魔族による魔王城クーデターの発生
今日はどこにでもある、なんでもない日のはずだった。
魔族領首都にある王城。その広い城を駆け回る軽い足音が閑静な廊下に響いている。
誰かを探しているのだろう、あちこちで聞こえたそれは探し人を見つけたようで次第に近づいてきた。
恐らく彼だろうな、となんとなく判断はしていたものの駆け回る姿を想像し愛らしく思った私はのんびりと待っている。そんなことを言ったら彼は拗ねてしまうだろうからいつも私から声をかけない理由を告げたことはないし、今後も告げる予定はないのだが。
「姉さま!」
「あら、フリッツ?」
想定していたということもあるがそれを抜きにしても腰に走る衝撃は軽い。
勢いよく抱きつかれたものの所詮まだ5歳になったばかりの子供だ。彼もあっという間に大きく成長していくのだろうと思えば、今のうちに可愛がっておこうと思ってしまうのは仕方ないだろう。時折周囲の大人を真似て大人ぶる姿も背伸びをしている子供で愛らしさが増すというのは父と私共通の認識であり、彼だけが知らない秘密だ。
如何せん、私の知り合いは筋肉質な戦士が多いから余計。
「姉さま、やっと見つけました。剣の稽古につきあってください!」
にへらと無邪気に笑う少年の名はフリッツ。私の2つ年下の弟だ。
少々癖があるがふんわりとした柔らかな金髪に青空のような澄み切った綺麗な水色の瞳。天使のように愛くるしい外見と相まってその姿は純白の羽がついていても違和感がないほど――なんて言うと、周りの大人たちが笑えない冗談はやめろと止めてくるが、生憎と私はこれ以上彼に適した表現を知らない。
頭の堅い大人たちと違って私は天使にも悪魔にも偏見は無いのだ。
姉弟だからか私も髪と瞳の色は全く同じで、父譲りの釣り目や少々尖った印象を与えやすい外見がコンプレックスの私が唯一自慢できるところでもある。
閑話休題。
ともかく私は可愛い弟からの、可愛らしいおねだりを聞かなければならないのだ。
「ええ、いいわよ。折角だから真剣を使いましょうか」
「はい、手加減はしないでくださいね?」
5歳の少年と7歳の少女が剣の鍛錬、しかも真剣。状況を知らない人からすれば驚かれるかもしれないが、何てことは無い。此処ではありふれた日常だ。
なにせ私、ユーリア・フォン・ホルヴィシアとフリッツ・フォン・ホルヴィシアは魔族の王族の直系――魔王の娘と息子なのだ。
いずれ魔王とその補佐となることが決まっている私たちは、それこそ物心ついた頃にはすでに魔術と剣術、そしてあらゆる学問を教わってきた。授業中は勿論、自由時間に自主的に鍛錬することも義務付けられている。
人によってはとんでもなく窮屈な生活と思うかも知れない。けれど私は綺麗なドレスを着るよりも身軽な服装で剣を振るうことが好きだし、弟は臣下の子らと遊ぶよりも父の書斎であらゆる書物を読み解くことが好きだ。
結果として私たちは毎日楽しく過ごしているし、互いに得意分野が分かれている分教えあうことで能力向上に努めることができた。
我々魔族は血統を重視するが、それ以上に個々の能力を見る。王族であろうと例外ではなく、魔王の地位を継ぐというのならばそれ相応の能力を求められる。
私たちはまだ幼いが既に天童と呼ばれ、しかしそれに慢心せず日々努力を怠ることはしない。天童と持て囃され思考を停止したら待っている未来は凡庸なものになると私も弟も理解しているし、なにより敬愛する父の子として相応しくあろうと幼いながらに必死なのだ。
「では私は今から動きやすい服装に着替えてきます。貴方は先に鍛錬場へ向かいますか?」
「はい、先に行ってまいります。先に身体を動かしておかないと、姉さまにすぐやられてしまいますから」
「まあ、フリッツ。そんな事を言っていても貴方ならあっという間に私を追い抜いてしまうわよ?」
「……姉さまに追いつくには、まだまだ僕の剣術は拙いです」
「そう言わないで?ほら、鍛錬場に向かいなさい。私もすぐに行きますから」
どことなく落ち込んだ様子のフリッツに苦笑し優しく頭を撫でながらそう言えば、フリッツは途端に笑顔になって鍛錬場へと駆け出した。
フリッツは私に頭を撫でられるのが余程好きらしくこういった際にとても役に立ってくれる。それに私も弟の柔らかな髪を撫でられるので一石二鳥だ。
「さて、」
今日は座学しか予定になかった為、普段稽古を理由に男物ばかり着る私に対して色々と物足りなさそうにしている侍女がやたらと気合を入れて服を用意していた。今の私の服装はレースや刺繍をふんだんにあしらったドレスである。どう考えても剣を振るうに適した服装ではない。
鍛錬用の動きやすい服にさっさと着替えて向かわなければ可愛いフリッツを待たせてしまう。私は急いで自室へ戻ると残念そうにする侍女を説得し、いつも通りの鍛錬用の服へと着替えを終わらせた。
彼女も悪い人ではないのだ。ただ、折角姫様は可愛らしいのに服に興味が無い、と隙あらば着飾ろうとするだけで。
