第3話:千年前の記憶
朝靄が神楽坂の路地を包む早朝、守の部屋では既に活気ある声が響いていた。
「もう一度、同じ動きで」
コンの指示に従い、守は両手で印を結び、細やかな指の動きを繰り返した。
「天、地、人、陰、陽…」
守が呪文を唱えると、指先から淡く金色の光が漂い始めた。
「素晴らしいです、ご主人様」コンが嬉しそうに微笑む。「わずか一晩でこれだけの上達とは」
守は疲れた表情で手を下ろした。昨夜からほとんど眠っていない。コンに教わった基礎的な陰陽術を必死で練習してきたのだ。
「信じられないよ」守は自分の手を見つめた。「本当に僕にこんなことができるなんて」
「当然です」コンは当たり前のように言った。「あなた様は安倍晴明の魂を持つ方なのですから」
守は窓の外を見た。夜明けの街はまだ静かで、昨夜の妖怪騒ぎは嘘のようだ。「死霊の手」と呼ばれる妖怪は、守が咄嗟に張った結界で撃退したが、あれは一時的なものにすぎない。
「今日は古書店の休みだ」守は立ち上がった。「もっと詳しく教えてほしい。僕と晴明のこと、大禍津日神のこと、そして…君のことを」
コンは少し驚いた様子で守を見た。
「わたくしのことですか?」
「ああ」守は頷いた。「千年もの間、どうやって生きてきたんだ?そして、なぜそこまでして…晴明、いや僕に仕えようとするんだ?」
コンは静かに目を閉じ、深呼吸をした。
「お話しします。全てを」
---
二人は朝食を済ませた後、部屋の中央に向かい合って座った。テーブルの上には九条老人から借りた『平安陰陽道秘伝集』と、守が書いた原稿「妖しき陰陽師」が並んでいる。
「まず、千年前にさかのぼりましょう」
コンが語り始めると、その声は不思議と部屋の空気までも変えていくようだった。
「平安時代中期、都では怪異が相次いでいました。疫病、飢饉、貴族の間での祟り…その裏では、大禍津日神が力を増しつつあった時代です」
コンの言葉に合わせ、まるで見えない映像が流れるかのように、守の脳裏に情景が浮かんできた。
---
**<千年前・平安京>**
雪の降りしきる冬の夜。十歳になったばかりの少年・晴明は、師匠の賀茂忠行から許されて初めて一人で陰陽寮の外に出ていた。雪に覆われた森の中、何かが呼んでいるような気配を感じ、少年は足を進める。
「誰かいるのか?」
少年の声に応えるように、木々の間から微かな呻き声が聞こえた。近づいてみると、雪の上に小さな姿が横たわっている。
血に染まった白い毛並み。それは子狐だった。
「怪我をしているのか」
少年は恐る恐る手を伸ばす。すると、子狐はゆっくりと目を開いた。黄金色の瞳。少年は息を呑んだ。
「九尾…」
幼いながらも、陰陽師の修行を始めていた少年には、この子狐が並の獣ではないことがわかった。九尾の狐の末裔。神聖な霊獣であり、強大な力を持つ存在だ。
「人間に…追われて…」
弱々しい声が少年の頭の中に直接響いた。
「お前、話せるのか」
「霊力のある…人間には…」
子狐は苦しそうに息をする。傷は深く、このままでは命が危ない。
少年は決断した。袖から護符を取り出し、呪文を唱える。初歩的な癒しの術だが、少年の中には並外れた才能が眠っていた。護符が淡く光り、子狐の傷が少しずつ塞がっていく。
「大丈夫だ、もう安全だ」
少年は上着を脱ぎ、子狐を包み込んだ。
「なぜ…助けてくれるの?」
「なぜって…困っていたからだ」
少年の無邪気な答えに、子狐は黄金の瞳を見開いた。
「お前の名前は?」
「安倍晴明だ。陰陽師の修行中でね」少年は胸を張った。「お前は?」
「わたくしは…金色姫…」
そう答えたとき、子狐の姿がゆらめき、代わりに十歳ほどの少女の姿が現れた。長い黒髪と金色の瞳を持つ美しい少女だ。ただし、弱々しくぐったりとしていた。
「金色姫…」少年は驚きつつも、名前を繰り返した。「よし、金色姫。僕の家に行こう。そこで休むといい」
「ご恩は…必ず返します…」
少女はそう言って、再び気を失った。少年はそっと彼女を抱き上げ、雪道を歩き始めた。
---
**<現在>**
「それが、わたくしと晴明様の出会いでした」
コンの静かな語りに、守は聞き入っていた。不思議なことに、その光景が自分の記憶のように鮮明に思い浮かぶ。
「その後、金色姫…君はどうなったんだ?」
