第7話:物語の中の敵
「もう一度!」
九条竜胆の厳しい声が陰陽道場に響き渡った。守は汗だくの顔で頷き、再び両手で印を結んだ。指先から淡い金色の光が漏れ出す。
「結界を完成させろ。守りの要点は五つ」
守は集中を深め、目の前にイメージした五芒星の各点に気を送り込んだ。点と点が光の線で繋がり始め、やがて完全な五芒星の結界が形成された。
「よし、その調子だ」
竜胆は満足げに頷いた。修行を始めて三日目、守は急速に力を取り戻しつつあった。
「休憩しましょう」
コンが心配そうに声をかけた。脇には茶器が用意されている。
「ああ、そうだな」
竜胆も同意し、三人は道場の隅に設けられた小さな休憩スペースに移動した。
「守様、お疲れさまです」
コンが丁寧にお茶を注いだ。
「ありがとう」
守は額の汗を拭いながら、深く息を吐いた。三日間の集中修行は肉体的にも精神的にも過酷だったが、その成果は明らかだった。
「驚くほどの上達ぶりだ」竜胆が言った。「基本的な結界術、霊視の技、そして気の操作。すべて短期間で習得するとは」
「それだけ守様の中の晴明様の記憶が鮮明に残っているということでしょう」コンが嬉しそうに言った。
守は熱いお茶を一口すすった。確かに、修行を進めるうちに体が自然と覚えている感覚があった。印の結び方、呪文の唱え方、気の流し方。全て新しく学ぶというより、忘れていたものを思い出すような感覚だった。
「でも、まだまだ不完全だ」守は正直に言った。「晴明のほんの一部の力しか引き出せていない」
「当然だ」竜胆も頷いた。「完全に力を取り戻すには時間がかかる。しかし、現時点でも十分に戦える力はある」
「本当ですか?」
「ああ。特にお前の場合、作家としての想像力と結びついた特殊な力を持っている」
「特殊な力?」
「物語の力だ」竜胆は真剣な表情で言った。「お前が書いた『妖しき陰陽師』は単なる小説ではない。晴明の記憶が物語として表れたものだ。その創造力を陰陽術と融合させれば、新たな力が生まれる」
「物語と陰陽術の融合…」
守は考え込んだ。小説を書くときの没入感や、物語世界を作り上げる感覚。それが陰陽術とどう繋がるのか。
「実は、晴明も物語を力の源としていた」竜胆が続けた。「彼は『言霊』の力を強く信じていた。言葉には魂が宿り、現実を動かす力があると」
「なるほど」コンが頷いた。「晴明様は物語や詩を詠みながら術を行うことも多かったですね」
「そうだ。特に強力な術を使うときは、必ず物語の形で呪文を紡いでいた」
守は自分の手を見つめた。作家として言葉を操る技術と、陰陽師として気を操る能力。その二つが融合すれば…
「試してみたいです」
守は立ち上がり、再び道場の中央に戻った。
「どうすればいい?」
「心の中で物語を紡ぎながら、印を結んでみろ」竜胆が指示した。「お前なりの言葉で、陰陽の理を語れ」
守は深く息を吸い、目を閉じた。物語を書くときのように、心の中で言葉を紡ぎ始める。
『天と地の狭間に立つ者よ。陰と陽の調和を司る者よ。』
心の中で物語が広がるにつれ、体の中の気の流れが変化していくのを感じた。より滑らかに、より力強く。
『光と闇の境界に結界を張り、邪なるものの侵入を防がん。』
両手で複雑な印を結びながら、守は物語を紡ぎ続けた。するとその言葉が現実に影響を与え始めた。体の周りに淡い金色の光が広がり、やがて完全な球状の結界となって守を包み込んだ。
「見事だ!」
竜胆が驚きの声を上げた。コンも目を輝かせて見つめている。
「これが…物語陰陽術」
守は自分の周りに広がる完璧な結界を見て、驚きと喜びを感じた。通常の陰陽術よりも強力で、形も美しい。何より、この力は自分自身のものだと感じられた。晴明の模倣ではなく、守自身の創造力から生まれた力。
「素晴らしい」竜胆は感嘆の声を上げた。「これこそ、お前にしかできない術だ」
「守様…」コンの目に涙が光った。「晴明様の力と、守様ご自身の才能が見事に融合しています」
守はゆっくりと結界を解いた。体から放たれていた光が徐々に消え、道場に日常の静けさが戻る。
「この力があれば、禍津と戦える」
守は自信を持って言った。まだ不安はあるが、ここ三日間の修行で確かな手応えを感じていた。
「では、明日から京都への旅に出よう」竜胆は言った。「封印の書の次の断片を求めて」
「京都…」
守は遠くを見るような目をした。平安京。安倍晴明が活躍した土地。そこには何が待ち受けているのだろう。
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その夜、守は九条堂の二階にある客間で休んでいた。明日からの旅の準備は整い、今は体力を回復させる時間だ。
