美術館の魔物
わたしは建築が好きだ。美術館などに行っても、展示してある絵を観ることよりも美術館の建物そのものの方へ眼を惹かれる。
私は広島の大学の建築学科に通う女子大生である。元は仙台出身で、東日本大震災の時は怖い思いをしたが、私の家族や親族は幸いにも無事であった。もっとも私のいた高校の友達の何人かは家族や親族を亡くしていたが。
震災から1年経ち、私は宮城の高校から広島の大学へ進学したのだ。なぜわざわざ広島くんだりへとというのは、別に広島風お好み焼きが好きだったという訳ではなく、私の目標とする分野の権威といわれる教授がその大学にいたからだ。幸いなことに、私の入った大学では1年生からゼミがあったので、わたしは迷わず憧れの教授のゼミの門を叩いた。
前期のゼミでは、やたらと東京にあるわたしの憧れの建物を研究発表するばっかりで、学問としては成り立っていなかった。わたしが東京の美術館ばかり発表するので、「おい永瀬、おまえ東京の大学に行った方がよかったんじゃないか?」とよく同じゼミの先輩に言われたものだった。
わたしはごもっともと思ったが、日本の美術館建築研究の第一人者、筒長教授のゼミに入れるのは日本広しと言えども、この広島の大学だけなのだ。
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「えー、みなさん。今年の夏休みのインターンシップも東京です。例年のようにKUMAKURA設計&造形事務所が受け入れてくれるそうです。定員は4名です。希望する人は明日の夕方までにわたしの研究室のポストに申込用紙を入れてください。申込用紙は教壇の上に置いて置きます」
「わたし行きます!」
「はいはい、永瀬さん、それなら申込用紙を投函しておくように」
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翌日、わたしは呼び出され、筒長教授の研究室へ出向いた。そこには既に3名の学生がいた。
「申し込みをした人は丁度4名でした。一番最後に来た永瀬さん、轟君、奏君、そして明石さん。はい、自己紹介してください」
「ではわたしから。わたしの名前は明石恵子と申します。もう3年生ですが、大学院に行くつもりなので就職活動はせず、研究に没頭するつもりですよろしく。ちなみに東京は3回目です。毎年のインターンシップで行っています」
これはなかなか頼もしい先輩の出現であるとわたしは心の中で喜んだ。
「俺の名前は轟まもる。東京に行くのはこれが二回目です。親父が建築事務所をやっていて、それを継ぐのに参考になればと思い、参加することにしました」
なんかあんまり感じの良い人ではないなとわたしは直感的に思った。
「ぼ、僕の名前はか、奏たけしです。アニメとかボーカロイドに興味があります。東京に行ったら、秋葉原の建築物を見てみたいです。あと六本木のニコニコ本社にも行ってみたいです」
おい六本木なら、六本木ヒルズだろと心の中で突っ込みを入れつつ、むむ、オタクが出現したとわたしは思った。秋葉原に勉強になるような建築物などあっただろうか?
「わたしの名前は、永瀬愛。美術館建築にとても興味があります。今回のインターンシップでは、是非とも都内の美術館巡りをしてみたいです」
「インターンシップの期間は夏休み中の7月中旬から8月いっぱいまでの1カ月半。そのあいだ建築事務所で雑務などをしながら、設計の現場を垣間見てもらいます。土日の週末は自由時間になるので、各自見たい建築物を見に行き、レポートにすること」と筒長教授がインターンシップのタスクを発表した。
「はい!」私と明石先輩はきびきびと答えた。
「やったー」と奏君は何を思ったのやら叫び声を上げた。
「ふぁ~い」と轟先輩は眠そうに言った。
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インターンシップの募集があったのが6月中旬だったので、わたしはまず生協へ行って東京のガイドブックを購入した。いくら東京慣れした明石先輩がついてくれるとはいえ、準備を万端にするに越したことは無い。
わたしは家ではインターネットに向かい、東京中の美術館を調べ上げた。上野の東京都美術館、国立西洋美術館、上野の森美術館、芸術大学美術館、六本木の国立新美術館、サントリー美術館、江東区の東京都現代美術館、竹橋の東京国立近代美術館、白金の東京都庭園美術館、恵比寿の山種美術館、等々数え上げればきりがない。東京では常に注目を浴びる世界的な美術品を集めた美術展が開催されていて、まったく羨ましいかぎりである。
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まだ梅雨の空けきらない7月の中旬、私は広島駅前で朝顔を売っている露店を発見した。その淡い紫色の花に見とれていると、轟先輩が来て「朝顔は可哀想だよな。1日の寿命なんだから」なんて見かけによらないおセンチなことをいった。
筒長教授と明石先輩は駅の土産物売り場のところで何やら話し合っている。
「先生、広島のお土産といったらやっぱり紅葉饅頭じゃあないですか?」
「八店堂のクリームパンもなかなかうまいぞ」
「クリームパンは日持ちがしませんから、お土産向きじゃないですよ」
「差し出がましいようですが、マルイチ商店 の牡蠣まるごとせんべいも捨てがたいですよ。きっと東京の人も広島といえば牡蠣を連想する人がたくさんいると思います」わたしは提案しました。
「ふむ、牡蠣まるごとせんべいにしてみるか」
「わたしは紅葉饅頭がいいと思いますが、先生がそうおっしゃるなら」
わたしは明石先輩の機嫌を損ねたのではと思い、少し心配だったが、明石先輩は気にしている風などどこにも無かった。明石先輩は瀬戸内海のように落ち着いた性格なのだ。
そして午前10時9分発ののぞみ18号に乗って先生を入れた我々5人は東京へ出発した。わたしは昼食用に清盛瀬戸の彩り弁当というのを買って乗車した。少し値がはったが、期待に胸を膨らませるわたしの食欲を満たすために奮発したのだ。他の4人もめいめいに自分の好きな弁当を買っていた。
わたしは朝から何にも食べていなかったので、少し早弁して、新幹線に乗り込むと瀬戸内海を右手に臨みながら、浮かぶ島々を眺め、弁当にぱく付いた。他の人たちは、大阪に着いた頃に食べていた。
新幹線の中でわたしたちはビールを飲んだ。私と奏君は未成年だったが、筒長教授が「まあ、いいから飲みたまえ」というので、車内販売で買い、ちびりちびりと、やがてゴクゴクとビールを飲みだした。未成年だが、実はわたしは寮の自室でお酒を飲むことが度々あった。18歳にして結構いける口なのである。だがゼミやサークルの飲み会では決してアルコールを口にすることは無かった。今日は筒長教授のお墨付きをもらったので、思いっきり飲んでいる。つまみにイカの燻製を買い、流れる車窓の景色を眺めながら飲んでいるのは楽しく、会話も弾んだ。
明石先輩はさすが成人している3年生、飲み方も堂に入っている。薄化粧に酔いが加わり頬が紅色になり、丁度きつめのチークを刺したようになっている。女性のわたしから見ても色っぽい。きっと素敵な恋をしているんだろうなあとわたしは思った。丁度二十歳の轟先輩はお酒は弱いくせに強がって飲んで、へろへろになっている。オタクの奏君は1缶を舐めるようにしてうすら笑いを浮かべている。ちょっと気持ち悪い。筒長教授はといえば、終始にこやかにみんなの会話を聞いている。
「わたしはねえ、広島の大学を卒業したらニューヨークのコロンビア大学大学院に留学するつもり。そこで世界の最新の建築学を学ぶつもりよ」明石先輩は見た眼よりは酔っているのか、急にそんなことを言い始めた。
「うわ~、すごいですね!!」わたしは感嘆した。
「わたしもねえ、美術館建築に興味があるの。専攻していると言ってもいいぐらいだわ。去年の冬休みにはニューヨークに研修に行ったわ」
「恋人と一緒にね」轟さんが言った。「去年までうちの准教授をしていて、今はコロンビア大学で教えているんだよ」
「轟君、余計なことは言わないように」明石さんは突き刺すような視線を轟先輩に向けた。
「もう言っちゃって、いいじゃないですか。清水准教授はもううちの教員じゃないんだし、自由恋愛ですよ」
「壮太朗、いや清水准教授とわたしはねえ、恋人を超えた恋人なの」
「それどういう意味っすか?」
「勉学の面でも深く結ばれているってことよ」
「え、じゃあ他の面でも深く結ばれてるんですか?」
「轟、少し黙れ。下世話なやつね」明石先輩は轟君にビールをぶっかけた。明石先輩ってすごいとわたしはその時思った。世界を股にかけて学問と恋を両立させようとしているし、生意気な轟先輩も一括して黙らせてしまうし、わたしは尊敬してしまった。
「明石先輩、わたしの夢も美術館を設計することなんです」
「それはよく分かってるわ。あなたの発表はいつも美術館のことばかりだからね。でも情熱だけじゃ美術館の設計士にはなれないわ。勉強ももっともっとしなくちゃいけないし、建築士の国家試験にも合格しなきゃいけないわ。美術館の外観だけじゃなくて、美術そのものにも教養を持たなくちゃいけないし。だからわたしは毎年東京へのインターンシップに参加しているし、去年はニューヨークにも行って彼の地の美術館も色々見て来たわ。ニューヨークは刺激的な街よ。あなたも一度、行ってみることをおすすめするわ」
「はい、わたしもいつか是非とも行って、色々見て来ます。勉強してきます」わたしは少ないニューヨークのイメージを思い浮かべながら心に誓った。
「さっきはずいぶんとわたしにつっかかって来たけど、轟君の夢は何なのかしら」
「適当に親の建築事務所を継いで、適当にやっていければいいです」
「あらあら、そんなことじゃあ、建築士の試験に受かることも難しいわね」
「なんとかなりますってば」
「まあ、わたしには関係ないけどね」明石先輩は言い捨てた。
「ところで、奏君の夢は?」明石先輩は奏君に話を振った。
「斬新なニューAKB48劇場を設計することっす」
「ほっときましょう」わたしは明石先輩に言った。
「話が盛り上がっているようだがね、建築士のあり方は人それぞれでいいんだよ」唐突にそれまで聞き役に徹していた筒長教授が口を開いた。「建築士の活躍の場は広いし、様々な役割が必要とされる。いろんな興味から入って、色んな成り方があっていいんだよ。もっとも轟君のことは、わたしがもっと鍛え上げておくがね」
