第5話:覚醒の兆し
上野駅を出た守とコンは、人混みに紛れながら国立博物館に向かって歩いていた。守の腕に抱えられた木箱が時折、かすかに温かくなる。中に納められた晴明の遺品が反応しているようだった。
「大丈夫ですか?」コンが心配そうに守を見上げた。
「ああ、なんとか」
守は無理に微笑んだが、その顔は疲労と緊張で引きつっていた。神楽坂での妖怪との戦いは、肉体よりも精神に大きな負担をかけていた。自分が妖怪と戦い、それを退治したという現実が、まだ完全には受け入れられずにいた。
「あれが国立博物館か」
広大な上野公園の一角に建つ荘厳な建物が見えてきた。平日の午前中だというのに、観光客や学生たちでにぎわっている。
「九条様の言葉が正しければ、中に封印の書があるはずです」
コンの声には期待と緊張が混ざっていた。
「でも、どうやって『古事記異本』を見せてもらうんだ?」守は不安げに言った。「貴重な文化財だろう。一般の人間が簡単に見られるものじゃない」
「その点は…」コンは少し困ったように顔をしかめた。「確かに難しいかもしれません」
二人は博物館の入り口に立ち、チケットを購入して中に入った。広い展示室には、日本の歴史を物語る数々の遺物が並んでいる。
「まずは古文書コーナーを探そう」
守の提案に、コンは頷いた。二人は館内を進み、古代日本の展示エリアへと向かった。
「あっ」
コンが突然足を止め、ガラスケースの中の展示物を見つめた。そこには「平安時代の陰陽道関連資料」という札と共に、いくつかの古文書や道具が展示されていた。
「晴明様のものですね」
コンの目が輝いた。展示の中には「安倍晴明作とされる五行占星盤」という品があった。
「僕の…いや、晴明のものか」
守も驚いて見入った。五芒星の形をした天体観測用の器具。それを見た瞬間、不思議なことに使い方がわかるような気がした。
「しかし、封印の書らしきものは見当たりませんね」
コンが展示を見回しながら言った。二人はさらに奥へと進み、「古事記・日本書紀関連資料」のコーナーに到達した。
「ここにあるはずだ」
守が目を凝らしてガラスケースの中を探していると、一冊の古びた本に目が留まった。「古事記異本断片(平安後期写本)」という説明書きがある。一般的な古事記とは異なり、特殊な文字や図形が描かれているのが見て取れた。
「あれだ…」
守の声が震えた。その本を見た瞬間、頭の中に鮮明な映像が浮かんだ。山頂で晴明が同じ本を開き、呪文を唱える姿。大禍津日神の名を封じるための儀式。
「間違いありません」コンも興奮した様子で頷いた。「あれが封印の書の一部です」
「でも、どうやって?」
守は途方に暮れた。ガラスケースの中にある国宝級の文化財。それをどうやって調べればいいのか。
「ちょっと待ってください」
コンが何かを思いついたように言った。
「霊鏡があれば…」
「霊鏡?」
「はい。霊鏡は物の真の姿を映し出すことができます。もしかしたら、ガラス越しでも封印の書の内容を読み取れるかもしれません」
守は周囲を見回した。幸い、このコーナーには他の観覧客はいない。
「試してみるか」
守はそっと木箱から霊鏡を取り出した。小さな五芒星の鏡。これを使って、ガラスケース越しに古事記異本を見るつもりだ。
「どうやって?」
「霊鏡を古事記異本に向けて、心の中で『真実を映せ』と念じてください」
守は言われた通りにした。霊鏡を古事記異本に向け、心の中で強く念じる。すると、鏡の表面が靄がかかったように曇り始め、そこに文字が浮かび上がってきた。
「見える…」
守は驚きの声を漏らした。鏡の中には、古事記異本の内容が鮮明に映し出されていた。しかも普通の文字ではなく、まるで解読されたかのように現代語で読めるのだ。
「これは…大禍津日神の封印術」
