失くしたもの
次回は水曜日までのどこかで投稿します!
帝国の地を冷たい風が我が物顔で通り抜けた。
普段は賑わっているはずの大通りも、騎士たちによる避難誘導が行われた後のためか人の気配一つなく、閑散としたもの悲しさが漂っていた。
「はっ…!はっ…!」
そんな冷たい静寂の中を一つの小さな足音が風の流れに逆らいながら小さく木霊していた。
血反吐を吐きながら、小さな肩を震わせ狼がただ一人、包囲網から抜け出て逃げ出していたのだ。
「しねない…しねるものか…だってそうじゃないと…わたしは…」
歯の奥で擂り潰したかのようなか細い声で呪文のように何かをつぶやきながら、ボロボロの身体で目的もなくただただ走る。
もはやその姿は世界を滅ぼすと恐れられた神話の災厄にはどうあがいても見えず…ただ傷ついただけの小さな少女のようにしか思えないだろう。
しかしその少女を憐れむものなどどこにもいない。
全てを滅ぼす世界の敵である彼女に…手を差し伸べようなどという存在などいはしないのだから。
「…ゆるさない…絶対に…!ただしいのはわたしなのに…間違ってないのに…っ!」
足元の小さな石に躓いて狼の身体が地面に投げ出される。
ザリザリと硬い地面が傷だらけの肌を削り、擦りむいた腕からはうっすらと血が滲んだ。
「うっ…っ…ひっ…」
狼は寒さに震える子供のように地面に投げ出されたまま小さく体を丸めて自らの身体を抱きしめる。
その脳裏に浮かんでいたのは自分を追い詰めた者たちの姿だ。
あの場にいた誰もが狼に向かって明確な敵意を向けていた。
大勢の人間が手を取り合って刃を向けた。
どこを見渡しても人がいて、そのすべてがお前はダメだと指さした。
誰もが狼を否定した。
「……ちがう」
不意に体の震えを止めたかと思えば、どこを見ても傷だらけな身体で立ち上がり、またふらふらとどこかに向かって歩き出す。
戦いで力を使いすぎたことや神を殺す刃の影響がいまだ残っていることもあり、すでに狼の体力は限界を迎えていたが決して足を止めることはなかった。
ボタボタと零れ落ちていく血が…彼女がそこにいることを物語っていた。
「…あ……」
ふと狼が上を見上げるとポツリ…と雨が一粒落ちた。
次は二粒、その次は三粒…瞬きをする間に雨粒はどんどんと数を増していき、気が付けば身体を打ち付けるような大雨へと変わっていた。
「そん、な…」
狼は戦いのさなか、空の雲を氷の塊へと変えようとしていた。
それが落ちることですべてを冷たい暴力で押し潰す…考え得る限りで彼女が最も手っ取り早く広範囲に影響を及ぼすことのできる能力であったが、その雲が雨へと変わった。
つまり彼女の力は完全に解除されてしまい、凍っていた雲が溶けてしまったという事を意味していて…。
「ちがう…ちがうちがうちがう…わたしは…まだまけてなんか…だって……っ!!」
弾かれたように大雨の中、狼が走り出した。
足跡も血も、何もかもが洗い流されていく冷たい水の中で…何かから逃げるように…ただ必死に走り続ける。
何度も足を滑らせて、何度も身体を地面に打ち付けて、何度も何度も泥にまみれて…それでも立ち上がってまた走る。
だがそれは諦めない努力や、進み続ける意思などといったかっこよく、眩しいものではなく…恐怖に駆られ、ただ必死に逃げ出している哀れで悲しい姿でしかなく…どれくらいそうしていただろうか。
狼はついに走れなくなって薄暗い建物の隙間に力なく座り込んだ。
「…いたい…」
どこが痛むのかわからないほどに全身がズキズキと痛んだ。
同時に身体の内側からも細かい針でめった刺しにされているかのように…どこかが痛んだ。
「さむい…つめたい…」
その特性上、雪の中にいても、氷の中に閉じ込められたとしても冷たさも寒さも感じなかったというのに雨でぬれた身体はとにかく冷たくて…寒かった。
「くるしい…だ、れ…か…」
汚れも水滴も拭うこともせず、ぼやけた視界のなかで暗闇に向かって手を伸ばす。
その手を冷たい風が撫でる。
混濁した意識の中、不意に触れた手の感触に狼は誰かの姿を幻想した。
(どうしたの?甘えん坊さんね)
(おいおい、ママにばかりじゃなくてパパにも甘えてくれよ~)
(やめろよとーさん!妹が驚いてるだろ!)