そんな風になんやかんや話していると、新幹線はあっという間に東京駅に着いた。わたしたちは、東大前にある安い旅館に宿泊する予定だったので、東京駅から丸ノ内線に乗り換え、後楽園まで行きそこから南北線に乗り、東大前に到着しました。
嗚呼ここが世に名を馳せる東大かと思いつつ東大を左手に見ながら本郷通りを南に進み、大学を過ぎ、交差点を渡り、細い路地を右に曲がって少し行った所にある旅館に着いた。旅館名は韋明館といった。本郷通りとは反対側に向かって斜めに入口がある。玄関の脇にはつつじの生垣があり、大正を思わせる非常に古風な旅館であった。便利な場所にあるにも関わらず、1泊2食付きで4000円という破格の料金であった。館内は時代を感じさせる造りになっていて、床は軋み、階段を登るとキュキュという音がした。明石先輩とわたしが通されたのは6畳間の2人部屋。筒長教授、轟先輩、奏君が通されたのが8畳部屋の3人部屋だった。まだ午後の3時過ぎだったので、部屋で茶を飲んだ後、みんなで近所の散策へ行った。
本郷通りへ戻り東大の赤門前を通り過ぎ、西京寺まで歩いた。わたしは学問の御利益がありますようにと東大の赤門の前を通り過ぎる時心の中で祈った。
宿への帰りがけ、喫茶店に立ち寄り、わたしたちはまたビールを飲んだ。
「明日からは建築士事務所で実習だ。雑用がメインだと思うけれども忙しくなるぞ。まあ今日のうちは羽を伸ばしたまえ」と筒長教授は言った。
喫茶店でのんびりして宿に帰ると午後6時になっていた。部屋に食事を持って来てくれるというので、わたしたちは男性陣の8畳部屋で皆で一緒に食べることにし、8畳間に集まった。夕食は豪華なものであった。豆腐ハンバーグにひじきの煮物、天ぷらに味噌汁、お漬物、牛肉のステーキというものであった。ビールは皆飲み飽きていたので、日本酒の熱燗の2号徳利を4本注文した。筒長教授以外はみな若いので、ガツガツと食べた。ただ明石さんだけは、旺盛な食欲の中にもどこか上品さが漂い出ていて見ていて気持ちのいいものだった。熱燗もすぐに飲み終わり、筒長教授は追加の二号徳利を4本追加した。お腹も満腹になり、程良い酔いも加わって、わたしたちは幸福な気持ちになった。
そこへ仲居さんがお膳を下げに来て「さすが若い人はよく食べますねえ」といい、お膳を下げながら世間話を始めた。
「この旅館は大正時代の著名な建築家堀口捨己の設計によるものなのです。この旅館も伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った彼の作品なのです。堀口捨己は庭園の研究家としても有名でしたから、この旅館の庭園も後で是非ご覧になってください。ねえ、筒長先生」
「やあ中島さんご説明ありがとう」
「あら明石さん、またお綺麗になったわねえ」
「そんなこと無いですわ。最近はビールばっかり飲んで、少し太っちゃったんです」
「女の人は少しふっくらしてた方がいいんですよ」と中島さんは言い部屋を後にした。
「筒長教授と明石さんはこの旅館は何回も来てるんですね」
「わたしは3回目だけどね」
「僕はもう何十年も来ている」
「そう言えば、先生は東大出身でいらしたんですよね?」わたしは目を輝かせて言った。
「ああ、そうさ。わたしが東大にいた頃はね、学園紛争が盛んで、入試が中止になったり、大学が休学になったりして、そりゃもう大変だった」
「ガクエンフンソウ?」わたしはきょとんとして訊いた。
「当時は東西冷戦が盛んでね、ベルリンの壁が崩れるずっと前さ。で、日本国内でも代理戦争みたいなことが行われていたんだよ。方や自由主義諸国筆頭のアメリカ、方や当時学生たちのファッションともいえたマルクス共産主義を標榜するソ連の代理となって戦った北ベトナム。当時の若者たちはすっかり共産主義にはまっていて、『ベトナム戦争を即刻停戦しろ!』『帝国主義国家たるアメリカを糾弾すべし』と息巻いていたのさ。テロ事件やハイジャック事件なんかも起きたりしてね、大変だったんだ。建築学への勉学意欲旺盛だったわたしには安田大講堂の攻防など迷惑な話だったがね」
「ヤスダダイコウドウ?平成生まれのわたしにはさっぱりわかりません」
「そりゃそうだろう。ははは。今度わたしが易しい本を貸してあげるから読むといいよ」
「はあ」
「見分を広めるのも建築家にとって大切なことだよ、永瀬さん」
「先生、そろそろ風呂行きましょうよ」黙って話を聞いていた轟先輩が言った。奏君は終始無言である。
「先生、そうしましょう」明石さんも言った。「その後、庭園を散歩しましょう」
わたしと明石さんは6畳の部屋へ戻り、浴衣へ着替えて風呂の準備を整えた。明石さんは浴衣がとてもよく似合う。首筋が色っぽい。女のわたしまでもがそう思ってしまう。
風呂は地下1階にあった。なんだか陰気な所にあるなあと思っていると、男性陣が降りてきた。
「女風呂、覗かないでね」明石さんが轟先輩に向かって言った。
「いや、去年の新入生歓迎合宿の時は事故ですって。悪い奴が女風呂と男風呂の暖簾を入れ替えちゃったんですよ」
「その悪い奴って、あなたじゃないでしょうね?」
「違いますよ、濡れ衣ですよ。しかし先輩、良い体してたなあ」
「このドスケベが!」
「明石先輩、ばっちり見られちゃったんですか?」
「ええ、ばっちりよ。こんな奴にもったいない」
「へへへ」
「轟君、監督者として言っておくが、そのようなまねをしたら単位はやらんぞ」
「は、はい。単位に誓って、そんなことはしません!」
そんなやりとりの中、わたしと明石先輩は女風呂へ入って行った。脱衣所へ入り、浴衣を脱ぎ、全裸になると、明石先輩は確かにすごい体をしていた。色っぽい。熟れた体だ。ふくよかなバストは滑らかな曲線を描き、その先に小さめのピンク色の乳首がついている。陰毛は薄めで、お尻もピンと上にあがっている。こんな体を欲しいままにしている清水准教授とはいったいどんな男なのだろうか?きっと素敵な男性に違いないが、ニューヨークと東京で離れていて、寂しくないのだろうか?
わたしには男性経験がまだ無いので、そこら辺のところはよく分からないが、好きな人が出来たらきっといつも一緒にいたいと思うであろう。
明石先輩の体と比べると、わたしは己の肉体の貧弱さにしゅんとなる。胸はペッタンコでがりがりな体。背は低く、そのくせ陰毛は濃い。こんな体に誰が欲情するだろう?
「愛ちゃんまだ18歳じゃないのよ。これから成長するわ。男が成長させてくれるのよ。わたしも最初からこんな体だった訳じゃないわ」
「清水准教授がそんな体にしてしまったんですか?」わたしは明石先輩と湯船に並んで入りながら訊ねた。
「内緒よ。あなたも大人になれば分かることだわ」
わたしも2年後には明石先輩のようになっているのであろうか?ワクワクドキドキである。その相手が、決して轟先輩や奏君じゃ無いことを祈るのみである。
湯船から上がり、体と髪を丁寧に洗ってからわたしたちは頭にタオルを巻き、下着を身につけ風呂場から出た。男性陣はとっくに風呂から上がったものと見えて、気配は無かった。
部屋に帰り、ドライヤーで髪の毛を乾かしていると部屋の電話が鳴った。わたしが出ると筒長教授からだった。
「やあ、支度は出来たかい?そろそろ庭園を見に行こうじゃないか」
わたしは明石さんに確認し「あと5分したら玄関のところへ行きます」と答えた。
玄関のところへ行くと男性陣が浴衣姿で待っていた。
「遅いですよ」轟先輩が言った。
「髪の毛とか乾かすの大変なんです。わたし長いから」
「明石さんはショートっすからそんなに時間かからないでしょう?」
「お風呂出たまま、スッピンって訳にはいかないでしょう。化粧水塗ったり、薄化粧したりするのに時間がかかるの」明石さんは轟先輩をねめつけるように見た。
「まあまあ、時間はまだ9時だ。そんなに急がなくてもいいだろう」筒長教授がとりなしてくれた。
「庭園は旅館の裏よ」明石先輩は言った。
わたしたちは旅館の灯篭に沿って裏庭へと抜けて行った。裏庭に出ると、小さな滝があり、池に注いでいる。その池の中には、高級そうな錦鯉が沢山泳いでいる。庭園に咲く花々はライトアップされ、とてもきれいである。
「うわー、素敵な庭園。小さいけど必要なものが揃っていて、まるで小宇宙のようだわ」わたしはうっとりと言った。
池には赤い丸橋が渡してあり、渡るときに明石先輩がパンパンと手を叩くと錦鯉が寄って来た。
「こんな素敵な庭園のある旅館になんでこんなに安く泊まれるんですか?」わたしは先生に訊ねた。
「長い付き合いもあるしねえ。それに基本、宿泊するのはウィークデーだから客の数も少ないのさ。その分料金も下がるって訳さ。それに昔はわたしたちの大学だけで何十人も宿泊したことがある。スケールメリットだよ」
「なるほど。スケールメリットですか」わたしは感嘆した。「なんだかラッキーな話ですね」
「夜風にあたって風邪を引いちゃまずい。部屋に戻って寝る準備をしようじゃないか」
庭園にいる間は、轟先輩も奏君も静かだった。明日からは、本郷三丁目にあるKUMAKURA設計&造形事務所という美術館の設計を手掛けることもある大手の事務所でわたしたち4人は働く。先生はこの1カ月半は東大の旧知の教授の研究室で研究をしたり、学会に出席したりするそうである。
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翌朝は7時に起きた。目玉焼きに納豆、味噌汁、味海苔という典型的な旅館の朝食だった。わたしはご飯をおかわりして、朝からしっかり食べた。明石先輩も昨夜あんなに飲んだのにしっかり食べている。さすが大人の女性である。轟先輩と奏君、筒長教授はあまり箸が進んでいなかった。女は強しである。
化粧をし、身支度を整えると8時半になっていた。忘れ物の無いようにバックの中をチェックし、9時半に旅館の玄関に集合し、KUMAKURA設計&造形事務所までは歩いて行った。梅雨の晴れ間の暑い朝で、既に気温は30度を超えているようだったが、インターンシップ1日目、わたしたちはダークスーツに身を包み、頼りなさげに本郷通りの両脇に生えている街路樹の脇を颯爽と歩いて行った。春日通を右に曲がり、三軒目の中ぐらいのビルの5階が事務所になっている。思ったより大きなビルだ。