コンが小声で言った。守も鏡に映る文字を読んでいく。
「大禍津日神の真名を知る者は、その力を支配できる…真名を記し、五行の印を結び、北斗七星の陣を描けば、その力を封じることができる…」
神秘的な呪文と共に、複雑な陣形の図も見えた。五芒星を基本とした印と、北斗七星の配置を模した陣だ。
「これだ!」守は興奮して言った。「これがあれば大禍津日神を…」
しかし、文章はそこで途切れていた。
「続きがない…」
「ここにあるのは断片だけのようです」コンが残念そうに言った。「封印の術の全容を知るには、他の部分も必要です」
「他の部分?どこにあるんだ?」
「それは…」
コンの言葉が途中で止まった。彼女の表情が急に警戒の色に変わる。
「どうした?」
「気配がします」コンは小声で言った。「妖怪の…しかも強い」
守も緊張して周囲を見回した。しかし、展示室には二人以外誰もいないように見える。
「どこに?」
「近づいています…」
コンの言葉が終わらないうちに、突然、展示室の空気が重くなった。まるで誰かが息の根を止めようとするかのような圧迫感。そして、入り口の方から足音が聞こえてきた。
軽快なタップの音。革靴が大理石の床を打つ音が、静かな展示室に響き渡る。
入り口から現れたのは、一人の男だった。黒いスーツに身を包み、スタイリッシュな眼鏡をかけた四十代と思われる男性。一見すると知的で洗練された雰囲気の持ち主だが、その目は不自然なほどに鋭く、冷たい光を放っていた。
「禍津日出男…」
守は思わず名前を口にした。大禍津日神の転生者。かつて晴明と相打ちとなった宿敵が、今、目の前に立っている。
「やあ、安倍守君」
禍津はにこやかに微笑んだ。その声は低く落ち着いていて、小説家らしい言葉の抑揚があった。
「どうやってここに?」
「君を追ってきたんだよ」禍津は肩をすくめた。「九条老人は意外と簡単に場所を教えてくれたよ」
「九条さんが!?」守は驚いて声を上げた。
「あの老人、見かけによらず頑固でね」禍津の表情に冷たい笑みが浮かんだ。「少し説得が必要だったけど」
その言葉に込められた意味を理解し、守の背筋に冷たいものが走った。九条老人に何かあったのか…
「何をした!」
「心配しなくても死んではいないよ」禍津は軽く手を振った。「ただ、しばらく目を覚まさないだけさ」
コンが守の前に立ちはだかり、警戒の姿勢を取った。
「大禍津日神…」
「ほう、九尾の眷属か」禍津は興味深そうにコンを見た。「千年前の戦いで、あのときの狐娘と同じ気配がする。まさか、同一人物か?」
「わたくしは金色姫」コンは堂々と名乗った。「晴明様に仕えた者です」
「なるほど」禍津は納得したように頷いた。「だから守君の力が急速に覚醒しているのか。君が導いているんだな」
「何の用だ」守は震える声で尋ねた。木箱を強く抱きしめながら、霊鏡を握りしめている。
「何の用も何も」禍津はゆっくりと二人に近づいてきた。「僕たちには因縁があるだろう?千年前の決着がついていない戦いがね」
「僕は晴明じゃない」守は反論した。「ただの小説家だ」
「そうかな?」禍津は首を傾げた。「その手に持っている霊鏡は、確かに反応しているようだが」
守は驚いて霊鏡を見た。確かに鏡は淡く光り、温かさを放っている。
「君が認めようが認めまいが、君は安倍晴明の転生だ」禍津は断言した。「そして僕は大禍津日神。千年の時を経て、再び相見えることになった宿敵同士さ」
「なぜ…こんなことに」守は困惑した様子で言った。「なぜ千年も因縁を持ち続ける必要があるんだ?」
「それが運命だからさ」禍津は肩をすくめた。「僕たちの魂には、決着をつけなければならない因縁が刻まれている。それは変えようがない」
「なぜ人々を苦しめる?」守は怒りをにじませた。「言霊喰いや死霊の手、屍糸婆…なぜそんな妖怪を使って人々を襲うんだ?」
