3 安着の折
冬の寒さも幾分か和らいだ初春ではあったが、都内でも一、二の安さを誇るアパートでは隙間風が体の芯を冷やしていく。老婆はいつものように日暮れとともに床につき、四畳半の古畳の上で薄汚れた毛布に包まれ、芋虫のように丸まっていた。自然と目が覚めるのは決まって明け方であったが、その日は不思議と早くに目が覚めた。風雨が激しく窓を叩いている。しかしそれが理由ではない。何かの気配を感じてのことだった。
「誰だい?」
しわがれた声をだし、老婆は近くにあったスタンドのスイッチを押した。ぼんやりとした闇の中に色濃い影が浮かぶ。輪郭のない光景はまるで水墨画のように淡く滲んでいた。老婆の目は闇夜を見るには歳を取りすぎていた。それでも明かりをつけたのは自分の姿を見せるためであった。
「盗むもんなら、そこの机にあるのが全部だよ」
机の上には数枚の千円札と小銭しかない。影は微動だにしなかった。
「わたしゃ目が見えないから、さっさとそれを取って逃げればいいさ」
影は動かない。
「なんだい、こんなばばぁを脅かして何が楽しいんだい。老い先短い身なんだから静かに過ごさせておくれよ」
そう言うと老婆は布団に包まった。先程は自らの身を惜しむようなことを言ったが、本当は生への執着など疾うに無くしていた。子供を事故で、夫は天命で先立たれた身では、何が起きても悲しむ身内などいないからだ。
影が老婆の横に移動する。そして左手をそっと老婆の頬に当てた。
「ぁ……」
老婆は不意に触られたことに驚きの声をあげたが、真に驚いたのはその手の感触であった。節くれだった骨と皮だけの、それでいて熱のこもった手、−−あの時と同じ手だった。
心が伽藍洞になった玉音放送から季節が一回り過ぎた頃、東京は空襲の傷痕から立ち直るように、ぽつりぽつりと小屋が建ち始め、そこで女は一人で生活をしていた。かつて家であった場所の八割方を畑にして、自らは犬っころが住むような掘っ建て小屋に住んでいた。
女は器量が良かった。しかし、それは当時の女性には珍しい凜とした美しさであった。流れ者は女を見ると、まず没落華族の御令嬢かと勘繰り、独り者と知ると必ず声をかけた。中には闇市で財を成した者もいたが、女は頑として首を縦に振らなかった。その内、女に声をかけようとするものはいなくなった。
「いかれちまったのかねぇ」
「せっかくの器量もアレじゃあねぇ」
噂だけが女の影を追うように囁かれた。
嵐の夜、女は一人で畑に布を被せていた。しかし、風は苗木を押し倒し、雨は土を攫っていった。それは途方に暮れる女をも飲み込みそうな勢いであった。しかし、どんなときでも女は諦めなかった。国が敗れ、人が荒み、全てが平らで暗鬱とした世界であったが、心の中に灯る篝火のような希望を寄る辺に、生きねばならないと強く臨んでいたからであった。
不意に女の前に人影が現れた。
「加代子」
女は手を止め、顔を上げた。
「遅ぅなった。やっと帰って来れたわ」
加代子は息を呑んだ。体は蔦に這われたように固まり、足は根が張ったように動かない。富一さん、と絞り出すように呟いた声は水気を孕んだ空気を震わすこともなく霧散する。
本当はすぐにでも駆け寄りたかった。でも、そうすると消えてしまうのではないか、周りが言うように自分は気が違って、おかしくなってしまったのではないか−−
「なんばしょった?」
その一言で、何度も夢に見た昔のままの言葉で、この数年間耐えてきたものが、支えてきたものが、加代子の中で、決壊した。加代子は富一の胸に頭を埋め、幼子のように泣きじゃくった。鳴咽と共にでる呻きは上手く言葉にならなかった。それでも富一は理解を示すようにそっと加代子の頭と頬に手を添えた。その手は昔に比べ痩せこけ、銃弾で右手中指の第二関節より先は失っていた。変わり果てた手ではあったが、加代子はその手の温もりを忘れてはいなかった。
風が窓を大きく叩いていた。加代子は添えられた手に自らの手を添え、昔のように泣いていた。
「あの時は三年間、貞操を守りましたけど、今度は十年間も操を立てましたよ」
返事はなかったが、どうでもいいことだった。手の温もりが、骨張った四指の手の温もりがあれば、今の加代子は満ち足りることができた。
「あちらで和義には会えましたか?」
小さくして亡くした息子のことを尋ねる。頬に触れられた手が肯定を示すように優しく動いた。
「あちらはとても良いとこなんでしょう? 富一さんも和義も、なかなか帰って来ないですもの。二人揃って私を待たすなんて、本当、似てるんだから……」
風が音をたてる。窓の外ではなく加代子のすぐ隣で。凄まじい轟音で加代子は自分の発した言葉すら耳に届かなかった。
加代子は呟いた。
「ありがとう、最後に夢を見させてくれて」
もう何も聴こえない耳だったが、加代子は確かに聞いた気がした。なんばしょった、と。
【とある情報誌の記事より】
16日未明、都内のアパートで女性の遺体が発見された。女性は住人の小林加代子(92)と見られ、死因は事故と事件の両方で捜査が進められている。高齢のため老衰によるものと考えられたが、金銭は所持していたにも関わらず数日間食事を取った形跡がないことなど不審な点が伺える。そして第一発見者である今藤功夫(84)が重要参考人として署に連行されている。今藤容疑者は当時、自宅で自らの左手中指を包丁で切断した後に小林さんの家に訪れるという不可解な行動を示しており、それらの事情については依然として黙秘を続けている。本記者の調べでは以前から小林さんに恋慕の情を抱いていたとの情報が寄せられており−−