筒長教授を先頭にしてビルに入り、エレベーターで5階まで上がった。5階で降りると、真っ白い壁に鉄製の看板でKUMAKURA設計&造形事務所と書かれてあった。その看板の右脇には清潔な観葉植物の鉢植えが置いてあり、その横が入り口となっていた。ドアの左脇に小さなテーブルがあり、その上に電話が1台乗っていて電話の上の壁には各部署の電話番号が貼ってあった。
筒長教授は総務部の電話番号をダイヤルし、出た相手に名前と所属と用件を言った。
するとしばらくして、白い半そでシャツにチノパン、茶色いローファーというややカジュアルな格好をした50を少し過ぎたであろう人物が出て来て、我々を中に招き入れ、両脇に建築物の写真や海外の雑誌、ハイセンスなポスターを貼った廊下を通り抜けて、10人ばかりは入れそうな会議室へと案内した。
「やあ、どうもどうも。社長の綿貫です。筒長教授、お久しぶりです。あ、明石さん、今年も来たんですね。これは心強い」
「綿貫さん、こちら広島土産の牡蠣まるごとせんべいです」
「おお、牡蠣ですか。これは嬉しい」と綿貫社長が言ったところでタイトスカートを履き縁無し眼鏡をかけた有能そうな女性が入って来た。
「おはようございます。意匠設計部の谷崎と申します。これから1カ月半皆様のお世話をさせていただきます。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」わたしたちインターンは声を揃えて答えた。
「谷崎君、これは筒長教授からいただいた牡蠣まるごとせんべいです。事務所のみんなに配ってください」
「まあ牡蠣ですか。みんな喜ぶと思いますわ」と言いつつ「みなさん、椅子におかけになってください。スーツの上着も脱がれたらよいでしょう。今日は暑いですから」と言った。
わたしたちはそれにならい上着を脱ぎ、椅子の背もたれにかけてから着席した。
「今回のインターンシップでは、みなさんのアイデアに期待しています。われわれのような大人になってからでは出ない、みなさんのような若い頭から色々とアイデアを出してもらいたいと思います。出来上がったデザインの採用、不採用は我々が決めますが、いずれにせよわれわれのプラスになることを期待しています」
それからわたしたちインターン4名は筒長教授と別れ、オフィスの方へと通された。空調のよく効いたオフィスは静かで、それぞれ思い思いのカジュアルな格好をした社員たちがパソコンに向かって黙々と仕事をしている。丁度4席の空席になったデスクとパソコンが置いてあり、その島がわたしたちインターンの席だった。
明石先輩と轟先輩が上座、わたしと奏君が下座で、わたしは明石先輩の隣に席を得た。
「こちらのファイルが建築物件のファイルになります。私どもの社員も設計に入っていますが、みなさんのアイデアも見させていただけたらと思います。えーっと、インターンのリーダーは?」
「あ、わたしです」明石さんが手を上げた。
「あなた去年と一昨年もいた方ね。話が早いわ。みんなに物件を割り振って、PCに入っているソフトで設計のイメージを創ってみてください。どんなものでもいいわ。わたしたちは新しいアイデアを欲しているの」
「はい、わかりました」明石先輩は頼もしく答えた。
「じゃあみんな、物件を割り振るわよ。大体、1日1件ぐらいの割合ね。以前の経験によるとざっくりしたものでいいらしいわよ。直感的に使えるから、ソフトの使い方はそんなに難しくは無いわ。マニュアルは奏君の席に置いてある。永瀬さんと奏君は初めてだから、この4人家族の一軒家の物件。轟君はこの二世帯住宅の物件ね。わたしはこの4階建てのマンションの物件を担当するわ。ざっくりでいいのよ」
わたしたち4人は作業に集中した。普段はおちゃらけた轟先輩まで真剣な表情で作業をしている。
物件の要件を頭に入れ、イメージしたスケッチをPCソフトを使って3Dの画像にしていく。初めてのソフトなので四苦八苦しながら作業を進めていると直ぐにお昼の時間になった。谷崎さんがやってきて「さ、食事に行ってらっしゃい」と言った。明石さんが「お蕎麦屋に行きましょう」というので、みな上着を着ようとしたが「暑いでしょう。上着はここに置いて行きましょう」と言い、みなワイシャツ姿で表に出た。
戸外は猛暑で街路樹にとまる蝉の声がミンミンとあたりじゅううるさかった。むしむしと湿度は高く、わたしはすぐにうっすらと汗をかき始めた。
蕎麦屋は事務所から歩いて5分程の春日通り沿いにあった。古風な造りで門前にはすだれがかかり風鈴の音が涼しい音をたてていた。
「いらっしゃいませ。何名様でございましょうか?」愛想のいい若い女の子の店員さんが迎えてくれた。
「4名です」明石さんが答えた。
「それでは奥の席へどうぞ」
席へ着くとよく冷えた麦茶が運ばれて来た。「ご注文が決まりましたらお呼びください」
明石さんはざる蕎麦、轟先輩は鴨南蛮、奏君はカレーうどん、わたしはとろろ蕎麦を註文した。
「このとろろ蕎麦美味しい」
「カレーうどんもいけるっすよ」
「ちょっと汁飛ばさないでよ」
「明石先輩、いい店知ってますね」わたしは言った。
「そりゃもう今年で3年目だからね。わたしはできればKUMAKURA設計&造形事務所に就職したいと思っているの」
「へー」
「事務所の綿貫社長もわたしのことを結構気に入ってくれているから、大学院を修了して一級建築士の試験さえ受かればあながち不可能なことではないのよ」
「すごいですね」
「しかし東京は暑いなあ。アスファルトの照り返しのせいかなあ?」轟先輩が呻いた。
「秋葉原も暑いんだろうなあ」奏君が呟いた。
「あなたはそればっかりね。今週末にでも行くといいわ」わたしは突き放すように言った。
「そのつもりっす」
そうこうしているうちに昼食を食べ終え、わたしたちは事務所へ戻った。午後も黙々と作業を続け、初めて設計らしきことをするという喜びから来る集中力も加わり、あっという間に午後5時になった。先生はいつの間にか大学の研究室へ行かれたようで事務所にはいなかった。谷崎さんがやってきて「さ、もう上がっていいわ。今日できたものは保存して共有ホルダーに入れておいて頂戴。じゃ、御苦労様」と言い、「お疲れ様でした」とわたしたちは言った。
このような日々が金曜まで続き、待ちに待った土曜になった。1週間の疲れが溜まっていたので午前中は宿で休み、午後から東京都美術館へ向かった。東京都美術館の新館の大規模改修工事が行われ、新装オープンしたとのことでわたしはこの土曜日を利用して、マウリッツハイス美術館展「オランダ・フランドル絵画の至宝」を観に行った。もちろん展示してある美術品よりも、リニューアルオープンとなった都美術館の建物が目当てである。2012年に世界で行われた美術展の中で一番多くの来館者が訪れたという美術展だけあって、人酔いする程の雑踏の中、美術館内を観て周り、それを早々に切り上げ、美術館を出て、美術館の建物を堪能した。茶色の外壁が段を織りなすように重なり、美術館を形成していて、あいにくの梅雨空だったが私の心は躍った。小雨に濡れそぼりながらも、私は都美術館の周りを1周した。さすがは世界一の観客を集める美術館だ。何かが違う。人を惹きつけてやまないものがある。その他、東京には数多くの美術館や興味深い建物が多くあり、私を魅了してやまない。
日曜は朝から竹橋にある東京国立近代美術館へと足を向けた。60周年を記念して4階から2階の所蔵品ギャラリーが、建築家西澤徹夫氏との協働でリニューアルされたとのことで、「東京国立近代美術館 60周年記念特別展 美術にぶるっ! ベストセレクション 日本近代美術の100年」という催しをやっていた。4階から1階までの美術館の全ての展示室を使った盛り沢山の企画展であった。
4階から観られるようになっていて、まず最初に日本画が展示してあった。重要文化財の上村松園「母子」が目玉になっていてまず目を惹かれた。その他絢爛豪華な着物をまとった美人画や風俗画、景色画などそうそうたる顔触れの絵描きたちの作品が並んでいた。
4階には「お濠を臨む休憩コーナー」というものがあり、皇居東宮苑のお濠端を一望できる一角がある。わたしはそこで一息ついて、景色を眺めた。
それから3階に降り、今度は外国絵画を観た。ピカソ、マチス、ゴヤ、ゴッホなどの非常に有名な絵画から、現代の非常に著名であろうはずだが、不勉強のわたしが知らないだけの作家たちの素晴らしい絵画が陳列してあった。わたしは段々と絵画の世界に惹きこまれ、のめり込んで行った。
2階は現代美術。ビデオを使ったアートなどが展示してあるとても不思議な空間であった。
わたしはアートは毒にも薬にもなると思う。ふんわりと上っ面を観ている分にはいいが、深入りすると毒にあたる。わたしは2階の現代アートのあたりから段々と毒にあてられていった。
そして1階は抽象画および戦争をモチーフにした絵画。わたしの頭は段々とふらふらしてきて正気を失って来た。4階から1階までとにかく展示の数が多いのである。そしてディープである。美術に「ぶるっ」と来るよりも、「ぞくっ」と来た。1階の展示室は迷路のようになっていてどこが出口だかわからない。そこに強烈な抽象画やら戦争を主題にした絵画が飾られている。わたしは段々と怖くなってきた。
抽象画のあらわす言語化しづらい感情、戦争画が表す、死んでいった兵士や民間人の魂、こういったものが混然一体となってわたしを襲ってくる。わたしは一刻も早く美術館から出たかったが、出口がどこにあるのか分からない。散々迷った挙句、係員さんに出口の場所を訊き、ようやく展示室から出ることができた。わたしの心臓はまだドキドキしている。これは強烈な美術展だなと思った。
それは人間の心を容赦なく突き刺し、体の外へ露出させ、自分の弱さを、感受性の脆さを白日のもとへと晒してしまうような体験だった。
わたしは展示室から出るとすぐ脇にあるレストランに入り紅茶を飲んで気分を落ち着けさせた。美術館でこんな思いをしたのは初めてである。
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旅館に帰って明石先輩にこの話をすると「美術館には魔物が棲んでいるのよ」といった。
「え、魔物?」
「そう、魔物。芸術に魅せられた人をその奥深くまで惹きこんで行く魔物よ。美術品や展示室、美術館の建築自体が生み出す魔物と言えるわ」
