母の背
「あはっ!あははははあははははは!やろうって言うのかしら皇帝様ァ!この人数を相手におひとりで!?それもそんなお荷物を庇いながら!?そんなことが出来ると本気でお思いですかぁ!?」
半ば吹っ切れているのか、狂乱しているのか狂ったように女が皇帝に向かって唾を飛ばしながら叫ぶ。
実際に現在皇帝をとり囲んでいる者たちはどう見てもまともではなかった。
筋骨隆々な男たち…とでも言えばいいのだろうか。
異常に膨れ上がった筋肉を脈動させながら、明らかに正気ではない瞳をぎょろぎょろとせわしなく動かし、時折「ふしゅるぅるぅるううう」という異音を鳴き声かの様に口の中から漏らしている。
それらが約10人…皇帝に対し今にも牙を剥かんとその時を待ちわびていた。
「…」
皇帝は男たちを一瞥すると無言で両手を一度パチンと叩き合わせた。
すると皇帝の手の中に光で出来た剣のようなものがその姿を現す。
目を焼くような眩しい光ではなく…そこにあるだけで頼もしさや力強さを感じさせる…そんな導くような光だ。
それが剣となり風を切った。
「魔法?いや…もっと別の…」
女はその光に一瞬だけ心を奪われた。
見とれてしまったと言っていいかもしれない。
しかし女の目の前にあるその光は女に味方するもではなく、女に向かう刃だ。
女は慌てて頭を数度振り、正気を取り戻す。
「そんな手品でこの状況をどうにかできると思っているのかしらぁ。そもそも──」
「グダグダうるせぇよ。やるならとっとと来い。来ないなら道を開けろ」
「…も、もう一度だけ言うわ。この状況で強がったりせずに大人しく投稿しなさいな」
女は震えそうになる声を抑え、あくまで上からの立場で皇帝に話しかけていた。
疑うことなく、当然の結果として女はこの状況を皇帝一人でどうにかできるとは考えてはいなかった。
アリスと皇帝は知る由もないが二人を取り囲んでいる男たちは「特別製」だ。
簡単に言えば改造人間…理性が下がる代わりに肉体強度を極限にまで高めた代物だ。
利性が薄い分本能に忠実であり、一たび解き放てば無差別に暴力を振りまき…食い散らかし、そして犯す。
もう少しでアリスに差し向けられていたのもこの男たちだ。
そんな事情もあり、皇帝が勝てるはずがないと女は確信しているのだ。
だが…。
(そう負けるはずがない…もしかすれば一人や二人くらいならうまく逃げられるかもしれないけれど…この数に対抗できるわけがない…訳がないのよ…!!)
なぜか女は体の震えが止まらない。
それが何故なのかは本人にも分からず…ただただ漠然とした不安が女を襲っていた。
そしてもう一人。
この状況に不安を感じている者がいた。
アリスだ。
自らを守るようにして立つ頼もしい母の背中…アリスは自分の母が誰よりも強く美しく気高い事を知っている。
どんな相手にだって負けない無敵の皇帝…それが自分の母なのだと自信を持って言える。
だが…明らかにまともではない男たちに周囲を囲まれ、さらには自分と言うお荷物以外の何者でもない存在を庇いながら戦おうとしている。
これが自分なら諦めはしない…しかし今矢面に立っているのはアリスではなく皇帝だ。
その事実が追い詰められていたアリスの精神をさらに蝕んでいく。
「は、は…う…、ぇ…余のこと、は…ぃ…にげ…」
投降しろと言う前方の女に逃げろと言う後方の娘。
それらに挟まれて皇帝は…。
「はぁ…」
盛大にため息を吐いた。
そしてめんどくさそうに手に持っていた光の剣を放棄し、剣は糸がほどけるようにして消えてしまった。
「あらら~投降する気になってくれましたかぁ?皇帝様」
女は皇帝の行動に勝利を確信し、ニタニタと気味の悪い笑顔を浮かべながら二人に近づこうと一歩を踏み出そうとして…皇帝の瞳が未だ何も変わっていないことに気がついた。
先ほどと同じ…睨むでもなくただじっと…虫でも見るかのような目で女を、男たちを見ている。
そして皇帝は気だるげに腕を突き出すと、女と男たちを挑発するかのように指を数度曲げてみせた。
「…何のつもりかしら?」
「何度も言わせるな。ボケてんのかガキのくせに。さっさと来いと言っているんだ」
意味が分からないと女はまず思った。
武器を捨てるという投降以外の何物でもない行為を見せたはずなのに、その直後にこちらを挑発してくるその姿勢。
あまりにも理解できなくて女は行動を起こせなかった。
「来ないならこっちから行くぞ」
瞬間、トンと軽く地面を蹴った皇帝が女の隣にいた男を蹴り飛ばした。
男の身体はまるで馬車にでもはねられたかのように吹き飛び、入り口の扉を巻き込んで壁にぶつかり崩れ落ちる。
「な…っ!今何を…」
全く動きが見えなかった。
一歩を踏み出したかと思えば5メートルは離れていた男の前に現れ…二倍近い対格差のあるそれをいとも簡単に蹴り飛ばした。
皇帝の身体はしなやかで無駄な贅肉がついていない美しい物ではあるが、筋肉質と言う風にはとても見えず…どちらかと言えば華奢という分類になるはずだ。
それが筋肉の塊である2メートル以上の男を蹴り飛ばすなどありえるはずがない。
「まさか魔法…!?」
「んなもん使うか馬鹿が。我は魔法が苦手なんだよ」
「じゃあどうやって!?武器も持ってないくせになんで!?」
「どうもこうもあるか。ただそこそこの力で走って勢いそのままに蹴り飛ばしただけだ。鍛えれば誰でもできる…出来ねぇってんなら修行不足だ。我は300年くらいでこれくらいできるようになったぞ?それとお前ら相手に武器なんかいるわけがないだろうが。時間がねぇからさっさと終わらせようと剣を取り出しては見たが…しばらく表に出てなかったからかだいぶ舐められてるようだから教えてやろうと思ってなぁ?」
皇帝はくるりと身を翻すと、アリスの元まで戻りしゃがんでその顔を覗き込む。
「は、は…ぅ…」
「喋るな。寝るつもりがないならせめて大人しく見てろ。我は子供に心配されるほど弱くはない」
恐る恐ると言った様子で皇帝が一度だけアリスの頬を優しく不器用に撫でる。
そう、皇帝が武器を捨てた理由は投降するためなのではない。
ただ必要がないから。
ただ女にイラついたから。
そして娘に余計な心配をさせないため。
再び皇帝は女に視線を向ける。
相変わらず興味を抱いていないようなその瞳を。
「お前らみたいなもんは帝国を独裁国家だと言うが…まぁ間違っちゃいないが正確には軍事国家だ。意味が分かるか?」
「…」
「軍のトップが一番偉い国なんだよ我の国は。つまりお前の、お前らの目の前にいる我が世界一デカい国で一番強いって事だ。わかったら泣きべそ抱えて頭を下げろ、天下の皇帝様に対して頭が高ぇ」
ゴキッと皇帝が鳴らした腕の音が部屋のなかでやけに大きく響き、アリスには母の背が先ほどまでよりもさらに一回り大きく見えた。
皇帝流格闘術、相手は〇ぬ。