「晴明様の家で養われ、やがて陰陽術を学ぶようになりました」コンは懐かしむように微笑んだ。「晴明様は並外れた才能を持ち、わずか十歳にして既に多くの術を会得していました。わたくしも晴明様から多くを学びました」
「狐としての力は?」
「九尾の血を引くわたくしには、生まれつき妖力がありました。しかし、それを陰陽術と融合させることで、より強力な力を使えるようになったのです」
守は思わず小説の原稿に目を向けた。確かに「妖しき陰陽師」の中でも、主人公の晴明には金色姫という狐の少女の相棒がいて、共に妖怪と戦うシーンを書いていた。
「僕の小説と同じだ…」
「はい。あなた様の魂の記憶が、物語を通して表れていたのです」
コンは続けた。
「晴明様が成長するにつれ、その名声は都中に広まりました。十六歳で正式に陰陽師となり、二十歳で陰陽頭に推挙される。あらゆる怪異を退治し、朝廷からも信頼される存在となったのです」
「そして、大禍津日神との戦いが…」
コンの表情が暗くなった。
「はい。晴明様が二十五歳の時でした」
---
**<千年前・平安京>**
都は恐怖に包まれていた。突然の疫病、作物の枯死、そして夜ごと増える行方不明者。その裏には、「大禍津日」と呼ばれる謎の集団がいると噂されていた。
「晴明様、また新たな被害です」
十五歳になった金色姫は、晴明に報告した。彼女は既に立派な少女に成長し、晴明の最も信頼できる相棒となっていた。
「場所は?」
「今度は東の市です。夜になると黒い影が現れ、人々を襲うと」
晴明は顔をしかめた。二十五歳になった彼は、都で最も有名な陰陽師となっていた。背は高く、凛とした気品があり、黒髪は肩まで伸ばしていた。白い狩衣に烏帽子姿は威厳に満ちている。
「行くぞ、コン」
晴明は金色姫をそう呼んだ。幼い頃につけた愛称だ。
「はい、晴明様」
二人は東の市に向かった。夕暮れ時、市場は閑散としていた。恐怖に怯える人々は早々に家に戻ってしまうのだ。
「来るぞ」
晴明が警戒するように周囲を見回した時、突然、地面から黒い霧が湧き上がった。霧は渦を巻き、次第に人の形に凝縮していく。
「あれが…」
黒い装束の男が現れた。しかし、その姿は人間とは思えない不気味さを纏っていた。顔は白い能面のように無表情で、その目だけが血のように赤く光っている。
「安倍晴明か」
男の声は低く、まるで複数の声が重なったような不気味な響きだった。
「お前が大禍津日の首領か」晴明は冷静に問いかけた。
「我が名は大禍津日神」男は告げた。「災厄と混沌を司る者だ」
「何のために都の人々を苦しめる」
「力だ」大禍津日神はにやりと笑った。「人の恐怖、絶望、苦しみは最高の糧となる。そして、お前のような陰陽師の魂は特に美味だ」
「許さん」
晴明は袖から護符を取り出し、印を結んだ。コンも彼の横に立ち、狐火を纏いながら身構える。
「来い、我が式神たちよ」
晴明の呪文と共に、十二体の式神が現れた。風神、雷神、水神…あらゆる自然の力を操る存在たちだ。
「いいぞ、お前の全力を見せてくれ」
大禍津日神は余裕の表情で言うと、突然、地面が割れ、無数の黒い影が這い出てきた。死者の魂を操る死霊術だ。
「コン、右側を頼む」
「承知しました!」
コンは狐火を操り、死霊の群れに突進した。その動きは素早く、黄金の瞳が闇の中で光る。
晴明は式神たちと共に大禍津日神に挑んだ。複雑な印を結び、呪文を次々と唱える。金色の光が闇を切り裂き、大禍津日神を包み込む。
「なかなかやるな」大禍津日神は笑った。「だが、これでどうだ」
彼が手を翳すと、突然、晴明の式神たちが苦しみ始めた。まるで内側から腐食していくように、式神たちの姿が歪んでいく。
「式神返し…」
晴明は驚愕した。自分の式神を乗っ取る高度な術だ。
「晴明様!」
コンが叫ぶ声。死霊たちを倒し終え、彼女は晴明の元へ駆けつけようとしていた。だが、その時、大禍津日神の影が突然伸び、晴明を捕らえた。
「我が呪いを受けよ、陰陽師」
大禍津日神の赤い目が燃え上がり、黒い霧が晴明を包み込んだ。強烈な痛みに、晴明は身体を硬直させた。
「晴明様!」
コンは必死に駆け寄り、その身体を晴明と大禍津日神の間に投げ出した。
「愚かな狐め」
大禍津日神の呪いがコンを直撃する。彼女は悲鳴を上げ、地面に崩れ落ちた。