「なんだか怖い」
「そこを怖がっていては美術館の設計はできないわよ。来週はわたしと一緒に国立西洋美術館へ行きましょう『プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影』展が開催されているわ」
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翌土曜日、わたしと明石先輩は国立西洋美術館へ出かけた。ゴヤの「着衣のマハ」を観られるのは楽しみである。
世界遺産の候補にもなったぐらいの建物だけあって、近代的な面持ちを持つ正面の左手には小さな庭がありそこに前庭彫刻が置かれていて、何か特別なものを感じさせる。
館内に入ってみると、ゴヤの様々な絵が並んでいた。戦争の様子を描いたもの、銃殺される人々を描いたもの、人間を喰らう鬼のような存在を描いた「我が子を食らうサトゥルヌス」、貴族の生活を描いたもの、その他数多くの素描画。わたしはとにかくゴヤの世界に入りこまされて行った。西洋美術館中とにかくゴヤの絵だらけで、その一つ一つが強烈かつ鮮烈で、わたしにとってはショックの連続であった。段々体が震えてきて、手のひらからは汗がじっとりと出て来ていた。明石さんは「ゴヤってすごいでしょう。わたしもこんなに沢山のゴヤの絵を観るのは初めてだから強烈だわ」といい「愛ちゃん大丈夫?」と訊いて来た。わたしは「はい、なんとか」と答えさらに歩を進めた。
3時間ほどかけ全ての絵を観終わったときにはわたしの背中は汗でびっしょりだった。明石先輩も同様で、やっとのことで立っているという感じだった。二人してふらふらになりながら美術館内のカフェに入り、わたしはアイスコーヒー、明石先輩はアイスティーを注文した。
「ここにも美術館の魔物がいるわ」
「いますねえ」わたしはボーっとしていった。
「しかしゴヤの絵がここまで強烈だとは思わなかったわ。画集で観るのとは大違いね」
「先輩、画集とかよく観られるんですか?」
「まあね。設計の何かの足しになればと思って」
「わたしも見習わなくちゃ」
「お茶を飲み終わったらこの美術館の外観を見学しましょう」
「はい」
わたしたちはお茶を飲んで元気を取り戻したところで美術館を出た。外観は長方形に見えるが、柱の立て方や小庭や銅像の配置が絶妙でこれを設計したというル・コルビュジエに敬服するしかなかった。わたしもいつかこんな建築物の設計に携われるだろうか?そんなことを思いつつ外観を見学した。
そこで突然、二人組の男の子に声をかけられた。
「やあ、あなたたちも美術館の魔物にやられた口ですか?」二人組の眼鏡をかけた方がいった。
「は、はあ」わたしは曖昧に答えた。
「はい、まったくゴヤにしてやられました」明石先輩は初対面の男たちに対して臆することなく答えた。
「いやあ、ゴヤっていうのは素描画から着衣のマハや宮廷画まで膨大な量の絵を描いていますが、どれも鮮烈な衝撃を人に残すものですね」眼鏡をかけていない方の男が言った。
「わたしはゴヤに毒されたという感じです」わたしはため息をつきつつ言った。「芸術というのは毒にも薬にもなるものなのですね」
「まったくそのとおり」眼鏡をかけているほうの男が言った。
「あ、自己紹介が遅れました。わたしは近くの芸術大学に通う鹿島薫と申します。それであちらが丸山毅です」眼鏡をかけている男が言った。
「はじめまして」丸山は彫の深い笑顔を作って言った。
「わたしは先週、東京国立近代美術館の『美術にぶるっ!』でもやられましたよ、魔物に」
「あなたもですか?われわれもです。あれも強烈な美術展だった」丸山さんが言った。
「どうです?毒気を抜きに、公園を散歩しませんか?」鹿島さんが誘ってきた。これってナンパ?とわたしが思っていると明石先輩が「いいですわよ」とあっさり答え、不忍池の方へさっさと歩いて行ってしまった。明石先輩にはニューヨークに彼氏がいるというのに、と思いつつもわたしはイケメンの丸山さんにつられてついて行った。必然、明石先輩は眼鏡の鹿島さんとわたしはイケメンの丸山さんと並んで歩くこととなった。
「名前を訊かしてもらってもいいですか?」
「永瀬愛と申します」
「可愛い名前ですね」
「なんだか恥ずかしい」
「美術にはどうして興味をもつようになったんですか?」
「美術も興味がありますが、美術館の設計の方がより興味があるんです。大学で建築学科に在籍しているものですから」
「なるほど」
「丸山さんは大学で何を専攻しているんですか?」
「油、油絵です。食えない芸術ですよ。画家になれなかったら、学校の美術の先生になるくらいしか道は無い」
「でも芸大なんてすごいじゃないですか?」
「僕より才能のある奴はいっぱいいる」
「そんなもんですか?」
「そんなもんです」
わたしはなんだかしゅんとしてしまった。気がつけば不忍池をもう3分の1周ほどしていた。明石先輩と鹿島さんは美術に関して何か意見を交わしている。難しそうな話だったのでわたしはそっとしておくことにした。
「永瀬さんボートにでも乗りませんか?」
「いいですねえ」
わたしと丸山さんはボート乗り場へ行き、船を一艘借りた。
「ちょっと陽射しが強いですね」
「わたしは瀬戸内の強い日差しに慣れてますから大丈夫ですわ」
「瀬戸内海ですか。どのあたりですか?」
「広島です。実家は仙台なんですけど」
「広島ですか。僕は修学旅行で尾道にしか行ったことがありません。でもあそこはなかなかいい土地だった」
「わたしは尾道には行ったことがありません。まだ広島に来て1年目ですから。丸山さんは何年生ですか?」
「3年生です」
「じゃあ明石先輩と一緒ですね」
「永瀬さんは若いんだなあ」
「ガキなだけですよ」
「でも将来の夢はちゃんと持ってるんでしょう?」
「途方もない夢ですけど、美術館の設計に携われればと思います」
「だから色々と美術館を回ってるんだ?」
「今は1カ月半の東京でのインターン中ですので、平日は設計事務所で働いて、週末に美術館巡りをしています。しかし東京はうらやましいですね。貴重な美術展があっちこっちで開催されていて回りきれないくらいですよ」
「うん、僕も自分が恵まれていると思う」
「丸山さんはどちらのご出身ですか?」
「埼玉です。今でも実家に住んでいます」
「実家かいいなあ」
「家賃はかからないし、飯はついてくるし、洗濯はしてくれるしね。全く楽なもんだよ」
「羨ましいわ。でも一人暮らしも気軽でいいわよ。わたしは寮生活だけど、にぎやかで楽しいわ」
「僕は産まれも育ちも埼玉だからね。なんだか中途半端だよ」
「埼玉って言ったら東京のベッドタウンですよね?」
「う~ん、そうとばかりは言えないんだ。埼玉で産まれ育って、埼玉県内で職を得て、買い物も遊びも埼玉っていう友達が僕にはたくさんいるからね。自己完結した地方都市でもあるんだ。特にさいたま市なんかはね」
「わたし埼玉って行ったことない」
「行く必要性もないだろうからね。ははは。なんだかさみしいな」
「なんかごめんなさい」
「いやいいんだよ。現実だから」
「二人が心配している頃ね。そろそろボート降りましょうか?」
「そうだね」
わたしと丸山さんはボートを降り、まだ何か言い合っている明石先輩と鹿島さんの座っているベンチへ向けて歩いて行った。
「やあ、どこへ行っていたんだい?」
「永瀬さんとボートに乗っていたんだよ」
「あらまロマンティックなこと」明石さんが茶化した。
「ロマンティックな話なんかしてませんよ」丸山さんがいい訳をした。
「結局世間話で終わってしまいましたね」とわたしはいった。「お腹空きませんか?」
「僕たちもお昼は食べてません」
「じゃあどこかで食べませんか?」明石先輩は言った。
「上野駅を下ったところに小籠包が売りの美味しくて安い飲茶があるんです。そこ行きませんか?」
「いいですねえ」わたしと明石先輩は声を揃えて言った。
わたしたちは下町風俗資料館の脇からヨドバシカメラを抜けて、線路沿いに出て、右に曲がりしばらく行ったところにある小汚い飲茶のお店をみつけた。
「えー、ここですか?」明石先輩が無遠慮に不満を口に漏らした。
「店構えは小汚いけど、ここはまじで美味いんですよ」鹿島さんがいった。「騙されたと思って入ってみてください」
わたしと明石さんはあまり気乗りがしなかったが二人の後に続いてその飲茶へ入って行った。昼食時はもう過ぎたというのに店内は混んでいた。利発そうな中国人のウエイトレスが忙しそうに飲茶を運んでいる。わたしたちは入り口に近い席に通された。
ウエイトレスの一人がやってきて拙い日本語で「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」といい、4人前のジャスミンティーを置いて去って行った。
「オーダーは僕たちに任せといてください」鹿島さんは言った。
二人はしばらく相談した後「小籠包2つに、春巻2つ、ハーガウ1つにチョウファン1つ、それにローパーコウ1つとハムソイゴッ1つぐらいでいいかな?といい、そのオーダーを紙に書きつけ、ウエイトレスに渡した」
「なんだか猥雑なお店ねえ」明石先輩がいった。
「でしょ。九龍城にある本場のお店って感じがするでしょ」鹿島さんが得意げに答えた。
しばらくして飲茶各種が運ばれてきた。わたしは小龍包から食べた。中から肉汁がじゅわっと出てきてとても美味しい。次に春巻きを食べた。皮がかりっと揚がっていて食感がいい。次にハーガウに挑戦してみた。エビがぷりぷりしていておいしい。どの飲茶もおいしく満足の行くものだった。お腹もいっぱいになった。わたしたちもあちらも貧乏学生なので割り勘にした。一人1000円もいかなかった。お財布に優しい昼食であった。
「来週は広尾の山種美術館に日本画を見に行きませんか?」丸山さんが言った。
「来週、わたしは予定があるわ」明石先輩が言った。
「僕もちょっと無理だなあ」鹿島さんが言った。
「二人で行ってきたらいいじゃないの?」
「はあ」わたしは曖昧な返事をした。「山種美術館には魔物はいませんかねえ?」
「行ってみなきゃ分かりません」丸山さんがいった。「じゃ、来週の土曜の午後1時に山種美術館の前で集合ということで」
「わかりました」わたしはなんとなく答えてしまった。
○
「ねえねえ、丸山さんってちょっといい男じゃない?」
「そうでしょうか?」
