第2話:黄金の瞳を持つ少女
朝日が部屋の隙間から差し込んだとき、安倍守は一瞬、昨夜の出来事が夢だったのではないかと思った。しかし、布団の上で静かに眠る少女の姿を見て、全てが現実だったことを思い知らされる。
少女――コンは、朱色の着物を身にまとい、長い黒髪を枕元に広げて眠っていた。昨夜の戦いで消耗したのか、まだ深い眠りの中にいるようだ。
「本当に…狐なのか?」
守はそっとコンの頭を覗き込んだ。確かに人間の少女にしか見えないが、昨夜の狐火と金色の瞳は、明らかに人間のものではなかった。
時計を見ると午前7時。今日は古書店のバイトがある。
守は静かに身支度を始め、メモ用紙にコンへの伝言を書き残した。「仕事に行ってくる。冷蔵庫に食べ物あり。帰りは夕方。」
部屋を出る前に、もう一度コンの寝顔を見た。千年もの間、自分を探し続けていたというその少女の表情は、今は穏やかで、安らかだった。
「千年か…」守は呟いた。「信じられないな」
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「へえ、こんな本があったんだ」
神楽坂の古書店「九条堂」でバイトをする守は、棚の奥から発見した一冊の本に見入っていた。『平安陰陽道秘伝集』というタイトルの、かなり古びた書物だ。
「何を見つけたんだ?」
店主の九条老人が奥から現れた。八十を超えると思われる老人だが、背筋はピンと伸び、目は鋭い光を宿している。
「ああ、これです」守は本を見せた。「陰陽道の本ですね」
九条老人は一瞬、表情を変えたように見えた。しかし、すぐに普段の穏やかな微笑みを取り戻す。
「ほう、それは珍しいものだ。どこにあった?」
「奥の棚の一番下です。整理していたら見つけました」
老人は本を手に取り、ページをめくった。
「これは貴重なものだな。安倍晴明の真伝とされる秘術が記されている」
「晴明…ですか」
守は思わず身を乗り出した。昨夜、コンから聞いた名前。自分の前世だという男の名前。
「ああ、平安時代最高の陰陽師さ。お前さんと同じ『安倍』という姓だな」老人は意味深な笑みを浮かべた。「興味があるのか?」
「ええ、まあ…小説のネタにしようと思って」
「そうか」老人は本を守に手渡した。「では、これを読んでみるといい。参考になるだろう」
「いいんですか?」
「ああ。その本は君に導かれたのかもしれんよ」
老人の言葉に、守は不思議な感覚を覚えた。まるで老人が何かを知っているかのようだ。
「あ、ありがとうございます」
守は本を受け取り、カバンにしまった。
その時、店の扉が開き、風鈴が涼しげな音を立てた。
「いらっしゃ…」
守の言葉は途中で止まった。店に入ってきたのは、コンだった。しかし、昨夜の着物姿ではなく、白いブラウスに紺のスカート、シンプルなカーディガンという現代的な服装に身を包んでいる。ただし、その黄金の瞳は変わらず、守を見つけると嬉しそうに微笑んだ。
「こ、コン?」
「ご主人様、見つけました」コンは丁寧に頭を下げた。「お仕事中、失礼いたします」
守は慌てて周囲を見回した。幸い、店内に他の客はいない。
「どうして…ここがわかったんだ?」
「わたくしには、ご主人様の気配がわかります」コンは誇らしげに言った。「千年前も、そうやってご主人様を見つけていました」
「そうか…」
守は困惑しながらも、コンを店の奥へと誘導した。ところが、その動きを九条老人が見ていた。
「友人かね?」老人が尋ねる。
「あ、はい。まあ、その…」
守が言葉に詰まっていると、コンが一歩前に出て、老人に向かって深々と頭を下げた。
「はじめまして。わたくしはコンと申します。安倍様のお世話をさせていただいております」
その言葉に、老人は静かに目を細めた。
「ほう…『コン』とな。珍しい名だ」
老人はコンをじっと見つめ、特にその黄金の瞳に注目しているようだった。しかし、不思議なことに驚いた様子はない。
「君も…古書に興味があるのかね?」
「はい」コンは微笑んだ。「特に、陰陽道に関する書物に」
「そうか」老人はにこりと笑った。「では、この店にはたくさんあるよ。ごゆっくり見ていきなさい」
老人はそう言うと、店の奥へと戻っていった。
「大丈夫なのか?」守は小声でコンに尋ねた。「その…目とか」
「ご心配なく」コンは穏やかに答えた。「普通の人間には、わたくしの瞳は茶色に見えます。ただ…」
「ただ?」
「あの方は、普通の人間ではないかもしれません」
コンは九条老人が消えた店の奥を見つめながら言った。
「どういう意味だ?」