部屋の窓からは、明かりの灯った神楽坂の夜景が見える。静かな街並みだが、守の心は落ち着かなかった。
「眠れませんか?」
ノックの音と共に、コンの声が聞こえた。
「ああ、入って」
ドアが開き、コンが部屋に入ってきた。いつもの朱色の着物姿だ。
「旅の前は、いつも緊張するものです」
コンは優しく微笑みながら、窓辺に立つ守の隣に立った。
「緊張というより…」守は言葉を探した。「不思議な感覚なんだ。京都に行くと思うと、懐かしさと不安が入り混じるような」
「それは晴明様の記憶でしょう」コンは静かに言った。「平安京での日々の記憶が、少しずつ蘇ってきているのかもしれません」
「そうかもしれないね」
二人は静かに夜景を眺めていた。しばらくして、守が口を開いた。
「コン、聞きたいんだけど…」
「はい?」
「千年もの間、どうやって生きてきたんだ?孤独じゃなかった?」
コンはしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「孤独でした」彼女の声には深い感情が込められていた。「でも、守様…晴明様を再び見つけるという希望があったから、耐えることができました」
「そんなに長い時間…」
「時には人間として暮らし、時には狐の姿で森に隠れ住みました」コンは懐かしむように言った。「時代が変わり、世界が変わっていく中で、ただひとつ変わらなかったのは、ご主人様を探す気持ちだけでした」
守は胸が締め付けられるような思いだった。コンの千年にも及ぶ忠誠と献身。それは人間の理解を超えた感情だ。
「コン、僕は…晴明ではない」守は正直に言った。「彼の魂を持っているかもしれないけれど、僕は安倍守だ。晴明とは違う人間だ」
「わかっています」コンは穏やかに微笑んだ。「守様は守様です。晴明様とは違う方です」
「それでも僕に仕えるのか?」
「はい」コンの黄金の瞳が輝いた。「守様はご自身の人格を持ちながらも、確かに晴明様の魂を宿しています。そして何より…」
彼女は少し照れたように視線を落とした。
「守様は守様として、わたくしにとって大切な方です」
その言葉に、守は言葉を失った。コンの真摯な気持ちが伝わってきた。
「ありがとう、コン」
守はようやくそう言った。二人は再び静かに夜景を眺めた。
「明日からが本格的な戦いの始まりだね」
「はい。禍津日出男も動き始めるでしょう」
「彼の新刊『千年の災厄』…」守は思い出したように言った。「僕も作家として、彼の作品のことは知っている。『闇の囁き』シリーズは恐ろしいほどの没入感がある小説だ」
「その小説を通じて、人々の恐怖を糧にしているのですね」
「ああ。しかも彼の前作は映画化もされた。世界中の人々が彼の作り出す恐怖を体験している」
「それだけ大きな力を集めているということです」コンの表情が暗くなった。「大禍津日神の力は、千年前よりも強くなっているかもしれません」
その言葉に、重い沈黙が二人を包んだ。
「でも、僕たちには僕たちの力がある」守は決意を込めて言った。「物語陰陽術…僕だけの力を極めていく」
「はい」コンも頷いた。「わたくしも全力でお支えします」
その時、急に部屋の空気が変わった。窓の外から、何かが二人を見ているような感覚。
「守様、気配がします」
コンが警戒の表情になった。守も感じた。何者かの視線。
ゆっくりと窓に近づき、外を見ると、屋根の上に一羽のカラスが止まっていた。しかし、その目は普通のカラスのものではなく、赤く光っていた。
「あれは…」
「式神です」コンが緊張した声で言った。「誰かの使いです」
守は本能的に手を動かし、結界を張ろうとした。しかし、その前にカラスは羽ばたき、夜空に消えていった。
「見られていたな」
「はい。おそらく…」
「禍津の式神だろう」守は確信を持って言った。「彼も我々の動きを探っているんだ」
これが本当の戦いの始まりだ。禍津日出男と安倍守、千年の時を超えた宿敵同士の新たな戦いが。
「明日に備えて休もう」守は言った。「長い旅になる」
コンは頷き、丁寧に一礼して部屋を出て行った。
守は窓を閉め、布団に横になった。明日から京都へ。封印の書の第二の断片を求めて。
目を閉じると、不思議な夢の断片が浮かんできた。平安京の街並み。白装束の晴明と、その傍らにいる若きコンの姿。そして遠くに立つ、黒い衣を纏った男の後ろ姿。
夢と記憶が交錯する中、守はようやく眠りについた。
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翌朝、神楽坂の駅に三人の姿があった。守、コン、そして九条竜胆。京都行きの新幹線に乗るため、ホームで待っていた。