「だってあなたたち今日いい感じだったじゃない?」
「まあ話は弾みましたね」
「芸大の彼氏なんてちょっとカッコいいじゃない?」
「遠距離になっちゃいますよ。わたしも彼もお金ないし」
「毎年、インターンシップで東京に出てくればいいじゃないの?」
「織姫様と彦星様みたいですね」
「今は安い高速バスも沢山出ているから、それ使えばあまりお金をかけないで東京に来られるわよ」
「まあ、まだなにも始まった訳ではないし、先輩先走りし過ぎですよ」
「ははは、つい楽しくて」
「それより先輩と清水壮太朗准教授の恋話を聞きたいです」
「それは今度また暇な時にね」
「つまらないの」
○
翌週の土曜はすぐにやってきた。インターンシップも3週目となり大分コツを掴んで来たため、仕事が面白くて仕方が無かったのだ。
午後1時きっかりにわたしはグーグルマップを使って、山種美術館にやってきた。丸山さんはまだ来ていなかった。わたしはてっきり丸山さんが先に来て待っていてくれるものと思っていたのだが、期待はずれだった。思えばこれはデートといえなくもない。わたしの人生初デートである。相手も悪くない。わたしが駒沢通りのいちょう並木の木陰に隠れて日光を避けて待っていると、丸山さんは15分遅れてきた。わたしが少しぷんぷんしていると、「ごめん、ごめん。埼京線が人身事故で遅れちゃってね」
「埼京線なんて線、わたし知らないわ」
「埼玉と東京を新宿・渋谷の辺りで結んで、新木場の方まで行く線だよ。これができて埼玉県民は大分楽になったんだよ」
「ふ~ん。まあ、許してあげる」
「今日の展覧会は『和のよそおい ―松園・清方・深水―』だよ。僕の専門は油だが、たまには日本画を観るのも勉強になる」
「この美術館の設計も独特だわね。壁がまるで洗濯板を横にしたようになっている」
「うん、美術館の建物もアートといえるからね。そのアイデンティティーが問われるから独特の建物になる」
「今日は和服姿の美人画がメインでしょ。楽しみだわ」
「ああ、日本の着物もアートといえる境地に達しているね。最近ではあまり普通の人に着られなくなったのが残念だが」
「成人式の振袖ぐらいね」
「永瀬さんはまだ成人式も済ませていないね」
「ふふ、そうですね。おこちゃまです。お酒は飲んじゃいますけど」
「少しぐらいならいいだろう。さ、中に入ろう。暑いし」
わたしと丸山さんは美術館の中へ入って行った。空調が効いていて涼しかった。入り口の右手にはベンチがあり、わたしはそこで座って待っていればよかったと思った。左手に受付カウンターがあり、わたしたちは1000円ずつ払ってチケットを買い、展示室へ入って行った。
「おお、これは素晴らしい」小倉遊亀の「舞う」の愛らしい舞妓を描いた絵を観て丸山さんが言った。
「うん、かわいらしい舞妓さんだわ。体の芯がしっかりと描かれていて、綺麗な舞を踊っているのが伝わってくる」
「きっと、きちんと稽古を積んだ本物の舞子さんをモデルにしたんだろうな」
「こっちの土田麦僊の『舞妓』はまた趣が違うね」
「うん、なんだか線の細い舞妓が描かれている。小倉遊亀とは対照的だな」
「儚くて淡い色使いが特徴的よね」
「舞っているんじゃなくて、座っている姿だね」
「先斗町のお茶屋さんでお客さんからお呼びがかかるのを待っているといった感じかしら」
「こっちの奥村土牛の『舞妓』はなんだか大人っぽいな」
「目がつりあがっているわ」
「手に持っているのは玉子かな?化粧道具かな?」
「きっと手鏡よ」
そんなやりとりをしながらわたしたちは絵の世界に入って行った。
上村松園の「夕べ」にすだれから覗かれる儚げな美を、鏑木清方の「伽羅」の江戸情緒溢れる美、伊東深水の「春」の桜を背景とした凛とした乙女の美、その他のそうそうたる日本画家の美人画が並び、わたしと丸山さんは圧倒されて行った。
「こう素晴らしい美人画が並ぶと壮観よね」
「ああ、言葉を失う瞬間がある」
「ここには美術館の魔物はいないのかな?」
「どうかな?わからないけどゴヤ展の時のような陰鬱とした気持ち悪さはないな。美人画だけあって」
「でも何か分からないけど、美術とか芸術とかって怖さを感じる時の方が多いわ」
「永瀬さんが目指している美術館の設計というのもある意味、美術とか芸術ってことになるんだぜ。美術とか芸術とかよく知らないと美術館の設計なんてできないんだから」
「わたしまだ大学1年だからよく分からないことが多いわ」
「僕はもう大学3年だけど、まだまだ暗中模索って感じだよ」
「芸術の世界は奥が深いのね。ところで丸山さんは美術館の魔物の正体は掴んでいるの?」
「魔物の術中にはまって永瀬さんみたく大変な思いをしたり、気配を感じたりすることはあっても正体は掴んでいないよ。闇の中さ」
「怖いわね」
「怖いよ。さ、展示室の出口だよ。今日は魔物は何もしなかったみたいだね」
「そうね」
「ミュージアムショップでお土産買わなくていいの?」
「今日はいいわ。頭の中に叩き込んだから。それよりもお茶が飲みたい。今日は暑いから冷たいものがいいわ。美術館併設のカフェがあったでしょ確か?そこに行かない?」
「永瀬さん、それよりもさ、恵比寿駅前のカフェでビールでも飲まないか?いっぱい汗かいたしきっと美味しいよ」
「いいわよ。お昼ごはん食べてないから、なにか腹ごしらえもしましょう」
そうしてわたしと丸山さんは恵比寿駅まで歩き、駅構内にあるカフェに入り、ピッツァをつまみにビールを飲んだ。
「やっぱりビールはレーヴェンブロイの生が美味いな」
「わたしは味なんてまだよく分からない。チューハイばかり飲んでいるから。あ、でも東京に来てからは教授とインターンシップの同僚たちとビールと日本酒を飲んだわ。でも確かに、こう暑いとビールが美味しく感じるわね。のどごしがいいわ」
「ビールの醍醐味はのどごしだよ」
「もう1杯飲んでいい?あとマルゲリータピッツァも」
丸山さんはウエイトレスにビールジョッキお代わり2杯とマリゲリータを注文してくれた。ビールのお代わりとマルゲリータはすぐに運ばれてきた。わたしと丸山さんはマルゲリータをつまみにしてすぐに2杯目のジョッキを空け、3杯目を注文した。
「こんなにビールが美味しいと思ったのは初めてだわ」
「ははは、大人の仲間入りかな?」
「そういう丸山さんだってわたしと2年しか違わないじゃない?」
「そうだけど、二十歳前後の2歳差ってのは大きいよ」
「まあ、そうかもね。わたし今年の3月まで女子高生だった訳だし」
「それ考えるとなんだか犯罪犯してる気になってくる。ははは」
「大げさよ。もう校則もないし、淫行にもならないわ」
「おいおい」
「やだ、わたしそんなつもりでいった訳じゃないんだけど」わたしは紅潮し、汗って打ち消した。
「わかってるよ。まあ、飲みなよ。すいません、お代わり二つください」
「わたし酔ってるのかしら」
「夜はまだ早いから、帰るまでに覚ます時間は十分あるよ」
「じゃあ、あともう1杯だけ」
「すいません。ビールお代わり!」
「ビール美味しいけど、そろそろ酔って来たわ。ちょっとトイレ行ってくる」
「吐くんじゃないよね?」
「まさか。そんなに弱くありません」
わたしはトイレに行き、用を足し、鏡を見て化粧直しをした。まさか今夜が初めての夜になるわけないわよね。わたしは淡い期待を打ち消し、席に戻った。
「ただいま~。ふう。程よい酔い心地だわ」
「僕も今夜は気分がいいよ」
「美術館の魔物も出なかったしね」
「うん。ところで明日の予定は?」
「国立新美術館に行くわ」
「大エルミタージュ美術館展だね」
「そうよ」
「僕も行きたいなあ」
「来ればいいじゃないの?」
「いいの?」
「うん」
「じゃあ、行く」
「待ち合わせ、どうする?」
「う~ん、千代田線乃木坂駅青山霊園方面改札6出口に1時は?」
「お昼ごはんはどうする?」
「どっかで食べて行くわ。遅刻しないでね」
「明日は15分前に来て待ってる」
「スマホの番号交換しておきましょうか?丸山さんの番号は?」
「090―××××―○○○○だよ」
「今鳴らすから待ってて。えーっと」
「鳴った鳴った。これが永瀬さんの番号かあ。そろそろ帰ろう。送ってこうか?俺帰り南北線だから」
「じゃ、お願いしようかしら」
わたしと丸山さんは恵比寿駅まで歩き、山手線で駒込まで行き、そこから南北線に乗って東大前まで帰って来た。
東大前から宿へ向かう道すがら、丸山さんは「いいところに宿がありますね」といった。「上野も近い」。
宿に着くと筒長教授が丁度庭園を散歩しようとしているところだった。
「筒長教授、ただいま戻りました」
「やあ、お帰り。少しお酒を召しているようですが」
「はい。こちらにいる芸大の丸山さんと少し飲んでました」
「少しではないでしょう?殿方に送ってもらっているんですから」
「えへへ」
「それから、外食する時はちゃんと連絡を入れなくちゃ駄目ですよ。旅館の人も困るでしょう」
「はい、すみません。今後気をつけます」
「丸山さん、本日はうちの学生がお世話になりました」
「いいえ、いいえ。僕は楽しい時間を過ごしました」
「見ての通りの田舎娘ですから、色々と注意してあげてください」
「永瀬さんはしっかりしていますよ」
「あれで、もう結構酔っているんですよ。今日はわざわざお送りくださってありがとうございました」
「いいえ、いいえ。今日は楽しい時間を過ごさせてもらいましたから。それでは失礼させていただきます。永瀬さん!おやすみなさい!」
「ふぁ~い。おやすみなさい」
「じゃ、先生、失礼いたします」
○
わたしはその晩、お風呂に入るとすぐにぐっすり寝て翌朝7時に起きた。9時ぐらいに戻ってきて10時には寝たので都合9時間ぐらい寝たことになる。朝、朝食の席で轟先輩が話しかけてきた。
「デートは楽しかったかい?」
「デートなんかじゃありません。美術鑑賞と美術館の建築の勉強です」
「それにしちゃあ、帰りが遅かったじゃないか?」
「夜9時といったら早い時間です」
「9時まで何やってたんですか?」いきなり奏君が訊いてきた。
「ちょっとビール飲んでただけよ」
「この次はいつ会うの?」明石先輩まで訊いてきた。
「今日です」
「おー、熱いねえ」轟先輩が言った。
「もう、茶化さないでください。出会ったばかりなんですから」
「今日も会うんですか?」筒長教授まで訊いてきた。
「はい、一緒に国立新美術館に行きます」