「あ…」
ぎゅっとつかむように伸ばした手を握りしめると幻は瞬く間に消えてしまった。
聞こえた声も、見えたはずの姿も何もかも…冷たい雨が見せた幻だった。
「…まだ、だめ…わたしが…かたないと…」
もはや感覚もなくなった足で立ち上がり、ふらふらと身体を揺らしながら時間をかけて一歩…そしてまた一歩と闇の中に進む。
亀でももう少し早いのではないかというほど、その歩みは遅かったが…それでも狼は諦めるわけにはいかなかった。
「わたしは…まちがって…な、い…から…ここで…まけたら…おかしいから…しねない…しね、ない…」
「死ねないと言うのなら、少し眠ってみるのはいかがですか」
「あ…ぇ…?」
トン…と狼の脇腹に小さな衝撃が奔った。
水を吸って重たくなっていた服が…じわじわと真っ赤な水を吸って染まっていく。
そして次に瞬間、全身を内側から喰われていくような先ほど感じた不快で最悪な激痛が駆け抜けていく。
「…う……ぁ…」
今度こそぷつりと糸が切れたように、崩れ落ちてしまった狼の視界に「黒」が広がっていた。
異様なほど髪の伸びた…狼よりは多少は大きく見える程度の小さな少女。
その手には見ているだけで恐怖が沸いてくる赤黒い刃を持つ包丁が握られていて…少女はその場に座り込むと狼の身体を抱え込み、今度はナイフを胸に突き立てる。
ぐじゅっ…ぐじゅっ…と気色の悪い音が身体の中から聞こえてくる。
食べられていく。
自分という存在が、大切な何かが…ただ一方的に食い荒らされて呑み込まれていく。
抵抗をしたかったがもはやそんな力はなく…狼はやめろとその少女の目を見た。
そしてそこに敵意の色がないことに気が付いた。
この女は自分に刃を突き立てているというのに、敵意を持っていない。
何度も何度も敵意と憎しみのこもった目を向けられ続けた狼にはそれがはっきりと分かった。
「な、んで…」
だから問いかけたくなった。
どうして敵意すら持っていないのに自分にこんなことをするのかと。
敵意を持っていない者まで…自分を否定するのかと。
「…私は個人的な話としてあなたに思うところはありません。ただ…こうすることが必要だから、こうしているのです」
「…」
わからない…何もわからない。
なぜ自分がこんな目にあうことが必要なことなのか。
どうして自分にたいして誰もが生きていてはいけないと口にするのか。
なぜ生きることを許されないのか…誰も教えてはくれない。
そして狼の意識が苦痛の中で闇に沈んだ。
──────────
動かなくなった狼の小さな身体からナナシノがナイフを引き抜いた。
その刃は赤黒かったはずなのに、いつの間にか青白く染まっており、刃物が持っているそれとはまた違う冷たい印象を持たせた。
「これで…」
その刃を翳すようにして見つめていると、その向こうから誰かが雨に濡れながらゆっくりと歩いてくるのが見えた。
刃越しのボケた視界でもナナシノにはそれが誰か瞬時に分かった。
「…ユキノさん」
「久しぶりだねナナちゃん」
打ち付けるような雨は…未だ止まない。
忘れたころにやってくる。