「力だよ」禍津の目が赤く光った。「人々の恐怖や絶望は、僕の力の源。『闇の囁き』シリーズを読んだことがあるかい?」
「ある」守は頷いた。「人々の恐怖心を巧みに操る心理サスペンス小説だ」
「その通り」禍津は得意げに言った。「あれは単なる小説ではない。読者の心に恐怖を植え付け、その感情を収穫するための装置さ。一冊出版するごとに、何万人もの恐怖が僕に流れ込んでくる」
「読者を利用しているのか…」
「利用というのは聞こえが悪いな」禍津は笑った。「互いにWin-Winの関係だよ。読者は良質なスリルを味わい、僕は力を得る。出版社は売上を上げ、みんな幸せさ」
「でも、それだけじゃない」守は言い返した。「妖怪を操って人々を襲っている」
「ああ、それはね」禍津は少し残念そうに言った。「力を完全に取り戻すには、生の恐怖も必要なんだ。小説だけでは足りないのさ」
守は怒りで体が震えた。目の前にいるのは、人々の恐怖を糧にし、妖怪を操って無辜の人々を襲う男。それが大禍津日神の正体だ。
「許さない…」
守の言葉に、禍津は楽しそうに笑った。
「まだ力も十分に取り戻していない君に、何ができるというんだい?」
「それは…」
守は言葉に詰まった。確かに、まだ自分の力は目覚めたばかり。禍津日出男の圧倒的な存在感と比べれば、雲泥の差がある。
「今回は挨拶だけにしておくよ」禍津は腕時計を見た。「それに、ここで戦うのは賢明ではない。国宝を傷つければ、警察がうるさくなる」
「逃がしませんよ」
コンが両手を前に出し、狐火を纏い始めた。青白い炎が彼女の指先から漏れ出す。
「おや、戦う気かい?」禍津は面白そうに言った。「いいだろう、手加減はしないよ」
禍津がゆっくりと手を上げると、彼の周りに黒い霧のようなものが立ち込め始めた。展示室の空気が一層重くなり、ガラスケースが軋むような音を立てる。
「やめろ!」守は叫んだ。「ここで戦えば、文化財が…」
「それが心配なら、さっさと出ていくといい」禍津は挑発的に言った。「僕が欲しいのは封印の書だからね」
「封印の書を渡すわけにはいきません」コンは毅然とした声で言った。
「ならば…」
禍津の手が動いた瞬間、黒い霧が矢のようにコンに向かって飛んだ。コンは咄嗟に狐火で迎撃するが、霧はそれを簡単にすり抜け、彼女の体を直撃した。
「うっ!」
コンが膝をつく。
「コン!」
守が駆け寄ろうとした時、禍津の笑い声が響いた。
「陰陽師として覚醒してないなら、まだ僕の敵ではないようだな」
守は震える手で木箱から五行の札を取り出した。赤い札、火の力だ。
「火の理、邪を焼く!」
守が札を投げると、赤い炎が放たれ、禍津に向かって飛んでいった。しかし、禍津は軽く手を払うだけで、炎を消し去った。
「まだまだだな」禍津は呆れたように言った。「これでは千年前の晴明の足元にも及ばない」
そして、禍津の指が守に向けられた。黒い霧が渦を巻き、守に襲いかかる。咄嗟に守は霊鏡を掲げたが、霧は鏡を避けるように周囲を包み込んだ。
「うっ…苦しい…」
霧に触れた部分から、まるで生命力を吸い取られるような感覚が走る。足から力が抜け、守はその場に崩れ落ちた。
「守様!」
コンが必死に声を上げたが、彼女自身も黒い霧に囚われ、動けない状態だった。
「さて、封印の書をいただこうか」
禍津がゆっくりと古事記異本の展示ケースに近づいた。彼の手が黒い霧に包まれ、ガラスケースに触れる。すると、ガラスが黒く変色し、まるで溶けるように変形していく。
「やめろ!」
守は必死に叫んだが、体が言うことを聞かない。この状況をどうすることもできないという絶望感が胸に広がる。
「千年前も、こんな風だったな」禍津は思い出すように言った。「晴明が倒れ、君が必死に守ろうとした。でも、結局は両方とも力尽きた」