「今日の展示は何をやるんですかな?」
「『大エルミタージュ美術館展 世紀の顔・西欧絵画の400年』です」
「ほう、それは興味深い展覧会ですな」
12時に旅館を出れば十分待ち合わせに間に合うので、わたしは朝食後部屋で明石先輩とのんびりしていた。
テレビを見ていると気象庁が梅雨明け宣言をしたとのことだった。長い梅雨だったがあんまり雨は降らなかったなとぼんやり思った。
「梅雨明けましたね」
「そうね。海でも行きたいところだけど、わたしたちにはインターンシップがあるから無理ね。でもあなたは丸山さんと会えるから楽しいわね」
「楽しいですけど、インターンシップもずっと続くわけではないですからね。明石先輩は彼氏がニューヨークにいて寂しくないですか?」
「彼は学会とかでちょくちょく日本に戻ってくる度に会いに来てくれるし、わたしも春休みを使ってニューヨークに行ったりしてるの。それに今はスカイプとか色々ネットが発達してるでしょ。思ったより寂しいとは思わないわ。そう考えると東京と広島なんて大したことないわ」
「そうですよねって、わたしと丸山さんまだ付き合い始めた訳じゃないですよ」
「はたから見てるとかなりいい感じに思えるんだけど」
「そうですかねえ」
そんな話を何となくしていたら11時になったので、わたしは出かける準備をした。といってもわたしが東京に持って来た服というとデニムにTシャツばかりでコーディネートも何もあったもんではないのだが、わたしは薄化粧をしてオードトワレを首筋に吹き付けた。
「いい匂いね」
「わたし汗っぽいからいつも持ち歩いてるんです」
歩く時間も考えて、わたしは12時15分に旅館を出た。強い日差しに肌がじりじりと焦がされるような午後だった。街路樹の葉も干からびそうな勢いで、わたしの体の水分も急激に失われて行く感覚がした。わたしは自動販売機でミネラルウォーターを買ってキャップを空けて水を口に含んだ。冷えた水が甘露のようにわたしの喉を潤した。
すぐに南北線東大前駅に着いた。地下鉄の駅を降りてゆくと段々と空調が効き始め、涼しくなってきた。わたしの体は息を吹き返した。
乃木坂までは乗り換えを入れて25分もかからなかった。わたしもようやく東京の地下鉄に乗り慣れて来た。エスカレーターや長く複雑な地下道はあるが、天井からぶら下がっている案内表示に従ってさえいれば迷うことはないのである。
わたしは5分前に乃木坂の青山霊園方面改札6出口に着いた。丸山さんは既に来ていた。
「やあ、今日は暑いねえ」
「ホント。途中で水を買っちゃった」わたしはトートバックからボルビックの青い透明なペットボトルを見せながら言った。
「美術館まではこの地下鉄の通路から直結で行けるよ。暑い思いをしないですむよ」
「ふふふ。今日の丸山さん、お洒落ですね。いかにも油やってますって感じのお洒落」丸山さんは生のデニムに黒いTシャツ、首にはシルバーのネックレス、腕にはターコイズのブレスレットをつけていた。足元は茶色い皮のサンダルである。
丁度正面玄関の裏手から入って行くような感じでわたしと丸山さんは美術館へ入って行った。入ると受付カウンターへ周りチケットを2枚買い、展示室へと入って行った。展示室は第1章から第5章まで分かれており、第1章が「16世紀 ルネサンス:人間の世紀」、第2章が「17世紀 バロック:黄金の世紀」、第3章が「18世紀 ロココと新古典派:革命の世紀」、第4章が「19世紀 ロマン派からポスト印象派まで:進化する世紀」、第5章が「20世紀 マティスとその周辺:アヴァンギャルドの世紀」と盛りだくさんな内容となっている。
第1章では、わたしはバルトロメオ・スケドーニの「風景の中のクピド」が気に行った。恋のキューピットとも称されるクピトの弓矢が丸山さんに刺さればいいのに、なんてことも想像したりした。丸山さんはロレンツォ・ロットの「エジプト逃避途上の休息と聖ユスティナ」の色使いがいいと言っていた。
ルネサンスの絵画はどれも革新性を感じさせ、この時期には、芸術と人文主義という姿勢、つまり古代のギリシャ、ローマ文化に学ぶという姿勢から新しい芸術がどんどん生み出されたとのことである。どの絵も生き生きとした生命感に溢れ、新しい時代の到来を告げているようである。
第2章では、ルーベンス、ヴァン・ダイクのほか、オランダ美術の巨匠レンブラント等の絵が飾られていた。有名な絵ばかりで、わたしもどこかで見覚えのあるような絵が多かった。わたしが惹かれたのはレンブラントの「老婦人の肖像」である。伏し目がちに何かを考えている老婦人はきっと聡明な人だったに違いないとわたしは思った。自分の死期を悟ったり、過去の過などを思い出したりしているのであろうか?その瞳は深遠な湖のようである。丸山さんはバロックを代表するのはルーベンスの「虹のある風景」のような動的な風景であると主張した。
第3章に来た。18世紀は革命の世紀である。バロック様式が王朝のもとでロココ様式に昇華したかと思えば、イギリス産業革命やアメリカ独立戦争、フランス革命が起こり、市民革命と近代化の波が怒涛のように押しよせたのだ。この章ではロココから新古典派にいたる様式の変遷を表現していた。
わたしはゲランの「モルフェウスとイリス」が非常に美しく、見とれてしまった。しかも美青年のあそこが見えちゃってるんですよね、この絵。ちょっと興奮。イリスの裸体も美しく、こんなスタイルだったらいいのになあと思った。恋のキューピットが描かれているところを見ると、モルフェウスとイリスはできちゃうのかなとか思っちゃいました。丸山さんにその話をすると「興味深い見解だが、ややロマンティックな考えに走り過ぎていて、本質を見誤っている」と言われてしまった。
第4章に来ました。市民社会が形成され科学技術が目覚ましく進歩した19世紀には、さまざまな芸術の手法が模索されたらしい。その中でこの章ではロマン派から新印象派、そしてセザンヌまでが展示されていた。
わたしはぱっと見た目でルノワールの「黒い服を着た婦人」がルノワールにしては色使いがシックで逆にそこが良く、モデルの顔も引き立ち、魅力的な絵だというと、明石さんは「君は見た目の印象に引っ張られ過ぎている。セザンヌの『カーテンのある静物』の方が事物の本質をついていて素晴らしい」と言われてしまった。なんだかしゅんとしていると「他人の意見に左右されることはない。自分がいいと思った絵がいい絵なんだ。ただ観ながら感想をいい合うのが楽しいんだよ」とも言ってくれた。
第5章、いよいよ20世紀である。ピカソに大きな影響を与えたとされる大センセーションを起こしたマティスやマルケなどのフォーブ(野獣)主義を始め、19世紀末から20世紀初頭の絵画の登場である。
ルソーの「ポルト・ド・ヴァンヴから見た市壁」がなぜかSF的な印象をわたしにもたらしたが、ピカソの「マンドリンを弾く女」は斬新で「これがあのピカソか!」という思いも入って印象に残った。丸山さんはマティスの「赤い部屋(赤のハーモニー)」が気に入ったようでしきりに見行っていた。
○
@@@
丸山さんの横顔を見やっていた次の瞬間、一瞬美術館が真っ暗になった。明るくなったと思ったら、美術館には人がいなくなっていた。丸山さんまで。さっきまであんなに賑わっていたのに。
わたしは美術館の順路を逆に辿り、第4章、第3章、第2章、第1章と丸山さんを探して行った。しかし丸山さんどころか、美術館内には人が一人もいないのである。
美術館の受付を出て振り返ってみると「本日閉館日」という札がかかっていた。美術館の入口あたりをうろついていると警備員さんに「ここで何をやられているんですか?」と怪訝な顔をされたので、わたしは「迷ってたら中に入っちゃったんです」と嘘の言い訳をして、六本木側の正門から外へ出た。そのまま外苑東通りへ出て、六本木駅へ行った。そこでわたしは丸山さんのスマホに電話をかけてみることにした。「電波の届かない所にいるか電源が切れています」とのアナウンスが流れた。スマホで曜日を調べてみた。やはり土曜日である。日比谷線と丸ノ内線で南北線まで出て、旅館まで帰ってみた。部屋では明石先輩がうたた寝をしていた。
わたしは寝ている明石先輩を揺り動かして起こし、「明石先輩、丸山さんが消えちゃったんです」と言った。
「スマホには電話かけてみたの?」
「ええ、かけました。『電波の届かない所にいるか電源が切れています』ってアナウンスが流れるんです」
そしてわたしはことの顛末を明石さんに話した。
「丸山さん、美術館の魔物に摑まったかもね。ねえ、今日って本当に美術館開館してたの?」
「わたしと丸山さんが入館したときは確かに開館していたんです。ところが最後まで見終わって、一瞬暗くなったなと思ったら、大勢いた人たちが、丸山さんも含めて一瞬のうちに消えちゃったんです」
「最後に飾られていた絵は何?」
「マティスの『赤い部屋(赤のハーモニー)』です。丸山さんはその絵がいいといっていました」
「明日もう1度、国立新美術館に行ってみましょう、わたしと一緒に。設計事務所の方にはわたしから話を通しておくわ。急用ができたので休みますって」
「はい、お願いします」
○
翌朝は雨が降っていた。わたしと明石先輩は傘をさして旅館を出た。地下鉄で乃木坂まで行く間、わたしたちは無言だった。乃木坂に着き、改札を出たところで、「昨日ここで丸山さんと待ち合わせたんです」とわたしは言った。
そしてそのまま美術館へ入って行った。明石先輩が美術館のスタッフに「昨日は開館日でしたか?」と訊いた。スタッフは「いいえ、昨日は閉館日でした」といった。一応、スマホで国立新美術館のスケジュールを調べてみた。昨日は「準備日」となっていた。
わたしと明石先輩は、昨日わたしと丸山さんが辿った道を丁寧に見て回った。どこにも痕跡はない。昨日と様子は一緒である。ところが最後の第5章へ来たところで異変に気付いた。丸山さんがいいと言っていたマティスの「赤い部屋(赤のハーモニー)」の絵の中に丸山さんがいたのである。フルーツの皿を整えるメイドの後ろの椅子にデフォルメされた丸山さんが座っているのである。わたしと明石さんは驚愕した。ミュージアムショップへ行き「赤い部屋(赤のハーモニー)」のポストカードを見てみてもやはり椅子には丸山さんが座っている。いったいどんな世界になってしまったのだろう?丸山さんは絵の中にどうして入ってしまったのだろう?