「わかりません。でも、わたくしの正体に気づいているようです」
守は不安になったが、この場で詳しく話すわけにもいかない。
「とにかく、なぜ来たんだ?」
「これをお持ちしました」
コンはバッグから紙袋を取り出した。中には手作りのおにぎりが入っている。
「昼食です。ご主人様のお台所にあったもので作りました」
「わざわざ…ありがとう」
守は思わず笑みを浮かべた。昨夜まで出会ったこともない少女なのに、なぜかこうして世話をされることに不思議な親しみを感じる。
「それと」コンの表情が真剣になった。「昨夜のことについて、もっとお話しする必要があります」
「ああ…そうだな」
守も表情を引き締めた。言霊喰いとの戦い、自分の中に眠る晴明の力、そして大禍津日神の存在。全てが現実だとすれば、これからどうすればいいのか。
「今夜、帰りましたら」
「ああ、わかった」
そのとき、再び店の扉が開き、数人の客が入ってきた。
「また後で」
守がそう言うと、コンは微笑んで頷き、本棚の間を歩いていった。
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仕事を終えて帰宅すると、部屋は驚くほど片付いていた。散らかっていた本は整然と並べられ、床も掃除されている。そして、テーブルの上には夕食らしき料理が並んでいた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
コンが出迎えてくれた。彼女は再び朱色の着物姿に戻っていた。
「すごいな…全部片付けたのか?」
「はい。千年前のご主人様も、いつも部屋を散らかしていらっしゃいました」コンは懐かしそうに微笑んだ。「片付けるのは、わたくしの務めです」
「そうか…ありがとう」
守は複雑な気持ちで言った。感謝の気持ちはあるものの、未だに「ご主人様」と呼ばれることに慣れない。
「それより、昼のおにぎり、美味しかったよ」
「本当ですか?」コンの顔が明るくなった。「千年ぶりにご主人様のために料理をしましたので、不安でした」
「いや、上手だった。でも…千年間、何を食べて生きてきたんだ?」
「妖怪は人間ほど頻繁に食事をする必要はありません」コンは説明した。「それに、時には人間の姿で暮らし、時には狐の姿で森で過ごしていました」
「そうか…」
守はテーブルに座り、コンが用意した夕食――シンプルな和食の献立だが、どれも美味しそうだ――に箸をつけた。
「いただきます」
一口食べると、素朴ながらも優しい味わいが広がった。不思議と懐かしさを感じる味だ。
「美味しい」
「良かった」コンは嬉しそうに微笑んだ。「ご主人様の好物を覚えていました」
「晴明の好物、か」
「はい。焼き魚と山菜の煮物です」
確かに、テーブルにはそれらが並んでいる。そして、不思議なことに、守も幼い頃からそれらが好物だった。単なる偶然なのか、それとも…
「コン」守は真剣な表情で言った。「昨夜のことについて、もっと教えてほしい。僕は本当に安倍晴明の転生なのか?」
コンは姿勢を正し、頷いた。
「はい。わたくしにはわかります。あなた様の魂の輝きは、紛れもなく晴明様のもの」
「どうしてそんなに確信が持てるんだ?」
「それは…」
コンは少し迷うように視線を落とした。
「わたくしと晴明様は、特別な絆で結ばれていたからです」
「特別な絆?」
「はい。わたくしは十歳の時に晴明様に命を救われ、以来、忠誠を誓いました。そして晴明様は、わたくしに陰陽術を教え、共に戦う術を授けてくださいました」
「十歳…」
守はふと、自分の小説の一節を思い出した。確かに「妖しき陰陽師」の中で、主人公の晴明が十歳の狐の少女を救うシーンを書いていた。それは夢の中で見た光景だと思っていたが…
「僕の小説にも、そのシーンを書いたよ」
「はい、知っています」コンが頷いた。「あなた様の魂の記憶が、物語として現れたのです」
「でも、なぜ僕は完全に晴明の記憶を持っていないんだ?」
「転生の際、前世の記憶は通常、失われます」コンは説明した。「しかし、強い想いや契りは、時に記憶の断片として残ることがあります。特に、大禍津日神との因縁は強く、あなた様の魂に刻まれているのです」
「大禍津日神…」
その名を口にすると、再び背筋に冷たいものが走った。
「彼は一体、何者なんだ?」
「災いと混沌を司る妖怪の王」コンの声は低く、重々しくなった。「人間や他の妖怪の恐怖や絶望を糧に力を増す恐ろしい存在。千年前、京の都で数多の人々を苦しめ、晴明様はその退治に命を懸けました」