「竜胆さんも一緒に来るんですか?」
守は少し驚いた様子で尋ねた。年老いた陰陽師が旅に同行するとは思っていなかった。
「ああ」竜胆は頷いた。「京都には古い知り合いがいる。封印の書の手がかりを探す助けになるだろう」
コンは現代的な服装に身を変え、普通の女性観光客のように見えた。しかし、その黄金の瞳だけは特殊な術で茶色に見せていた。
「電車の中ですが、これを読んでおきなさい」
竜胆は守に一冊の本を手渡した。『京都陰陽道史跡案内』と題された本だ。
「これには晴明ゆかりの地が詳しく書かれている」竜胆は説明した。「特に六勝寺跡、晴明神社、そして一条戻橋。これらの場所は、封印の書と関連があるかもしれない」
「わかりました」
守は本を開き、ページをめくり始めた。すると、京都の地図や写真を見ているうちに、不思議な感覚が湧き上がってきた。見知らぬはずの場所なのに、どこか懐かしい。かつて自分が歩いた道のような。
「思い出しましたか?」コンが小声で尋ねた。
「いや、完全にではないけど…」守は言葉を探した。「何となく知っているような感覚があるんだ」
「それだけでも良いことです」コンは嬉しそうに言った。「京都の地に足を踏み入れれば、もっと多くの記憶が蘇るかもしれません」
新幹線が到着し、三人は車内に乗り込んだ。窓側の席に座った守は、本を読みながらも、時折外の風景に目をやった。東京から京都へ。現代から過去へ。自分の中の晴明の記憶を求める旅が始まった。
「竜胆さん、一つ気になることがあるんです」
守は小声で尋ねた。
「なんだ?」
「昨夜、禍津の式神らしきカラスが見ていました。彼も我々の行動を把握しているかもしれません」
「承知している」竜胆は冷静に答えた。「奴は常に我々の動きを探っているだろう。特に、お前が力を取り戻しつつあることに警戒しているはずだ」
「京都でも危険が待ち受けていますか?」
「間違いない」竜胆の表情が引き締まった。「京都は妖怪の巣窟でもある。特に古都の力が強い場所では、妖怪も力を増す」
守は窓の外を流れる風景を見つめた。東京の高層ビル群が遠ざかり、次第に山や川の自然の景色が広がっていく。
「でも、京都にはもう一つの力もある」竜胆が続けた。「千年の歴史と共に積み重ねられた守りの力だ。神社仏閣の結界、陰陽道の跡。それらが我々を助けてくれるだろう」
コンも頷いた。
「わたくしも京都では少し力が増します。九尾の血を引く者にとって、古都は力の源泉となる場所ですから」
「そうか」守は少し安心した。
新幹線の車窓からは、富士山の雄大な姿が見えてきた。
「富士山…」
守は思わず呟いた。すると脳裏に、突然の映像が浮かんだ。
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**<記憶の断片>**
晴明と若きコンが富士山を遠くに望む丘に立っていた。
「この山にも神が宿る」
晴明が静かに言った。
「勢いよく立ち上る煙は、山の怒りの表れ」
「晴明様、この山も妖怪が潜んでいるのですか?」
若きコンが尋ねた。
「ああ、しかし全てが悪しきものではない。この国の山や川、森には八百万の神々が宿る。その均衡を保つことも、陰陽師の務めだ」
---
**<現在>**
「守様?大丈夫ですか?」
コンの声に、守は我に返った。
「ああ、記憶の断片が…」
「何を見ましたか?」
「富士山を見る晴明とコン…君だ」守は静かに言った。「晴明が八百万の神々について語っていた」
コンの目が輝いた。
「覚えています!あれは晴明様が二十三歳の頃でした。富士山に住まう神々を鎮めるための儀式の帰り道でした」
「本当に記憶なんだ…」
守は自分の脳裏に浮かんだ映像が、実際の過去の出来事だったことに改めて驚いた。これは単なる空想や夢ではない。本物の記憶なのだ。
竜胆は満足げに頷いた。
「記憶は場所と結びついている。京都に近づくにつれ、より多くの記憶が蘇るだろう」
守はもう一度窓の外を見た。富士山は既に遠ざかり、新幹線は西へと進んでいた。
「京都で僕は何を見るんだろう」
「晴明の足跡」竜胆が答えた。「そして、封印の書の手がかりを」
新幹線は静かに、しかし確実に目的地へと近づいていった。守の中では、晴明の記憶と守自身の思いが混ざり合い、新たな力として形を成しつつあった。
物語陰陽術。それが彼の武器だ。そして、物語を操る者同士の戦い。守と禍津日出男の戦いは、まさに物語の力をかけた戦いなのかもしれない。
「禍津日出男…大禍津日神」
守は心の中でその名を呟いた。千年の時を超えた宿敵。彼の書く物語と、自分の物語が激突する。その行方は未だ見えない。
新幹線は西へ、西へと進み続けた。