「これは絶対に美術館の魔物のせいね」明石先輩は言った。
「どうしたら丸山さんは帰ってくるんでしょう?」
「わたしたちも絵の中に入るしかないわね」
「どうやって?」
「わからないわ」
わたしたちはとりあえず閉館まで美術館にいることにした。絵の前でずっと立っているのは疲れるので、美術館の入り口にあるカフェで時間を潰した。
「丸山さん、出て来られるかしら」わたしは涙声で言った。
「入れたんだから、出て来られないことはないでしょう。わたしたちもこれから入ろうとしているんだから」
「美術館の魔物ってどこにいるんでしょうか?どうやったら会えるんでしょうか?」
「どこの美術館でも会えるでしょうね。どこにもいるし、どこでも会えるともいえる。そして永瀬さんのようなひとに怖い思いをさせたり、丸山さんを絵の中に閉じ込めてしまったりする」明石先輩は「赤い部屋(赤のハーモニー)」のポストカードを手で弾きながら言った。「わたしたちはもう異次元に来ていると言えるかもしれないわね。この世界では丸山さんは絵の中にいるんだから」
「なんだか怖いです」
「わたしたち二人はこの絵がおかしいってことに気づいているから、今、この絵を当たり前と思っている人たちとは違うんでしょうね」
「でもなんで明石先輩はわたしと同じ次元にいるんでしょうか?」
「きっとあなたと旅館で同じ部屋で、丸山さんとあなたが出会った時も一緒にいて、色々と時間を共有したせいかもしれないわ。わたしにもよくわからないけど」
そろそろ午後5時になろうとしていた。二人で美術館をもう1周してみることになった。第1章、第2章。何も起こらない。第3章で頭痛がしてきた。
「大丈夫?」
「はい、なんとか」
第3章。
「わたしもちょっと気持ち悪くなってきたわ」明石先輩が言った。
第4章。明石先輩もわたしも無言になった。そして第5章に入ろうとすると、第5章の展示室の方から赤い光が見えてきた。
「なんだか入るのが怖いです」
「行くしかないでしょう」
二人しておそるおそる展示室に入って行くと、そこはマティスの「赤い部屋(赤のハーモニー)」の中の世界そのものだった。そして椅子には丸山さんが座っていた。
「丸山さん!」
「やあ、永瀬さん。明石さんも来てくれたんだね」
「大丈夫?」
「この赤い部屋から出ることができないんだ」
「丸山さん、絵の一部になっちゃったんですよ」
「今はわたしと永瀬さんも絵の一部かもね」明石先輩が言った。
「あっ、ここ第5章の展示室じゃないわ。完全に赤い部屋になっていますよ。どこが出口かしら?」
「すいません、メイドさん。この部屋の出口はどこになりますか?」明石先輩が訊いた。
「わたしの後ろのドアになります」
「後ろのドア?」
わたしたち3人はメイドの背部を覗いてみた。確かにドアがある。
「ねえ、ちょっと出てみましょうよ」明石先輩が言った。
わたしたち3人は恐る恐るその絵には描かれていないメイドの後ろにあるドアを開いてみた。赤い廊下が広がっていた。
「さあ、行ってみましょう」
「ちょっと怖いです」
「行ってみるしかなさそうだな」
明石先輩を先頭にして丸山さん、わたしと続いて赤い廊下を進んで行った。ひたすら赤い廊下が続いた。廊下の壁にはやはり赤い絵がかかっていた。赤い廊下は時々右へ曲がったり、左へ曲がったりした。しばらくすると、分かれ道にきた。そういう時は明石さんが直感的に道を選んだ。そして小1時間ばかり歩いた後、やがて廊下は突当たり、突当たりにはドアがあった。
○
ドアの中からは「ふぅ~、ふぅ~」と荒い息づかいが聞こえてきた。
「なんだか怖いですね」
「いったいどんな生き物がいるんだろう?」
「入ってみるしかなさそうね」明石先輩は慄然としていった。そして明石先輩はその荒い息づかいの聞こえるドアを開けた。
そこに見えたのは、19世紀の英国紳士のような格好をした男である。しかし体が異様にでかい。よく見ると顔は犬である。
「誰だね?」その犬の紳士は言った。
「あ、明石と申します。こちらの男性が丸山さん、こちらの女の子が永瀬さん」
「ようこそ赤い館へ」
「いったいここはどうなっているんですか?さっきまで国立新美術館にいて、マティスの『赤い部屋(赤のハーモニー)』という絵の前にいたんですけど、いつの間にかその絵の世界に入ってしまいました」
「わたしが招待したのさ。ふぅ~、ふぅ~」
「なぜわたしたちを招待したんですか?」
「君たち3人に会いたかったからさ」
「何故?」
「わたしは美術を愛するものの中で、自分の気に行った人間を招待する」
「何故私たちを気に行ったんですか?」
「わしは君たちにいろんな場所で会っておる。国立西洋美術館でも東京国立近代美術館でも」
「では、あなたが美術館の魔物なのですね?」
「ふぉふぉふぉ。そう呼ぶものもおる。不本意じゃがね」
「なんで犬の頭なんですか?」
「わしはな、マティスの飼い犬だったのじゃ。マティスの芸術に対する情熱とともにわしもだんだんと絵の中に比喩化されて行ったんじゃ。それで気がついたらこのありさまさ。いつの間にか人間の言葉もしゃべれるようになった」
「芸術の権化という感じですね」
「そうとも言えるな。ふぉふぉふぉ」
「この赤い館から出るにはどうしたらいいんですか?」
「それは自分たちの頭で考えることだね。ただ今まで君たちが観た名画の中にそのヒントは隠れておる」
「この美術館の展示は含まれているんですか?」
「いいや、含まれていない」
「とすると「ゴヤ展」か「美術にぶるっ」ね」
「『着衣のマハ』じゃないか?」丸山さんが言った。「あの絵はここ数カ月の美術展の中でもフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』と並び称される作品だからね。着衣のマハといえばトルコ風の衣装だね。マハとは小粋な女という意味もあるよ」
「トルコ風の小粋な女ねえ」
「あっ、このクローゼットの中にトルコ風の衣装が入っているわ。しかも2着も」
「わたしたちこの衣装に着替えるから、丸山さんも美術館の魔物さんも目をあっち向けていてよね」
「ふぉふぉふぉ」
「はいはい」
わたしたちが着替えている間、二人はあっちを向いていたのだが、丸山さんにわたしと明石先輩がパンツ一丁になっているところを振り向かれた。
「こらっ!丸山!」明石先輩は威嚇した。そうすると丸山さんはすごすごとあっちを向いた。美術館の魔物はあっちを向いたままである。
わたしたちが着替え終わると、丸山さんは言った。「わー、オスマン朝トルコのお姫様みたい」といった。「ふぉふぉふぉ、そうじゃのう」と美術館の魔物も言った。
「片方のマハが着衣なら、片方は裸の方がいいんじゃないか?」丸山さんが指摘した。
「これでいいの!ね、美術館の魔物さん?」
「ふぉふぉふぉ、いいんじゃよ、いいんじゃよ」
「魔物さん、これで正解ですか?」
「正解じゃよ。ここから出してあげよう」
そしてしばらく、停電になったと思ったら、私たちは次の日の美術館の展示の第5章の真っただ中にいた。衣装は明石先輩も私もトルコ風のままだった。その人目を引くこと絶大で、「着衣のマハが降臨した」と噂になり、わたしたち二人の周りには人だかりができた。丸山さんは普段の私服のままでいた。恥ずかしかったが、マティスの「赤い部屋(赤のハーモニー)」の絵から出られた喜びが勝り、わたしたちは手を取り合って喜んだ。
「もう丸山さんに二度と会えないかと思ってた」わたしは涙ぐんで言った。
「この子真剣なんだからね。泣かしちゃ駄目よ」
「わかってるよ」丸山さんはわたしを見つめながら言った。
「わたし本当に丸山さんのこと心配したわ。だって絵の中に入っちゃうんだもん」
「ああ、あれは奇妙な体験だった。食べ物はメイドの出してくれるフルーツで何とかしのいだが、部屋のドアの外へ出るという勇気がなかなか湧かなくてね。君たち二人が来てくれなかったら、絵の中から出てこられなかったと思う」
「わたしたちに感謝してよね。絵の中に入って行くのがどれだけ勇気が要ったことか」
「僕の場合、第5章に来た時、バババーっと赤い閃光が閃いて、気がついたら絵の中だったんだけど、君たちはどうやって入ったの?」
「閉館間際に第5章に行って、そこでやはり赤い閃光が閃いて、気がついたら絵の中よ。わたしたちの場合、狙って絵の中に入ったっていう違いはあるけどね」
「だいたい閉館前の5時に美術館を再び回り始めた時から、頭痛がしたり、お腹が痛くなったりと異変はあったのよ」
「だけど、美術館の魔物って案外悪い人でもなさそうだったわね」
「うん。僕たちを簡単に外に出してくれたからね」
「丸山さん、私たちのパンツ一丁の姿見たでしょう?」
「あれは事故だよ。魔物の方から変な音が聞こえたから振り向いたんだ。そしたら君たちが半裸で」
「ばっちり見ちゃったのね?」
「うん。いいもの見さしてもらった」
「だいたい愛ちゃんは勝負パンツだったからいいわよ。部屋着用の小汚いパンツのあたしは立つ瀬ないじゃない?」
「しょ、勝負パンツって」
「明石先輩、女の子の秘密をばらさないで」わたしは懇願した。
「まあ、いいでしょう。しかし奇跡ね。本物のマティスの『赤い部屋(赤のハーモニー)』にも赤い部屋のポストカードにもばっちり丸山君が写っていたからね。しかも、まるでマティスが描いたように。それに誰も気づかず、当たり前のように買っていくのよ」
「私たちも一瞬だけど、マティスの絵に描かれていたんじゃないかしら」
「そう考えることもできるわねえ。誰も証人はいないけど。今じゃマティスの絵も元通りだし、ポストカードも元通りよ。人の記憶も改ざんされたのかしら」
「ねえ、また美術館の魔物に出くわさないうちに帰りましょうよ」
「あら、あなたたち二人はデート中じゃなかったの?」
「そりゃそうですけど」
「恵比寿に安くておいしいイタリアンがあるんだ。行ってみるかい?」
「いいですけど、このトルコ風の格好じゃあ」
「あっ、『赤い部屋(赤のハーモニー)』の絵の下に私たちの荷物と着替えが落ちてる。拾って、早く着替えましょう」
「丸山さん、今度は本当にあっち向いててよね。今度見たら、平手打ちを喰らわすわよ」
「はいはい。わかりました。絶対に見ません」
それでも丸山さんはわたしの体をちらちら見ていた。視線を感じた。わたしの体のいったい何処がいいのだろう?明石先輩の方がずっと魅力的ではないか?