「そして、相打ちになった…」
「はい。最後の決戦で、晴明様と大禍津日神は共に命を落としました。しかし、その魂は消えず、両者は『必ず再び転生して決着をつける』という契りを交わしたのです」
守は自分の胸に手を当てた。そこに安倍晴明の魂が宿っているというのか。そして、どこかに大禍津日神も転生しているというのか。
「コン、証拠を見せてほしい」
「証拠、ですか?」
「ああ。僕が本当に晴明の転生だという確かな証拠を」
コンは少し考え、やがて頷いた。
「わかりました。では、昨夜の狐火のように、わたくしの力をお見せします」
コンは両手を合わせ、目を閉じた。すると、彼女の周りに淡い光が宿り始め、そして突然、彼女の頭の上に狐の耳が現れ、着物の背後から尻尾が伸びた。
「こ、これは…」
守は驚いて立ち上がった。確かに狐の耳と尻尾だ。しかも九本の尻尾が、扇状に広がっている。
「九尾…」
「いいえ、これは幻にすぎません」コンは悲しげに言った。「わたくしの本来の姿の一部を映しただけです。千年前、わたくしは九尾の力を封印し、この人間の姿になりました」
「なぜ?」
「晴明様を救うために」コンの目に涙が光った。「最後の決戦で、大禍津日神の呪いから晴明様を守るため、わたくしは自らの九尾の力を犠牲にしたのです」
守はコンの言葉に、胸が締め付けられる思いがした。
「その代償として、わたくしは完全な姿に戻れなくなりました。しかし…」コンは勇気を取り戻したように顔を上げた。「もしあなた様が完全に晴明様として覚醒し、大禍津日神を倒せば、わたくしの封印も解けるのです」
守は言葉を失った。コンの犠牲、千年の忠誠、そしてこれからの戦い。全てが現実だとすれば、自分はどうすればいいのか。
「信じられない…」
「信じていただく必要はありません」コンは優しく微笑んだ。「ただ、あなた様の心の奥底にある感覚に耳を傾けてください」
コンはゆっくりと守に近づき、その手を取った。
「わたくしの手の感触は覚えていませんか?」
その瞬間、守の脳裏に鮮やかな記憶が浮かんだ。雪の降る庭で、少女の手を取る自分。その手は冷たく震えていたが、温かさを取り戻していく。
「雪の日…」守は呟いた。「君は雪の中で倒れていて…」
コンの目が大きく見開かれた。
「覚えていらっしゃるのですか?」
「いや、わからない」守は頭を振った。「ただ、イメージが浮かんだだけだ」
「それは記憶の断片です」コンは喜びに満ちた声で言った。「晴明様とわたくしの初めての出会い。わたくしが人間に追われ、傷ついて雪の中で倒れていたとき、晴明様はわたくしを救ってくださいました」
守はコンの手をまだ握ったまま、その黄金の瞳を見つめていた。信じがたい話だが、どこか心の奥底では、全てが真実だと感じている自分がいる。
「わかった」守はついに言った。「全てを一度に信じろとは言わないでくれ。でも、少しずつ理解しようと思う」
「ありがとうございます、ご主人様」
コンの顔に安堵の笑みが広がった。彼女の耳と尻尾は既に消えていたが、その黄金の瞳は相変わらず神秘的な輝きを放っていた。
「ところで」守は思い出したように言った。「今日、古書店で九条さんから本をもらったんだ。平安陰陽道の秘伝書だって」
「本当ですか?」コンは興味を示した。「それは貴重なものかもしれません」
守はカバンから『平安陰陽道秘伝集』を取り出した。
「九条さんは、僕とコンのことを…何か知っているような感じだった」
「あの老人には、霊力を感じました」コンは真剣な表情で言った。「もしかすると、陰陽師の末裔かもしれません」
「九条さんが?」
守は驚いた。確かに九条老人は不思議な雰囲気を持つ人だが、まさか陰陽師とは。
「この本を見せてください」
コンは本を手に取り、ページをめくり始めた。そして、ある一節で目を見開いた。
「これは…!」
「どうした?」
「晴明様の五行陰陽術の記述です」コンは興奮した様子で言った。「しかも詳細に。このような秘術が記された本は、めったにありません」
守も本を覗き込んだ。確かに、複雑な五芒星の図形や呪文が記されている。不思議なことに、その呪文を見ると、守の頭の中で読み方がわかるような気がした。
「これは役立ちますね」コンは喜んだ。「あなた様の力を呼び覚ますのに」
「僕の力…か」
守は自分の手を見つめた。昨夜、確かに金色の光を放ったこの手。本当に自分にそんな力があるのだろうか。
「試してみませんか?」
「え?」
「簡単な術から」コンは本のページを指さした。「これは火を操る基本の術。危険はありません」
