鬼に横道なきものを
公園のブランコに腰かけている中肉中背の男からは、この上ない胡散臭さが漂っていた。平日の真昼間で、木枯らし一号が吹いたと、民放で報道されている最中であった。その公園は区営の小さいものであり、休日の昼間に訪れても独占できる程であった。そのような寂寞さが、男の怪しさを強調させていたのだろう。無精ヒゲや、意図せずハネる黒い襟足もその援助をしていた。
コゲラのさえずりで、男はようやくブランコから手を放し立ち上がる。男の前頭部を蝕むアセトアルデヒドが、同時に全身の怠さを醸し出していた。帰省初日である昨日、実父の手により強い酒を酌まされたのが原因である。
男はゆっくりと瞬きを数回、晴天へと向けた。欠伸を押さえた掌からはアルコールの香りがし、吐き気が男を容赦なく襲来した。肺から湧き出るその香りは、年老いた遊具へ溶けて染み込んでいく。
男は、地面がひどく遠くに見えているようだった。キイとブランコが揺れる音が、男の頭に纏わりついた。キイ、キイ。古い鎖は、男の足元に伸びていく。キイ、キイ、キイ。足に絡まり、肉を食む。キイ、キイ。男の掌の錆がもの哀しささを倍増させた。男の生命線は、ブランコの鎖のせいでこんがりと狐色に焦げていた。キイ、男の側にはビールの空き缶が図々しく転がっていた。それを一瞥した男は、憎らしき苦笑いを浮かべた後、猫に似通う背中で道路へ向かう。
懐かしき道を、ぐらつく視界に足を進める。行き先は決めていなかった。だが、家に居て置物扱いされるのも癪であり、このような体調では何も楽しめるはずがなかった。
風にあおられ、男がふと目をやった掲示板には、訃報の紙と秋祭りのチラシが掲示してあった。その配色の温度差に逆上せ、立ち振る舞いに大きな壁が見えた。チラシの方は上2カ所だけしか留められておらず、さらに開催日は一昨日であった。
母校までの登校ルートをなぞりつつ、二日酔い男がこんな時間に校舎の近くをふらつくのならば、通報されても文句は言えないぞと、自虐を考えるほどには気が滅入っている様子であった。
木枯らしが、男の黒いロングコートを強引に躍らせる。
その足は自然と、世話になった商店街へと進んでいた。
区営の公園とは裏腹に、商店街は昔と変わらず……いや、昔よりも活気づいて雑然としていたため、男の頭はまたもぐらりと揺れる。ショーウィンドウに反射した自分の顔に、うすら黒い隈が引っ付いていた。襟元の広いセーターから覗く首筋と鎖骨が痛々しくてゾッとした。
自分の姿で我に返った男は、踏み入れたばかりの商店街をもう後にしようかと頭を絞るが、足を踏み入れた途端に踵を返すのもどうかと思い、通過するだけ通過しようと足を進める。
牛肉コロッケの芳ばしさが鼻孔をくすぐり、焼鳥屋の煙が男の傷んだ胃を刺した。ざわざわ、がやがや。ぐわんぐわんと、眠気と吐き気が体に巻き付く。
「ね、お母さん。今日の晩御飯は何?」
「知ってる? 工藤さんちのお子さん、入院したらしいわよ」
「いらっしゃいませ~。どちらをお買い求めで」
「マジでえ? めちゃヤバいじゃん、それ」
「お前、次の訪問先で同じミスしたら容赦しないからな」
「やだなあ、嘘に決まってんじゃん」
「こんにちは……いや、今はこんばんは?」
「やあ、久しぶり。随分とやつれた顔してんなあ」
それは、それだけは、他とは声色が明らかに違っていた。高くてバラバラに重なった声であり、男の目線を引き寄せるのは容易であった。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」
男の目た先には、カラフルなランドセルが並んでいた。ひい、ふう、みい、よお……5つのランドセル。声変わりのしていない男子小学生が2人と、やたらと足の細い女子小学生が、円になって何かを囲んでいた。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」
また高い声が、男の耳に届く。円の中央、高い声の矛先には俯いている1人の女の子。これは俗に言う、いじめだろうか。それにしても、やけに堂々とするものだ。ここは商店街の中央だぞ。
鬼とは。……残念なことに、その日は節分ではなかった。また、中央の女の子が鬼であるようにも見えなかった。
その集団は、男の進行方向を塞ぐように屯していた。さらに残念なことに、その光景が目に入ったのは、その男だけのようであった。路上に転がっていた1つの赤いランドセルが、心無い通行人に蹴られていた。円を形成している4人は、ランドセルを背負ったままであった。
「やめて」
女の子の口元が、そう動いたような気がしたらしい。男の同情気質と、悪くない視力は、この日ほど恨まれたことは無かったであろう。
男は少しだけ、近づいてみる事にした。事件の起きているすぐ隣の、屋台式のパン屋で、わざとらしくガサガサと音を立てながら、食べる予定も特にない食パンを買ってみた。レジ打ちに、目で訴えかける。これはいつもこうなのか、と。レジ打ちバイトは何も言わなかった。男の出した千円札を、無表情で500円玉と100円玉2枚に替えるだけであった。
横でまた、声が聞こえた。「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」手拍子が、耳元で聞こえてきた。ああ、なんて気持ち悪い。男の吐き気は精神的に増加していた。
男は、食パン入りのレジ袋を片手に、目を瞑った。
深呼吸を、ひとつ、ふたつ。
他者の目が、気になった。
放っておいているのは、何か理由があるのではないか。
深呼吸を、みっつ。
男は、そこから去ろうとした。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」
声が、急に大きくなった。男の足は遠ざかろうとしていた。鼓動が速い。指先が冷たい。頭が、裂けてしまう。
「鬼は、いじめてる奴の方だろうが」
男は口の中で呟いた。誰にも聞こえていないはずだったし、声になっていたのかもわからなかった。ロングコートの裾が、足に当たってくすぐったかった。
男が、集団へ完全に背を向けたところで、腕に、妙な感触があったらしい。
「ねえ、鬼さん」大きな声だった。まるで、耳元に語り掛けているかのような。
男は、小学生の1人に、腕を掴まれていた。どんどん動機が速くなる。ぐわんぐわん、男の視界は、もう何も見えない。
「鬼さんってね、あなたの事だよ」
ぷつり。
音が、男の耳から消えた。
「見てみぬふりをした、あなたの方が鬼でしょう?」
頭が張り裂けそうになっていた。
「ねえ、逃げないでよ。鬼さん」
中央の女の子と、目が合った。
女の子は、笑っていた。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ。遠ざかるのは、耳なし鬼さ」
聞こえているんでしょう?
見えているんでしょう?
「どうして、私たちから遠ざかる必要があるの?」
ねえ、鬼さん。
酒は飲んでも飲まれるな。
自分にも、他人にも酔ってはいけません。
お酒のせいにできるのは、大人の特権ですよね。
「情けなしよと客僧たち、いつわりなしと聞きつるに、鬼神に横道なきものを」
(客僧たちよ、お前たちの言葉を信じたのに、我々は卑怯なことなどしなかったのに)
http://www.京都通.jp/Life/LegendSyutendouji.html
より引用
皆様はご存じでしょうか。今作品は、酒呑童子のオマージュ作品です。
今作品での鬼、あなたは誰だと思いましたか?