「コン!」
晴明の叫びが夜の闇に響いた。
---
**<現在>**
「その後の記憶は…断片的です」
コンは少し息を整えながら言った。物語を語ることで、彼女自身も当時の感情を追体験しているようだった。
「わたくしは重傷を負いましたが、それでも晴明様を守るため、最後の力を振り絞りました」
「最後の力?」
「九尾の血に眠る真の力です」コンの目がわずかに潤んだ。「わたくしは自らの九尾の力を封印し、その力で晴明様を守る結界を張りました」
「それが…君が人間の姿になった理由なのか」
「はい。九尾の力を失った代償として、わたくしは完全な狐の姿に戻れなくなりました」
守は言葉を失った。コンの犠牲の大きさに胸が締め付けられる。
「そして、晴明…いや、僕はどうなったんだ?」
「晴明様は力を取り戻し、大禍津日神との最終決戦に挑みました」コンは続けた。「それは凄まじい戦いでした。陰陽道史上最大の決戦と言われています」
「結果は?」
「相打ちでした」コンの声は静かだった。「晴明様と大禍津日神、両者は共に命を落としました。しかし、最後の瞬間、二人は契りを交わしたのです」
「必ず転生して決着をつける…という」
「はい。大禍津日神の呪いも、晴明様の誓いも、両者の魂に深く刻まれました。そして、その因縁が千年の時を経て、今ここに現れたのです」
守は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。朝日が神楽坂の石畳を照らし、日常の風景が広がっている。あまりにも平和な光景の中で、千年前の因縁と戦いの物語を聞くことの現実感のなさ。
「信じがたい話だ…」
「無理もありません」コンも立ち上がり、守の横に立った。「ですが、あなた様自身が既に力を使っているではありませんか。言霊喰いとの戦い、死霊の手からの結界。それらは全て晴明様の魂が呼び覚ました力です」
守は自分の手を見つめた。確かに、この二日間で自分は「普通の人間」では説明できないことをしていた。火を操り、結界を張り、妖怪を撃退した。
「仮に、僕が本当に晴明の転生だとして」守は慎重に言葉を選んだ。「大禍津日神も現代に転生しているということは、誰かの中に宿っているということだよな?」
「はい」
「誰だかわかるのか?」
コンは首を横に振った。
「まだです。ただ、その気配は確かに感じます。都内のどこかに…」
「それで、僕らはどうすればいいんだ?」
「力を取り戻すのです」コンは真剣な眼差しで守を見た。「晴明様としての記憶と力を呼び覚まし、大禍津日神が完全に復活する前に見つけ出さねばなりません」
守は深く息を吐いた。全てを一度に受け入れるのは難しい。しかし、この二日間の出来事は、コンの話が真実である可能性を強く示していた。
「わかった。少しずつ進もう」
守が言うと、コンの顔に安堵の表情が広がった。
「ありがとうございます、ご主人様」
「だけど、一つ条件がある」
「何でしょう?」
「ご主人様」と呼ぶのはやめてくれないか?少し…落ち着かないんだ」
コンは少し驚いたが、すぐに微笑んだ。
「わかりました。では…守様と呼ばせていただきます」
「それでいい」守も微笑んだ。「さて、どこから始めればいいんだ?」
「まずは基礎的な陰陽術の習得から」コンは本を手に取った。「そして、あなた様の書かれた小説『妖しき陰陽師』も重要な手がかりになるでしょう」
「僕の小説が?」
「はい。前世の記憶が自然と物語として現れたものなら、大禍津日神についての手がかりも含まれているかもしれません」
守は思わず自分の原稿を手に取った。まだ完成していない「妖しき陰陽師」。その結末がどうなるのか、自分自身もわかっていなかった。
「一緒に読んでみよう」
コンは頷き、二人は原稿を広げ始めた。守が創作したはずの物語の中に、実は千年前の記憶が隠されているかもしれないと思うと、不思議な感覚だった。
しかし、読み進めるうちに、守の頭に鋭い痛みが走った。
「うっ…」
「守様、大丈夫ですか?」
コンが心配そうに覗き込む。守の視界が揺らぎ、突然、まるで映画のシーンのように鮮明な映像が脳裏に浮かんだ。
---
**<記憶の断片>**
風雨の中、晴明とコンは山の頂上に立っていた。二人の周りには複雑な五芒星が描かれ、その中心に一冊の本が置かれている。