守は躊躇した。しかし、この不思議な出来事の真偽を確かめるには、自分で試すしかない。
「わかった…やってみる」
コンの指示に従い、守は本に記された印を結び、呪文を唱え始めた。
「天火明命、焔の道開かれん…」
最初は何も起こらなかったが、唱え続けるうち、突然、守の指先に小さな炎が灯った。ロウソクの火程度だが、確かに自分の意志で生み出した炎だ。
「で、できた…」
守は目を見開いて、自分の指先の炎を見つめた。
「素晴らしい」コンは拍手した。「ご主人様の才能は健在です」
「これが…陰陽術」
守は恐る恐る炎を動かしてみた。思った通りに炎が指先を移動する。不思議だが、熱さは感じない。
「陰陽術とは、天地の理を理解し、操る術」コンは説明した。「五行の力を操り、結界を張り、式神を召喚し、妖怪を封じる…晴明様はその全てを極めた方でした」
守は意識を集中させ、炎を消した。不思議な高揚感と同時に、疲労も感じる。
「少し、疲れた…」
「術を使うには魂の力を消費します」コンは心配そうに守を見た。「まだ体が慣れていないのでしょう。無理はなさらないでください」
守は椅子に腰を下ろした。信じられない体験だった。自分が火を操ったのだ。それが現実だとすれば、コンの言うことも…
「コン、僕は本当に安倍晴明なのか?」
コンはゆっくりと頷いた。
「はい、その魂は紛れもなく晴明様のもの。しかし…」
「しかし?」
「今は安倍守様です」コンは優しく微笑んだ。「晴明様の魂を持ちながらも、この時代に生まれ、育ち、今までの人生を生きてきた安倍守様」
その言葉に、守は少し安心した。自分が完全に別人になってしまうわけではないのだ。
「わかった。じゃあ、これからどうすればいいんだ?」
「まずは、力を取り戻す修行を」コンは提案した。「そして、大禍津日神の転生者を探します」
「どうやって?」
「大禍津日神の気配を感じたとき、わたくしにはわかるでしょう」コンは窓の外を見た。「そして…あなた様自身も、近づけば感じるはずです」
その時、突然、窓の外で風が強く吹き始めた。カーテンが揺れ、部屋の中の空気が冷たくなったように感じる。
「この気配…」コンが身構えた。
「何だ?」
「妖怪です。昨夜とは違う種類の…」
守も立ち上がり、窓に近づいた。外の暗闇に、確かに何かが蠢いている。
「なぜ、こんなに続けて現れるんだ?」
「わたくしの力が、彼らを引き寄せているのかもしれません」コンは申し訳なさそうに言った。「あるいは…」
「あるいは?」
「大禍津日神が、すでにあなた様の存在に気づいているのかもしれません」
その言葉に、守は背筋に冷たいものを感じた。大禍津日神の転生者。千年の因縁を持つ敵。どこにいるのか、誰なのか、全くわからない。しかし、その存在が自分を見つけ出そうとしているというのか。
「来るぞ」コンは警戒を強めた。
窓の外の暗闇から、無数の白い手のようなものが伸びてきた。それらは窓ガラスに触れ、不気味な音を立てて這いずり回る。
「あれは何だ?」
「死霊の手です」コンは説明した。「大禍津日神の配下の妖怪が操る死者の怨念」
守は昨夜の学びを思い出し、本から得た知識を頼りに、印を結んだ。
「お前たちのような者には、こちらがいいのか…」
守は自分でも驚くほど冷静に呪文を唱え始めた。
「黄泉の道を彷徨う魂よ、安らかに眠れ。天地の理に従い、今ここに結界を張る!」
守の手から金色の光が放たれ、窓の周りに光の線が走った。それは見事な結界となり、白い手は触れることができず、やがて悲鳴のような音を立てて消えていった。
「見事です、ご主人様!」
コンは驚きと喜びの表情を浮かべた。
「でも…なぜか知っていたんだ」守は自分の手を見つめた。「必要な呪文が、自然と思い浮かんだ」
「それが晴明様の記憶です」コンは嬉しそうに言った。「危機の時、魂の奥底から力が湧き出るのです」
守はまだ信じられない気持ちだったが、確かに自分は今、妖怪を退けたのだ。これが陰陽師の力。安倍晴明の力。
「コン、もっと教えてくれ」守は決意を込めて言った。「僕が何者で、何をすべきなのか」
コンは喜びに満ちた表情で頷いた。
「はい、ご主人様。全てをお話しします」
窓の外では、結界に阻まれた妖怪たちが去っていく気配がした。しかし、それは一時的な勝利にすぎない。真の戦いはこれからだ。
守とコンは向かい合って座り、古の知恵と現代の感覚を融合させながら、これからの戦いに備えることにした。雨は上がり、夜空には星が瞬き始めていた。二人の新たな物語は、まだ始まったばかりだった。