禍津の手がガラスケースの中に伸び、古事記異本に触れようとした瞬間、不思議なことが起きた。
本が淡く光り始めたのだ。
「なんだ?」
禍津が驚いた表情を見せる。光は次第に強まり、やがて耐えられないほどの輝きとなった。その光に、黒い霧が焼き払われていく。
「くっ…」
禍津が顔を背けた隙に、守は残った力を振り絞って立ち上がった。手には霊鏡を握りしめている。
「古事記異本は…封印の書は、お前には触れさせない!」
守の叫びと共に、霊鏡から金色の光が放たれた。その光は禍津を直撃し、彼を展示室の壁まで吹き飛ばした。
「まさか…」禍津は驚きの表情を浮かべた。「力が覚醒し始めたというのか」
守自身も驚いていた。自分の体から放たれた力は、これまでとは比べものにならない強さだった。まるで体の奥底から、眠っていた力が湧き上がってきたかのように。
「さすがは晴明の転生」禍津は壁から身を起こしながら言った。「これは予想外だった。今日のところは引き下がるよ」
「逃がさない」
守が一歩踏み出したとき、禍津の姿がゆらめき始めた。まるで実体がないかのように、彼の姿が靄のように薄くなっていく。
「また会おう、安倍守」禍津の声だけが残った。「次は本気で戦わせてもらうよ」
そして、彼の姿は完全に消え去った。
展示室には静寂が戻り、空気の重さも消えた。守はその場に膝をつき、荒い息をついた。
「守様…」
コンがよろめきながら近づいてきた。彼女も黒い霧の影響で弱っているようだった。
「大丈夫か?」
「はい…なんとか」コンは弱々しく微笑んだ。「でも、守様は…素晴らしかった」
「僕が?」
「はい」コンの目に感動の色が宿った。「今の光は、まさに晴明様の力。守様の中の晴明様の魂が、危機を感じて目覚めたのでしょう」
守は自分の手を見つめた。さっきまで金色の光を放っていた手は、今は普通の作家の手に戻っていた。しかし、どこか違う感覚がある。体の中で何かが目覚め、流れ始めたような感覚。
「これが…晴明の力か」
「はい」コンは頷いた。「少しずつですが、確実に覚醒しています」
守は立ち上がり、ガラスケースに近づいた。禍津の攻撃で一部が溶けかけていたが、中の古事記異本は無事のようだった。
「封印の書は守られた」
コンも安堵の表情を見せた。
「しかし、完全な封印の術を知るには、他の部分も必要です」
「他の部分…」
守は考え込んだ。禍津日出男との戦いは始まったばかり。次は本気で来るだろう。その時までに、もっと力を取り戻し、封印の術を完成させなければならない。
「九条さんが心配だ」守は突然思い出したように言った。「急いで神楽坂に戻ろう」
「はい」
二人は足早に展示室を後にした。幸い、騒ぎを聞きつけた警備員が来る前に退出できた。
博物館を出た二人は、上野駅に向かって急いだ。
「今日のことで、僕自身も何かが変わった気がする」
守は歩きながら言った。
「体の中で、力が流れている感覚がある。そして、記憶の断片が増えてきた気がする」
「それは素晴らしいことです」コンは嬉しそうに言った。「守様の中の晴明様が、少しずつ目覚めているのです」
「でも、僕は僕のままでいたい」守は複雑な表情を見せた。「晴明の力を得ても、安倍守としての記憶や人格を失いたくはない」
コンはしばらく黙っていたが、やがて優しく微笑んだ。
「大丈夫です」彼女は静かに言った。「守様は守様。晴明様の魂を持っていても、今のこの時代に生きる安倍守様です」
その言葉に、守は少し安心した。
「とにかく、今は九条さんを助けなければ」
守は足早に駅に向かった。木箱を抱え、心の中で霊鏡の温かさを感じながら。
背後には、上野の街並みと国立博物館が夏の陽光を浴びて輝いていた。そして前方には、未知の戦いと、解き明かすべき封印の書の謎が待ち受けていた。