違和感を覚えたのは、質素な男物の服に着替え終わりひとりで自室を出た瞬間からだ。
(――いやに静かだわ)
否、その感想は正確ではない。
自室周辺は静かで人の気配が一切無い。付き人を煩わしく思う私は普段から最低限の人数しか配置させていない。だがそれにしても自分以外の気配が一切無いという事は今までになかったことだ。侍女をすぐ下がらせたとはいえ、その彼女の気配すら見当たらないのは流石におかしい。
そして、その代わりと言わんばかりの気配が王の住まう、城の中心部に集中している。――これは、普段いる魔族たちよりもはるかに多い数だ。
今日のスケジュールを思い浮かべるが謁見の予定もなければ会議や舞踏会の予定も無い。つまり、普段城仕えの臣下や従者たち以外の魔族たちの気配がするはずがないのだ。
なんだか嫌な予感がする。ふるり、と寒気が背筋を走る。自室にある護身用の剣を念のためにと手に取ると、私は魔族の気配が集まっている場所へ真っ直ぐに向かった。
結論だけ言えば。
この判断は、間違っていたのかもしれない。
駆けつけた広間には五十はくだらないだろう武装した魔族たちが集まっていた。既に戦闘が行われたのか、数人の騎士が血を流して倒れている。理由などとっくに察しているが、それでも私は誰何する。
私の存在に気づいた、やけにガタイのいい男が嫌な笑みを浮かべて寄ってきた。にたり、と。纏わりつくような視線と笑みに私は今まで感じたことのない不快感を味わう。
「これはこれは、ユーリア様ではありませんか」
「……貴方たちは何者ですか。何故、この城に参りましたの?」
頭の中に大音量で警告音が響く。私やフリッツは未だ社交界デビューはしておらず、ましてや今は質素な男性服と護身用の剣を持っている身。ひと目で魔王の娘ユーリア・フォン・ホルヴィシアと判断のつく者で、かつ私が顔を知らない相手など居るはずがないのだ。
(ここにいらっしゃる魔族は、皆、敵)
隠し切れぬ殺気――否、もしかすると隠す気が毛頭ないのかもしれない――を向けている時点でわかる。何より顔見知りの騎士らが倒れ、血のついた剣を拭う数人の魔族が居るのだ。
しかし私の名を呼んだ男も、他の者らもにやにやと笑うだけで答えはしない。
「王家への反逆は死罪ですわ。貴方たちは許可無く王城へ忍び込み、そして王に仕える騎士らへ斬りかかりました。ですが――今投降すれば命の保証は致します」
逆に言えばこれ以上何かしでかせば殺すと、殺気をこめて微笑む。奥に居る若者がふざけた様子で口笛を吹き、それをきっかけに広間には下卑た笑いが響き渡った。余程自信があるらしい。
「仕方ありません」
即座に剣を鞘から抜き取り斬りかかる。まだ幼いとはいえ、毎日鍛錬を欠かさなかったのだ。近衛騎士が駆けつけるまで反逆者を抑えることは出来るだろうと――私は、慢心していた。
「へぇ、活きのいいお姫様だねぇ」
「――っ?!」
キィン、と金属のぶつかり合う音。否、これは弾かれた音。多勢に無勢、用意周到に立派な防具と武器を持った男たちに囲まれ、私はあっけなく捕らえられてしまった。
「っ、この無礼者!離しなさい!」
「そいつは聞けないな。さて、予定が狂ったが……おいハンス、例のもん持って来い」
「はいはい、っと」
いくら暴れようと圧倒的な筋力差には勝てず。頭の隅で冷静な私が「強化魔術、もっと練習するべきだったなぁ」なんて感想を漏らす。
ハンスと呼ばれた男は私の口に無理やり指を突っ込み――噛み切ろうとしたがなにやら錠剤を大量に放り込むとさっさと指を抜いて口と鼻を塞いできた。この手馴れた様子、もしかすると最近城下町で発生している誘拐事件の犯人はこの男かもしれない、なんて呑気に考える私がいた。
無論、そんな余裕はすぐになくなる。抵抗はしたもののあっさりと大量の薬を飲み込んでしまった私は、自由に動かない身体と、薄れゆく意識に悔しさを覚えた。
(お父様、フリッツ、申し訳ございません……)
嫌な笑みを浮かべ倒れこんだ私に手を伸ばす男の手のひらを辛うじて確認し、長々と詠唱される呪文の音を子守唄に、私は意識を手放した。
ここから先は私の知りえぬ話だが。
騒ぎに気づいた近衛騎士が駆けつけた頃すでに私の姿は無く。地下牢に投げ込まれていたフリッツを保護し、反乱を鎮圧し魔王へ報告する頃にいたっても終ぞ私を見つけることは出来なかった。
珍しい話だが前例がなかったわけじゃない。血統よりも実力重視の魔族らによる反乱は時折起こり、または未然に防がれ粛正されてきた。
今回はどうやら実力主義者側へ幸運はついたようだ。魔王の不在を狙い城を襲撃、予めある程度城内の者を寝返らせ首尾よく制圧。フリッツは捕らえられ、私は強力な魔術によって記憶と能力を封じられ追放された。
ひとまずユーリア・フォン・ホルヴィシアの物語は一旦ここで終わり。ここから先は記憶を失った“わたし”、何の因果か人間に拾われたただのユーリアの物語だ。