように美しく、得体のしれないものとして僕の瞳に映った。


「私にはわからない」


 彼女はぽつりと呟いた。それは単に本音を吐露とろしたにすぎないのだろう。彼女の類まれなる正直さが、その言葉を口にさせたのだ。しかしそれはある種の決意表明のようにも聞こえた。私にはあなたを理解することはできないのだと。これまでもこれからも、未来永劫に渡ってあなたを真に理解することはできないのだと――そう告げているようにも思えた。


 わかっていたことではあるが、僕と彼女の間には埋められない溝があった。それは性差を超えて我々の間に横たわる深く巨大な隔たりであった。


 人は人を理解することはできない。我々はみなどうしようもなく個人なのだ。人々はそれに気づいていないか、目を背けているだけだ。どれだけ深く愛し合ったところで、我々は自分自身からは逃れられない。心まで繋がることはできやしない。改めてそのことを思うと、なんとも言えず空虚な気持ちになった。


「僕にだってわからないよ」


 そう呟くのが精一杯だった。


 彼女はいつの間にか泣いていた。泣きたいのはこちらのほうだった。どうしてカニなんかのことで争わなきゃいけないんだ。もっと何か上手い方法があったのかもしれなかった。誰も傷つけないように、誰も傷つかないようにすることができたのではないだろうか?


 考えてみたが無駄だった。いまの現状は当然の帰結のように思えた。カニが死んでいる以上、僕はそれを食べなくてはならないし、彼女はそのことに何か間違ったものを感じている。両者が歩み寄ることは不可能だった。


 あるいはここで見知らぬ誰かが唐突に現れて、やにわにカニをつかみ、すかさずどこか遠くへと放り投げて、「こんなものがあるから争いが生まれるんだ!」と言ってくれたら、どれだけ救われるだろう。僕たちの間に横たわる種々の問題をすべてまとめてたった一杯のカニに託して解決することができるのだから。だがもちろん、そんなことは期待するべくもない。現実は常に厳しい。他者による救済など望んだところで詮無きことで、我々の問題は結局のところ、我々自身が解決するしかないのだった。


 問題はカニじゃない。それはわかっていた。

 だがそれでも、問題はカニなのだ。


「ニホン人は特にカニが好きで――」


 意を決して、僕は話し始めた。


「世界で一番カニを食べる民族だと言われているし、実際にそうらしい。僕ももちろん好きだ。茹でてもいいし、焼いてもいい。カニクリームコロッケなんかにしてもいいね。調理法も様々だ」


 話しているうちに急激に喉が渇いてきた。口の中がカラカラだった。饒舌じょうぜつを装うことがこんなにも苦痛だなんて思いもしなかった。でも、無理してでもどちらかが明るく振舞わなければ、きっと、ふたりして悲しみに押し潰されてしまうだろう。


「深く考える必要はないんだ。カニは美味しい。だから食べる――それでいいじゃないか」


 長々と内容のない話を続けたあとで、僕はそのように締めくくることにした。会話の内容自体に特に意味はなく、大切なのは僕が彼女のために言葉を尽くしたという事実だった。そのことが彼女を振り向かせるかもしれない。たった一度でもいい、彼女が頷いてくれさえすれば――すべてが元通りになるように思えた。そのことを願い、祈りながら彼女の瞳を見た。だがそこにあったのは深い哀しみと、たとえようもない孤絶こぜつだった。


 こんなにも近くにいるのに、あまりにも彼女が遠くに思えた。僕の言葉は彼女に届かなかった。それはおそらく、言葉というものが不完全だからだった。言葉が伝えることができるのは、結局のところ、ただの言葉にすぎない。それ以上のものを伝えることはできないのだ。


「このカニ……こんなにも冷たい……」


 彼女はそっとカニに触れて呟いた。生命の鼓動を停止したそのカニは、甲殻類の荒々しさがすっかり抜け落ち、どこかしら教会などにおける装飾具のように神聖な雰囲気をまとってそこに鎮座ちんざしていた。それに触れる彼女はまるで聖母のように無限の慈悲に充ちていた。彼女は衷心ちゅうしんよりカニの死を悼んでいるのだ。この世界の理不尽により不当に傷つけられた一杯のカニに対して、深い慈しみを与えているのだ。


 僕は彼女の手を握った。心の温かな人間は手が冷たいというが、彼女も例外ではなかった。カニの死に触れた彼女の手はひどく凍えていた。その冷たさがそのまま僕と彼女との間の温度差であるように思えた。


 僕はカニを冷凍庫にしまうことを提案し、彼女はそれを承諾した。おごそかに冷凍庫に格納されていくカニを見ていると、冷凍庫が遺体安置所のように思えた。これが単なる留保にすぎず、結論の先延ばしでしかないことはわかっていた。だが冷凍することでカニの鮮度と尊厳は充分に保たれるはずだった。いくばくかの猶予が僕たちに与えられたのだ。


 いずれは態度を決めなくてはならない。旗幟きしを鮮明にし、互いの信じるところを忌憚きたんなく論じ合わなければならない。しばらくはカニなんて存在しないかのように振舞うこともできる。だがいつまでもは続かない――続けられない。カニはそこに厳然と存在するのだから。生きていようが死んでいようが、そこにカニがいるという事実から目を背けることはできない。


 あるいはカニが生きていればまだマシだったのかもしれない。


 このカニが死んでいるからこそ、すべてが僕たちの判断に委ねられてしまうのだろう。


 死んだカニの前では誰もが否応なく選択を迫られる。食べるか食べないか、選択肢はふたつしかない。日和見ひよりみは許されない。カニが死ぬというのはそういうことだ。我々は生きている限り、死んだカニに対して選択し続けなくてはならないのだ。




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