9月19日
土曜日、サッカーの練習から帰ってきた陽翔は、着替える間もなく両親に呼び出された。
「陽翔、そこに座りなさい」
父親の静かな声に嫌な予感を覚えながら、陽翔はダイニングチェアに座る。対面に座った両親の顔は、どこか不安げだった。父親はしばらく宙を仰いで考える素振りを見せていたが、やがて切り出した。
「陽翔、最近、虫取りか何かにハマってるのか?」
ポカンとした陽翔を見て、父親はコホンと小さく咳払いをした。どうやら切り出し方が拙かったと思ったらしく、バツが悪そうに頭を掻きながら続ける。
「ああ、いや。単刀直入にいうとだな、その、なんだ、雑木林で遊んだりしているのか?」
陽翔の背中に厭な汗が滲む。あの老人が家に来たのだ。いったいどうやって住所を調べたのか知らないが、小さな町のことだ。きっと人伝に聞いたのだろう。
どうやら陽翔自身が思うよりも分かりやすく顔色が変わっていたらしい。陽翔の返事を待たずに、父親は続けた。
「いや、別に陽翔を責めるつもりは無いんだ。ただ、今日変な爺さんが家に来てな。パパが対応したんだが、妙な話をされたんだよ。正直なところ、話が支離滅裂であっちに行ったりこっちに行ったりして要点が全く掴めなかったんだが……お前が雑木林に入ろうとしていたことと、雑木林には入るなと言いたいことは辛うじて分かった」
陽翔は俯いて黙っていたが、内心では少しホッとしていた。どうやら父親はそこまで事態を重く受け止めていないらしい。
「まあ、パパが子どもの頃はよく雑木林に入って虫取りなんて毎日のようにやってたからな。子どもはそのくらいヤンチャに遊べばいいと思うんだが…… ただ、こういう小さな町には面倒な伝統とかルールとか、そういうものを重んじるきらいがあるんだ。この町に住む以上、それを守らないと仲間外れにされちゃうかもしれないんだよ。だからまあ、その、なんだ……その雑木林には……」
よほど胸に突っかかるところがあるのか、父親は言いにくそうにしていた。陽翔はすっかり安心して顔を上げると、明るい口調で言った。
「分かったよ。もうあそこには入らないでおく」
父親は「そうか」とだけ言うと、一瞬だけ残念そうな顔をした。もしかすると、あわよくば息子と一緒に虫取りでもと考えていたのかもしれない。
「それにしても……」
しばらく生温い沈黙が流れたあと、父親が再び口を開いた。
「あの爺さん、変なことを言ってたな。オッサンがどうとか……」
陽翔の背中に、再びヌルついた汗が滲み出す。
「この町の子どもたちはみんな知ってると言ってたんだが、陽翔はそんな話を聞いたことはあるかい?」
陽翔は何も答えなかった。体が小刻みに震える。脳裏に男の顔が再現されていくのを、必死で掻き消そうとする。
「あ、もしかして!」
ずっと黙っていた母親が突然口を開いた。
「あなた、聞き間違えたんじゃないの?」
「え? 聞き間違え?」
父親が頓狂な声を上げる。
「ええ。この町の、特にお爺ちゃんやお婆ちゃんってね、頭に『お』が付く言葉に小さい『っ』を入れて言う癖があるのよ。私、自治会の定例会に行くでしょ。ここの自治会ってお年寄りが多いから、よくお話するんだけど……例えばお金だったら『おっかね』て言うし、御幸町のことも『オッサチ町』って言うのよ。だからあなた、オッサチって言ってるのをオッサンって聞き間違えたんじゃないの?」
かなり無理があるが、陽翔にとってはありがたい助け舟だった。確かにあの老人はオッサチ町と言っていたし、以前にも同じような経験があったのだ。
「あ、俺も知ってるよ。学校で老人ホームのボランティアに行った時に聞いた。オッサチオッサチって言うから、始めは何のことか分からなかったよ」
自分でも目が泳いでいるのが分かったが、そんなことは気にしていられなかった。とにかく、少しでも場をオッサンの話題から遠ざけたかった。
「はあ、オッサチとオッサンね。うーん、そんなの聞き間違えるかなぁ……」
父親は納得いかない様子で宙を仰いでいたが、ふと目線を陽翔に戻した。
「まあ、いっか。取り敢えず昼飯にしよう」
あっけらかんとした父親の表情を見て、陽翔は胸を撫で下ろした。