「この封印の書に、大禍津日神の名を閉じ込める」
晴明が厳かな声で言った。
「これで勝てますか?」
コンが不安そうに尋ねる。
「いや、彼の真の名を知らねば完全な封印はできん。だが、これで時間を稼げる」
晴明は複雑な印を結び、本に向かって長い呪文を唱え始めた。本が淡く光り、風雨が一層激しくなる。
「晴明様、気をつけて!」
コンの警告の声。晴明の背後から、黒い影が迫っていた。
---
**<現在>**
「守様!守様!」
コンの呼びかけで、守は我に返った。額に汗が滲み、呼吸が荒くなっている。
「今、見えたんだ…」守は震える声で言った。「山の上で、晴明とコンが…封印の書というものを使って…」
コンの顔色が変わった。
「封印の書…」彼女は驚きの表情で呟いた。「まさか、覚えているのですか?」
「いや、断片的に…だが確かに見えた」
「それは重要な記憶です」コンの声は興奮を含んでいた。「封印の書は、大禍津日神の力を一時的に封じるために晴明様が作られた秘宝です。もし、その記憶が戻ってきたのなら…」
「どうしたんだ?」
「その本は今も存在するはずです」コンは真剣な面持ちで言った。「晴明様は死の直前、封印の書を弟子に託しました。そして、その書は代々、安倍家の末裔によって守られてきたはずです」
「安倍家の末裔…」守は考え込んだ。「僕の家系か?でも、父はただのサラリーマンで、祖父も農家だった。陰陽師の伝統なんて聞いたことがない」
「血筋が途切れることもあります」コンは言った。「または、別の家に託されたかもしれません」
その時、守はハッとした。
「九条さんだ」
「古書店の?」
「ああ。あの人、僕に『平安陰陽道秘伝集』を渡してくれた。そして、君の正体にも気づいていたような…」
コンも納得したように頷いた。
「確かに、あの方には霊力を感じました。もしかすると…」
守はカバンから携帯電話を取り出した。
「今日、九条堂は休みだけど、九条さんに連絡してみる」
守が番号を押そうとしたその時、突然、部屋全体が揺れた。地震ではない。まるで空間そのものが歪むような不思議な振動だ。
「何だ!?」
コンが窓に駆け寄り、外を見た。そして、彼女の表情が凍りついた。
「来ました…」
守も窓に近づき、外を見た。神楽坂の石畳の上、朝日の中に一人の男が立っていた。黒いスーツに身を包んだ洗練された姿だが、その表情には異様な雰囲気がある。そして、その目は血のように赤く光っていた。
「大禍津日神…」
守の口から思わずその名が漏れた。どうしてそうだとわかったのか自分でもわからない。ただ、その存在を見た瞬間、魂の奥底から認識が湧き上がってきた。
男は上を見上げ、まるで守の部屋の窓を見つめているかのようだった。そして、ゆっくりと不気味な笑みを浮かべた。
「見つかりました」コンの声が震えていた。「こんなに早く…」
「どうすればいい?」
「今は戦わずに逃げましょう」コンは即座に言った。「まだあなた様の力は完全ではありません。準備が整うまで時間を稼がねばなりません」
守は頷いた。本能的に、あの男との対決は今の自分の力では無理だとわかった。
「荷物をまとめて」
二人は急いで最低限の荷物をカバンに詰め込んだ。守は原稿「妖しき陰陽師」と『平安陰陽道秘伝集』を大切に収めた。
コンは窓の外を見て、表情を引き締めた。
「裏口から出ましょう。わたくしなら、結界を張って一時的に気配を隠せます」
「頼む」
コンは両手を合わせ、静かに呪文を唱えた。淡い青白い光が二人を包み込む。
「行きましょう」
二人は急いでアパートを出た。裏口から抜け、小路を通って神楽坂の喧騒から離れていく。
守は一度だけ振り返った。遠くに見える黒いスーツの男の姿。大禍津日神の転生者。千年の因縁を持つ宿敵。
そして守は決意した。力を取り戻し、真実を知り、この因縁に決着をつけなければならない。たとえ自分が信じられなくても、目の前で起きていることは現実なのだから。
「どこへ行くんだ?」守は小声でコンに尋ねた。
「まずは九条老人のところへ」コンは答えた。「あの方が何か知っているなら、力を貸してくれるかもしれません」
守は頷いた。こうして二人は朝の街を足早に進んでいった。背後には千年の因縁が、そして前方には不確かな未来が広がっていた。