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遊史は、ほとんど、家庭の話をしなかった。
それは、つきあっていた綾乃に気遣ってのことだと思っていたが、話せる内容ではなかったからなのかもしれない。
遊史は、いつも、優しくて穏やかだ。
感情的になることは、ほとんどない。
一樹とは違って、感情の振り幅が大きいというか、流れが穏やかなのだ。
大学1年の秋、綾乃とつきあう前に、遊史は、母親を事故で亡くした。
心の準備のできないまま、愛する家族を失うことが、どれだけの喪失感を感じさせるのか、大学に帰ってきてからの遊史は、皆の前では気丈に振舞っていた。と、いうか、あまりに普通だった。大事な家族を失ったという事実を感じさせないほど、普通だった。
ただ、一樹と二人きりになった時は、気が抜けたように、ぼんやりすることが多くなった。
急に、遊史が、一樹の前にいることを忘れたように、ぼんやりしてしまうのだ。
一樹の前だけだ。
いつも、何かしら、だべっていた自分達に、いきなり、ほわんとした空白の時間がやってくる。
一樹は、困惑した。
だが、何となくわかった。
大学に入学して、初対面の桃子に強引にラインを迫られ、何となくついていった居酒屋で、初めて遊史と会ってから、ずっと一緒だった。
だからこそ、何となくわかった。
それは、遊史の哀しみの表現の一つなのだと。
きっと、何かの拍子に、母親のことを思い出すのだろう。
ちょっとしたことだ。
例えば、子ども連れのお母さんを見たり、風が強く吹いたり、落ち葉がハラハラと落ちていく様子を見るだけで、小さい頃の母親との記憶がよみがえる。
手を引かれて一緒に歩いたこと、風に飛ばされた帽子を一生懸命追いかけてくれたこと、一緒に銀杏を探したこと…。
これらは、あとになって、遊史が教えてくれたことだ。
それら、ちょっとした場面で、流れ出す記憶に、遊史は、浸っていた。
思い出に浸り、哀しみに浸っていた。
遊史が、唐突に黙り込むと、一樹は、しゃべることを止めた。
最初は、気を紛らわせようとしてみたが、そうすると、遊史は、無理に元気になろうとする。
そっちの方が、よほど、痛々しかった。
遊史ならば、どうするかを考えてみた。
遊史が、一樹の立場だったら、じっと待ってるような気がした。
悲しみに浸りきるまで、その感情が、完全に、遊史から流れ切ってしまうまで、きっと待ってる。
傍にいてやるだけでいい。
そう、結論を出した。
遊史は、そのことを、とても感謝していた。
あんなに、哀しい感情に、静かに浸っていられたのは、一樹が傍にいてくれたからだったと言った。
我に返った時に、傍に一樹がいたことで、どれだけ救われたかと遊史は言った。
悲しすぎて、泣くことすらできなかったあの時期を、何とか乗り越えられたのは、一樹のお陰だったと、言ったのだ。
遊史は、一樹を信頼し、一樹に心を許していた。
親友だったのだ。
もし、あの頃と変わってなければ、離婚の件も、最初に聞いていたのは、一樹だったはずだ。
離婚だけじゃない。結婚のことも、綾乃との交際のはじまりについても、その終わりについても、遊史は、一樹に、全て伝えたはずだ。
でも、俺は、何ひとつ聞いていない。
いつも、そうだ。
一樹は自嘲する。
いつも、自分は、自分の感情が処理できずに、遊史に対して、一方的に態度を決める。
遊史の気持ちなんて考えずに。
そんな一樹を、遊史は、どう思ってたんだろう?
そんなことを考えてる間に、一樹のマンションの駐車場にタクシーが停まった。
「遊史、起きろ。」
一樹が、遊史を揺り動かす。
「んー?」
遊史が、うっすらと目を開けた。
「起きろ、降りるんだ。」
一樹は、タクシーから遊史を引きずり出し、よろめく遊史を支えながら、自分の部屋に連れて行った。