「さあて、このトルコ風の服をどうするかよね」
「いっそのこと、絵の下に置いといたらどうですか?」
「そうしましょうか?」
「そうしましょう」
私服に着替え終わったわたしと明石先輩はトルコ風の服を「赤い部屋(赤のハーモニー)」の下に置き、美術館を出ようとした。そこで警備員に呼び止められた。
「困るなあ、こんな時間まで館内にいられちゃあ。トイレにでも隠れていたんですか?なにか悪さしてないでしょうね?さ、早く出てってください」
わたしたちは警備員に追い立てられる格好で国立新美術館を出た。明石先輩とは六本木駅で別れ、私たちは恵比寿へ向かった。その丸山さんおすすめのお店は、恵比寿ガーデンプレースを通り抜け、道を渡ったところにある。レストランは1階にあるのだが、2階にはイタリア語学校の教室があった。3階は日伊友好会館のようなものがあった。
レストランはスタイリッシュで奥行きが広かった。一つ一つの料理が丁寧に調理されていることがわかり、素材も良くとても美味しかった。しかもワインが飲み放題であった。
わたしは料理とワインに酔いしれ、丸山さんと楽しい時間を過ごした。あんなことがあったせいもあり、より一層丸山さんがいとおしく感じられ、なんだか親密になった気がした。それでも恵比寿駅までの帰り道、丸山さんにいきなりキスされた時はびっくりした。わたしは処女で男の人と付き合ったこともなく、これが2回目のデートだったのである。2回目のデートで初キスというのは、少し私には刺激が強すぎた。
「長瀬さん、なんかびっくりさせちゃってごめん」
「別に謝らなくていいですよ。ただわたしの初キスだったので、びっくりしたのと緊張したのとで、うまくできませんでした」
そこに急に美術の魔物が現れた。空を飛んでいた「ふぉふぉふぉ、楽しい時間は過ごせたかい?君たち2人には見所がある。いつか大成することを願ってるよ。ふぉふぉふぉ」といって飛び去って行った。
「俺、油がんばる。そして何年かかっても画家になる」
「私も美術館の建築がんばるわ。地方の大学じゃハンデがあるかもしれないけど、毎年夏には東京にインターンシップに来るわ」
その夜、丸山さんは優しくわたしを東大前の旅館まで送ってくれた。上がって行きなさいという筒長教授の誘いを断って、ジェントルな対応で帰って行った。
わたしは部屋に帰って、明石先輩に「明石先輩のところにも美術館の魔物、来ましたか?」と訊いた。
「ええ、来たわよ、空を飛んで。『君には見所があるからがんばりたまえ』って言って飛び去って行ったわよ」
「やっぱりそうですか。わたしたちのところにも来たんですよ」
「丸山さんとあなたには、何か進展なかったの?」
「丸山さんにキスされました」
「おー、丸山君もやるわねえ。きっとすごい勇気が要ったはずよ。丸山君もシャイなタイプだから」
「はあ」
「『はあ』じゃなくて、こんどはあなたが積極的になる番よ。スカイプとかラインとかのアドレスも交換しなくちゃ!遠距離になるんだからね必須アイテムよ」
「ふむ」
「ふむじゃないわよ。あなたのスマホちょっと貸しなさい」と言って、明石先輩はわたしのラインとスカイプのアドレスを丸山さんに送りつけた。丸山さんからは直ぐに返答があった。
「今度は俺が広島に遊びに行くからね」という内容だった。
○
翌月曜日からさっそくインターンシップの続きが始まった。二日間も休んでしまったこともあり、明石先輩は容赦無かった。一昨日昨日とあんな大事件があったというのに、休ませてくれるどころか、逆にわたしの仕事量を増やしたぐらいである。
おかげで平日の夜は丸山さんと会えなくなってしまった。週末はもちろん、丸山さんと素敵な休日を過ごした。わたしの初恋、初彼、、初キス、初○○○などなど、慣れないことばかりでどぎまぎすることも多かったが、わたしはこの恋と進んで行こうと思った。
○
そしていよいよ別れの日がやってきた。わたしは感極まって泣きそうだったが、丸山さんはどこ吹く風で、離れ離れになることをさほど気にしていないようだった。丸山さんは油科で比較的自由が利くし、子供のお絵かき教室などで結構アルバイト代を稼げるのである。ゆえに新幹線や飛行機などの贅沢をせず、高速バスを使えばわりと頻繁に広島に来れそうなのである。
しかしわたしは離れるのが悲しくて、新幹線のホームでぐずぐずしている。
「スカイプもラインもメールも電話も何だってあるんだし、そう寂しがること無いよ」と丸山さんは言ってくれて、その通りなのだが、別れの駅のホームというのは人を感傷的にさせ、わたしはいつまでもめそめそと泣いていた。
「長瀬さんはこの夏、色々なことを経験したわね」明石先輩が言った。
「リア充の仲間入りじゃないですか?」
「そりゃそうだけど、遠距離のリア充ってのは辛いわよ」
「これからも毎年、もしかしたら大学院まで、東京に来るんですから、そんなにめそめそしないで。あんまりめそめそしてると丸山君がまた美術館の魔物に摑まっちゃうわよ」
「美術館の魔物ってなんですか?」轟先輩は訊いた。
「あなたには関係無いの」
「つまんないの」
「丸山君、あそこでめそめそしてる幼児体型の女の子を助けてあげて」
「愛、いつまでもそんなに泣いているもんじゃないよ。またすぐに会えるんだから。秋にはお金を貯めて会いに行くよ」
「本当?」
「ああ、本当さ。君をモデルにして絵を描いてみたい」
「ヌード?」
「それも悪くないが、他の人には見せられなくなるな」
「焼き餅?」
「そう、焼き餅」
「自分で描いておきながら?」
「自分だけが観賞する絵にしたい」
「裸のマハみたいに?」
「そう」
「エッチ」
「悪かったね」
「そんな毅嫌いじゃないわ」
○
丸山さん、鹿島さん、綿貫社長、谷崎さんたちに見送られながら5人は広島行の新幹線に乗った。一抹の不安が愛のこころを横切ったが「同じ日本、なんとかなるわ」と自分に言い聞かせた。
広島に戻り、新学期が始まれば恋のことなど考える暇も無い程ハードな日々が始まる。なんたって3年後には建築士の試験に合格していなければならないのである。わたしは大学院進学も考えていた。やはり美術館建築のような高度な設計を行うためには必要かもしれない。画家を目指すという毅と自分の夢のどちらが果てしないんだろうと考えてみた。どちらの夢も果てしなくて、比べることはできなかった。だがわたしの場合、建築士の資格をとればなんとか食べてはいける。それに比べ画家というのは漠然とし過ぎていて、頼りない。このまま毅に将来を託してもよいだろうかという気持ちが、ふとわたしの頭をよぎった。しかしわたしはまだ18歳である。そこまで将来のことを考えずともよいのではないかという気もしてきた。今はとにかく毅のことが好きで好きでしょうがない。その気持ちを優先させようと思った。
「深刻な顔して何考えてるの?」明石先輩が訊いてきた。
「べ、別になんでもないですよ」
「どうせ丸山君のことでしょ?」
「先輩に訊きたいんですが、遠距離恋愛を成功させるコツとは何ですか?」
「相手を束縛しすぎないことと相手を信じるということね。それからコミュニケーションはこまめにね、束縛しない程度に」
「先輩の相手は35歳の大人でしょ?だからそんなことが言えるんじゃないですか?」
「あら、丸山君はそこらのちゃらい男とは違うと思うわ。どこか芯が通っているというか、一本義というか。だから今時、油なんかで食べてこうとしているんじゃないかしら。浮気の心配なんかないわよ。それにわたしたちは美術館の魔物に見込まれた3人組よ。きっと成功するわ」
「そこんとこがいまいち腑に落ちないんですよ。どうしてわたしたち3人なんでしょうね?」
「それは神、というより魔物のお導きね。さあ、そろそろ広島に着くわ。忙しい新学期の始まりよ。愛だの恋だのいっている暇はないの。がんばらなくっちゃ」
「はい、がんばります!勉強も恋も!」